「大体君は常日頃から態度が悪過ぎるんだ!よくもまあそんな呼吸をするように暴言を……」
「てめェがガン付けてきたんだろがクソメガネ」
「また言ったな!?眼鏡は体の一部と言っても過言ではないんだぞ、そんな風に侮辱するのはやめてもらいたい!」
「……なんで揉めてんの?」

 賑やかな声を頼りに辿り着いた食堂、扉を開けた瞬間真っ先に目に入ったのは、目の前の男をピシピシと手で差しながら憤慨する飯田くんの姿だった。呆れたように肩を竦めたピクシーボブが空いてる席を指差してくれたので、若干困惑しながら峰田くんの隣にそっと入り込む。まあ流れは何となく想像がつくけれど……。周りのみんなは自分の胃にご飯を入れたりお喋りするのに忙しいようで、ぷんぷん怒る飯田くんのことはそこまで気に留めていない様子だった。

「あっ、ほたるちゃん!待ってたよ〜」
おっせえよ!さっさと食わないとそろそろ切島あたりが白米食い尽くしちまうぞ」

 わたしを見るなりぱっと顔を明るくしたお茶子ちゃんが、手元にあった大きめのお皿をこちらに差し出してくる。上にはテーブルの上に並んでいる大皿の中身がバランスよく盛り合わせてあって、どうやら夕食に出遅れたわたしのために彼女がおかずを確保しておいてくれたようだった。隣の峰田くんにせっつかれ慌てて箸を手に取ると、後ろから伸びてきた小さな手が、机の上にお米の入った茶碗を無造作に置いていく。振り向いた先にちらりと見えた仏頂面は、たぶん施設に入る前に何度か見かけた男の子――マンダレイの従甥の洸汰くんだろう。
 そこでようやくわたしの存在に気付いたらしい飯田くんが、ぴたりと動きを止めて四角い目を丸くした。

「ム――南北くん!手の調子は大丈夫だったかい?」
「特に問題なさそうだってさ。感覚的にも今は普通……かな」
「そうか……大事ないなら良かった。緑谷くんが随分心配していたよ」
「あはは……って、あれ?デクは?」

 椅子に座り直しながら飯田くんが告げた言葉に、心配そうなデクの顔が目に浮かんでつい笑みが溢れてしまったのだけれど、そこでふと気づく。
 峰田くんの反対隣、飯田くんの目の前で夕食を掻き込む爆豪あいつとわたしの間にぽっかり空いた空間――見回した感じでは出席番号順に座っているようだし、順当にいけばそこにはデクがいて然るべきなのだけれど、机の上に食べかけの皿が残されているだけで本人の姿は見当たらない。
 きょろきょろと左右を見回すわたしの前で、お茶子ちゃんが笑いながら自分の背後を指さした。

「あっち」
「――あ、いた」

 お茶子ちゃん達の後ろ側にあるテーブル、こちらに背を向けて座る耳郎じろちゃんや障子くんのそばに見慣れたモジャモジャ頭を見つけた。椅子にも座らないまま何やら夢中で話し込んでいるらしいデクは、時折口元に手を当ててはブツブツと何事かを呟いているようだ。何やってんだろ、ご飯乾いちゃうのに――などと考えつつ両手を合わせて自分の食事に取り掛かると、今度は飯田くんの横でお水を飲んでいた梅雨ちゃんがちらりと背後を見遣った。

「戻ってきたって気付かないのね。あんなに心配していたのに」
「心配だからこそ、ああなっているんじゃないか?」
「……?何かあったの?」
「ちょっとねえ」

 尋ねてもお茶子ちゃんは微笑ましげに目尻を下げながらそう言うだけ。何だかよくわからないけど、それこそ飯田くんと爆豪あいつのように揉めているわけでもなさそうだし……まあいいか。正直声を掛けに行くような気力もない。豆腐の味噌汁を啜った後、ほっと息をつくようなふりをして、わたしは人知れず小さな溜息を漏らした。

 頭の中は“魔獣の森”で起こった事件のことでいっぱいだ。溢れ出て止まらない“個性”、手のひらで触れた途端に爆散した土人形、何故だか知らないけれど隆起して破裂した地面……どれも人生で、自我がはっきりしている中では初めての経験だった。
 あの時は混乱していて余計に訳がわからなかったのだと思うけれど、今努めて冷静に思い返してみても、何の力がどう働いてあんな現象が起こったのかさっぱりわからない。わたしの“個性”は磁力と熱――それも効果範囲は限定的だ。少なくとも、触れただけで意図せず物を壊してしまったなんてことは今までに一度もない。
 自分の“個性”のことがわからないなんて、そんなこと普通あるはずがないのに――考えれば考えるほど頭が痛くなってきた。

(――でも、何とかしなきゃ。何とかするって言っちゃったもんなあ)

 明日からは本格的に合宿がスタートするわけで、そうなれば当然“個性”を使った訓練も始まるはず。そんな時に制御に失敗してあれこれ暴発させてしまうだなんて、下手をすれば一人だけ見学を言い渡されたっておかしくない。それだけは絶対に嫌だ。みんなに追いつこう、わたしも強くなろうと決意を新たにした矢先、一人膝を抱えてみんなの特訓をぼんやり眺める自分の姿。想像するとお腹の奥が嫌な感じに捩れたような気がした。
 どうかそれだけはご勘弁を!という思いが先走って、相澤先生にはついつい“何とかします”だなんて口を利いてしまったけれど、まずあの時何が起こったのかさえいまだに理解できていないし、理解できるような気配すらない。爆発って何なのほんとにもう、爆豪あいつじゃあるまいし――ただ、火の匂いや熱は感じなかった……ような気がするし、多分爆豪あいつの起こす爆発それとは根本的に違う何かだ。
 というか、そもそもわたしの手からは“磁力”しか出ないはずだったんだ。そこに“熱”が加わった時でさえかなり動揺してしまったのに、ここへ来てまた別の何かが出るようになりました、なんてことになるといよいよ訳がわからない。“個性”は一人ひとつまで、“磁力”と“熱”は一つに混じり合った不可分の“個性”だとしても、更に追加されようものなら流石に自分の異常を疑ってしまう。だからきっと、今更“知らない力が眠っていました”なんてことにはならないと思うのだけれど――、

(いや――逆に、そうだとしてもおかしくはないのかな)

 思いたくはないけれど、これ以上考えると変になってしまいそうだけれど、そんなことがちらりと脳裏を過ぎる。そう、“熱”が発現した時だってわたしにとっては十分すぎるほどの大事件だった。自分に単なる“磁力”以外のものが備わっているだなんて夢にも思っていなかったのに、その力は確かにわたしの中にあったのだ。
 そして――それが現れた体育祭あのときと、未知の現象を起こしてしまった今。状況は全く違うように見えて、実を言うとそうでもない。

“――原因に心当たりは?”

 先程相澤先生にかけられたばかりの言葉を思い出す。ある。あるに決まってる・・・・・・・・。騒動の渦中では動揺し過ぎて意識していなかったけれど、思い返せばあのときと今、わたしの心に波紋を生んだのは――影を落として掻き乱したのは、同じ人間だった。

 きっかけは、隣のクラスの彼。
 原因は、わたしの頭の中にいつまでもこびりついているクソ野郎。
 そうとしか、考えられない――。


「――ゃん……あのー、ほたるちゃん!?」

 慌てたようなお茶子ちゃんの声に呼びかけられてはっと顔を上げる。なに、とわたしが答えるより早く、彼女は若干青ざめた顔でわたしの手元を静かに指差した。

「冷や奴!えげつないことになっとるけど……!?」
「――あっ、……あー」

 手元を見下ろしたわたしの口もつい引き攣る。目の前にある冷や奴のお皿が、ちょっと目を離した隙に醤油の海と化していた。どうも考え事をしながら無意識のうちに醤油差しを傾けていたようで、気づいた瞬間他を飲み込む圧倒的なしょっぱい香りが鼻を突く。隣の峰田くんが「うげぇ」などと呻きながら顔を顰めたのがわかった。
 やっちまった。机の上まで溢れなかったのは不幸中の幸いだ。まあ幸い豆腐自体は淡白なお味だし、多少塩辛くてもお米と一緒ならいけないこともないはず……。腹を括りながらそっと醤油刺しを机の真ん中辺りに戻そうとしたその時――ふと、左隣と目が合った。

「――」
「……」

 思わず息を呑んだわたしとは対照的に、向こうは意外なほどに静かな表情かおをしていた。決して機嫌がいいとか、そういうわけではないのだけれど――眉間の皺はいつもよりずっと浅くて、“森”では怒りに赤く燃えていた瞳も今はただ静かにわたしを流し見ている。
 元の場所に醤油を戻そうとした体勢と、そのすぐ隣の一味に手を伸ばした格好のまま、わたしと爆豪あいつはほんの数秒だけ固まった。わたしは何だか緊張してしまって、自分の喉がこくりと鳴った音がいやに大きく聞こえて。

“――邪魔だ、すっこんでろ”

 脳裏に蘇ったのは、突き放すように響いたあの言葉。まったくおっしゃる通り、突然のことに動揺して少しも“個性”を制御できていなかったわたしが悪い。それがわかっているだけに、余計に無力感が身に染みて――こうして目を合わせるだけのことが、何だかとてつもなく気まずかった。

 体感では10秒くらいそうしていたような気がしたけれど、多分実時間ではほんの一瞬のことだ。絡まっていた視線は不意に断ち切れて、ひったくるように一味を手に取った爆豪あいつは何も言わずに自分の皿に向き直った。
 目が合ったことに文句の一言も無いのがなんだか意外で、思わず少し遠巻きな場所にあるその横顔をしげしげと見つめてしまう。それに気付いているのかいないのか、無言のまま皿の上に一味を振りかける爆豪あいつの口元が徐々に歪んでいくのが見えた。あれは不機嫌――いや、不快・・?怒っているというより、やり場のないモヤモヤに苛立っているような――。

(……なんで、あんたがそんな顔するかな)

 きっと、怒りだったらとっととわたしにぶつけている。というか、いつもそうするようにデクや飯田くんや他のみんなにも怒鳴り散らしていると思う。でも先程ぷりぷり怒っていたのは飯田くんの方で、爆豪あいつはにべもなくあしらっていただけ。だからきっとその苛立ちは、周りの誰かに向いたものじゃない。

(なんで――わたしの顔見た後に、そんな顔するかなあ)

 悪い癖だというのはわかっているけれど、色々と考えるうちに全部わたしのせいのような気がしてきて、どうしようもなく胸の奥が疼いた。
 どうしてわたしの“個性”がおかしくなってしまったのか、勘のいい爆豪こいつには分かってしまっただろうか。だから、嫌な話むかしを思い出してしまったから、こんなに忌々しげで――一周回って悲しみさえ孕んでいるように見える顔を、しているのだろうか。
 謝ったりしたらきっと怒られるんだろうなあ――ああ、考えがどんどん関係ない方へ逸れていく。そんなことより今は“個性”のことだ。何とか原因を把握して解決策を考えないと、このままの状況では磁力の発動すら躊躇われる……わかっているのに、焦り、困惑、不安、嫌な記憶、これからのこと、頭の中の歯車全部がミキサーにかけられたみたいにぐちゃぐちゃで、思考は空転を繰り返すばかり。
 醤油でびちゃびちゃの豆腐を口に運ぶわたしの耳に、みんなの賑やかな話し声が絶え間なく流れ込んでくる。後で互いの部屋を見に行こうだとか、明日からどんな訓練が始まるんだろうとか、ご飯が美味しいとか、お風呂はどれくらいの広さなんだろうとか――その全部がまるで自分とは関係ない世界の出来事のように聞こえて、指先が静かに冷えていくのがわかった。
 とにかく、今は目の前の食べ物を胃に押し込んでしまうしかない。早く空きっ腹を満たして、さっさとお風呂に入って。

 誰もいないところに行きたい――そんな思いが脳裏を過った。みんなのそばに居ると、明るい場所に居ると、思い出に落ちた黒い影の中が見えなくなってしまう。無理に覗き込もうとすれば、きっと過去の重みに引き摺られて動けなくなって、みんなに心配をかけてしまう。
 一人で考えたい。痛みを我慢する時は、父親あいつのことを考える時はいつもそうしていた。お母さんもいない真っ暗な押し入れの中で、じっと息を殺して自分にあれこれ言い聞かせるのが習慣で。痛みや苦しみは一人のうちに整理してしまわないと、他の人に迷惑をかけてしまうから。お母さんに、“自分のせいだ”って、また苦しい思いをさせてしまうから。


 だから、誰も居ないところで。何の音もしない場所で。
 今は、ひとりに――。


「――ほたるちゃん!」
「――ひぃ!?」

 ぼんやりしていたところに、突然耳元で大声を張り上げられて変な声が出た。危うく取り落としそうになった箸をしっかり捕まえ直し、ばくばく騒ぐ心臓を努めて抑えようと深呼吸しながら振り向くと、わたしの左隣に慌てた様子のデクの顔がある。いつの間にか向こうのテーブルからここまで戻ってきたらしい。
 びっっっっくりした。咄嗟に言葉も出ないまま目を丸くするわたしを前に、彼は珍しく興奮気味な様子だ。普段なら“驚かせてごめん”と謝ってきそうなものなのだけれど、椅子に掛け直す素振りもないまま、開口一番出てきた言葉は――

「アリの巣!」

 ……は?

「……は?」
「アリの巣だよ!みんなから色々聞いてやっと――あっ、えーと、どこから説明すれば……!」

 何がどうしてその単語が出てきたのかわからず、ぽかんと口を開いて惚けるわたしにデクは尚も畳み掛け――そこでようやく我に返ったらしく、言葉を探すように視線をあちらこちらへ泳がせる。割と論理的にものを言う彼にしては珍しい素振りのような気がした。言葉が整理できていない彼と訳がわからないわたし、二人揃っておろおろしていると、お茶子ちゃんと飯田くんの間から耳郎じろちゃんがひょっこり顔を覗かせて、伸ばした耳たぶでデクの肩を落ち着かせるようにトントン小突く。

「落ち着け緑谷。南北の“個性”の話」
「そ――そう!ほたるちゃんの“個性”の件、色々気になって考えてたんだけど」
「……え?」

 ようやく落ち着いたらしいデクがそんなことを言うので、わたしは片手に箸を握ったまま目を丸くしてしまった。
 わたしの“個性”の話――デクが?思いもよらない話に一瞬呆けてしまったけれど、すぐに彼の性格を思い出す。何と言っても彼はヒーローオタク、何なら長じて“個性”オタクみたいなものだ。昔から世間で活躍するヒーロー達の“個性”を、そして今では未だヒーロー未満の同級生達の“個性”まで丁寧に蒐集してはノートに纏めていて、新しめの冊子にはわたしの“個性”も記載されているはずだった。今回の事件でその研究心が刺激された、みたいなことだろうか。
 内心納得するわたしを他所に、彼は先ほどまでよりは冷静な口ぶりで――それでもまだ幾分興奮冷めやらぬ様子で、早口気味に語り始める。

「あの“魔獣”を木っ端微塵にしたり、地面が爆発したり、普段の“個性”とは違う挙動だったよね。もしかすると磁力以外の何かが干渉したのかもって、最初はそう思ってたんだけど……でも、耳郎さんがアリの巣・・・・かもしれないって」
「だからその、アリの巣って……?」
「あー、だからさ。あんたの様子がおかしくなったとき」

 もういい、と言わんばかりに耳郎じろちゃんが話を引き継ぐ。肩を竦めながら口を開いた彼女は、ちらりと背後を――耳郎じろちゃん達が本来座っている長椅子の方を振り返った。

「あのとき叫び声が聞こえてさ。振り返ったら口田が超慌ててて」
「口田くん?」
「そ。何事かと思ったら、あいつ頭からアリの群れ・・・・・被って泣いてたんだよ……後から聞いたら、障子とあんたのそばで地面が爆発したとき、そっちの方からアリがうじゃうじゃ吹っ飛んできたんだって」

 言いながら、別段虫が駄目という訳でもないはずの耳郎じろちゃんの顔も若干青ざめているように見える。頭からアリの群れを被る、という状況は初めて聞いたけれど、わたしも想像すると流石にちょっと気持ち悪い。虫が駄目な口田くんなら余計に辛い思いをしたんだろうなあ――というか待って、その口ぶりだとそれがわたしのせい・・・・・・ってこと?
 口に出さなかったその疑問にはデクが答えてくれる。

「つまりあの時――って言っても僕は直接見てた訳じゃないんだけど……話に聞いた“爆発”っていうのは、何もない場所が突然爆ぜたわけじゃなくて、地面の中にあったアリの巣が破裂した・・・・んじゃないかっていう仮説が立つよね」
「な、なるほど……?」
「それにもうひとつ、八百万さんの話もあって……」
「――そうなんです、私見ていましたの」

 今度は私が座る席の一番端、峰田くんの隣でお上品に、けれどしっかりたくさん食べていた八百万やおちゃんが立ち上がって胸に手を当てた。何故かちょっぴり誇らしげなところが可愛らしい――けれど、口ぶりは真剣なものだ。

「私は兵器を“創造”するために後方に――みなさん全員の様子がよく見える位置に控えていましたから。当然南北さん、あなたの“個性”が不調を来した騒ぎの時もすぐに気が付きました。そして……ええ、見ていたのです。南北さんがあの“魔獣”を爆発四散させた瞬間を、この目で!」

 八百万やおちゃんが言うには、“魔獣”が木っ端微塵になったあのとき、先に切島くんがあの怪物の脚の付け根辺りに軽く一発お見舞いしていて、ヒビ・・をもう少し酷くしたような細く裂けた傷が出来ていたらしく。

「その後あなたが“魔獣”に触れ、“個性”の光が体表を這う様子も目撃していたのですが――赤い光は、切島さんが付けた傷の辺りで吸い込まれるように消えて・・・しまったのです」

 と、いうことだった。
 切島くんが付けた傷の辺りで、光が吸い込まれるように消えた。つまりそれは……それは?どういうことなんだろう。まだ頭の回転が鈍っているのか、微妙に話について行けていない。疑問符を浮かべながら固まるわたしの顔を、デクの丸い目が真剣な色を帯びながら軽く覗き込む。

「その話を聞いて思ったんだ。ぱっと見では“魔獣”も爆発したように見えたらしいけど――実はそうじゃなくて、アリの巣みたいに内側から破裂・・したんじゃないかって」
「破裂……」
「……南北さん、これを」

 オウムのように繰り返すわたしの傍へ不意に八百万やおちゃんが寄ってきて、剥き出しの腕から“創造”した何かをわたしに差し出した。面を色とりどりに彩られた立方体――紛れもなく、どこからどう見てもルービックキューブだ。されるがまま受け取ると、八百万やおちゃんは立て続けにもう一つ何かを腕から創り落とす。今度は真っ白な面に刻まれた黒や赤の点――サイコロ、にしか見えない。大きさはルービックキューブと同じくらい、一般的なものに比べると随分立派だ。ただのダイスというより置物のように見える。八百万やおちゃんはふたつをわたしに手渡して、背後の方、先ほどまで食材が置いてあった空きテーブルの上を指差して言った。

「これで実験・・いたしましょう。あの辺りで」
「……え!?」
「本当なら、食事を終えて落ち着いてからの方がお行儀が良いとは思うのですが……ずっと上の空のようですから。不安があるならば早く解消してしまったほうが良いはず」
「そっか、この二つに磁力を流せば……!」

 デクは何だか納得しているようだけれど、わたしは訳がわからないやら何やらで、二つの箱を両手に持たされたままぎょっとしてしまった。実験ってなに。今の話の流れ的に“個性”を使えってこと?いやいやいや、

「無理!無理だって、また暴発しちゃうかもしれないし……!」
「先ほどはいつものように両手を合わせれば収まったではありませんか。試してみる価値はあると思いますわ」
「でも……!」

 さっきの今でまた“個性”を使う気には――いや、明日には使い始めるつもりでいたんだから変わらないのかもしれないけれど、でもちょっとまだ心の準備が。ここには相澤先生も居ないんだから、何かあっても見て・・もらえないのに。
 つい尻込みしてしまって、二つの箱を八百万やおちゃんの方に差し出し返すと、それを傷だらけの手にぎゅうと押し留められる。デクのつぶらな瞳がまっすぐに、力強ささえ孕みながらわたしを見据えた。

「大丈夫」
「へ……」
「大丈夫だから」

 はっきりと言い切るその声は、何だか背中を押すような優しさを帯びているように聞こえた。丸い両目と押し合うように見つめ合うこと数秒――向こうは逸らす気配も、箱を受け取ってくれる様子もない。折れるしかなさそうだった。
 小さく息を吐き出しながら押し返そうとしていた両手を引っ込めると、デクが道を譲るように脇へ避ける。こうなるとさっさと終わらせてしまったほうが注目を浴びずに済むような気がして、わたしは緊張でいつもよりやかましい心臓の音を聞きながらそそくさと空きテーブルの前へ向かった。
 木のテーブルに二つの立方体を転がして、左右の手をその上にそっと構える。そもそもこれが何のための“実験”なのか、一体何が“大丈夫”なのか、何もかもわからないままなのだけれど――とにかく、やってみるしかない。

(……慎重に、蛇口をほんの少し開けるだけ)

 イメージを固めつつ深呼吸をひとつ、覚悟を決めて両手のひらに意識を集中する。慎重に、とにかく慎重に、細心の注意を払って蛇口・・を捻った――の、だけれど。

「――っ……!」

 想像を超える量の力が流れ出すのを感じて思わず全身が強張る。ハンドルをほんの少し捻るだけのつもりが、手が滑って結構な水量が迸ってしまったような手応えだった。一瞬両手を合わせて止めてしまおうかと逡巡したのだけれど――それでも、“森”で起こったような駄々漏れの状態ではなさそうだ。調整には難儀するけれど、全くどうにもならないという感じではない。少し時間を置いたおかげか、“個性”の方もいくらか落ち着いてきているらしい。
 歯を食い縛り、これ以上磁力が溢れないよう押し留めながらどうにか手を伸ばす。S極みぎをルービックキューブに、N極ひだりをサイコロに。力を纏った左右の手のひらを、ふたつの箱へ一息に押し付けた。

 ――瞬間、ぱきりと割れるような音が確かに聞こえて。

「うわっ!?」
「うぉぉぉ!?何だ!?」

 わたしの声に峰田くんの悲鳴が重なる――どうやらわたしが上げた叫び声に驚いたらしい。反射的に顔を庇った腕に、こつりこつりと小さな軽いものが幾つか当たっていった。びっくりはしたけれど、痛みも衝撃も大したものではない。そっと腕を退かせて机の上を見遣れば、机の上には二つの物体。
 磁力を帯びる前と変わらない様子でそこに転がっているサイコロ。そして――大半のキューブが外れて、随分貧相な見てくれになってしまったルービックキューブの核の部分が、“反発”による赤い光を断続的に瞬かせながら、カタカタと小刻みに震えている。触れた瞬間に聞いた音は、キューブの一部が核から無理やり引き剥がされた時のものだったようだ。

「……やはり、緑谷さんのおっしゃる通りですわね」

 とりあえずそっと両手を合わせて“個性”を解いたわたしの側へ、興味深げな面持ちで呟きながら八百万やおちゃんが歩み寄ってきた。頷きながらそれに続いたデクが、反発を失って大人しくなったルービックキューブだったものをひょいと手に取って、わたしに見せるように胸の前へ掲げる。

「サイコロは何ともなくて、ルービックキューブだけが壊れた……二つの違いは、隙間・・があるかどうか」
「隙間?」
「うん。隙間があるから、そこから中に磁力が入り込む――同じ極の力が染み込んで、内側から反発し合う・・・・・。だから爆発するみたいに壊れるんじゃないかな……あくまで仮説だけど、状況的にそう考えるのが一番自然だと思う」
「で、でも……今まではそんなこと、全然……」

 すっかり痩せ細ったルービックキューブをしげしげと眺めてみる。キューブとキューブの間に隙間がある、と言われれば“確かに”とは思うのだけれど――経験上、このくらいの小さな隙間はひとつの“面”として扱ってきた記憶しかない。わざわざ意識しなくても、わたしの磁力はこの程度の些細な溝は飛び越えて広がっていたはず。それくらい大雑把・・・な“個性”なのだ。基本小さめの物体に纏わせる時は外からざっと包み込むような挙動になってしまうし、もともと精密な操作には向いていないのだと自分では思っていた。
 それがヒビだの隙間だの、そんな細かいところから染み込んで、その上内部で反発し合うだなんて――つまりあの小さなキューブひとつひとつの表面に満遍なく、力のムラもなくS極みぎが広がっていたということだ。そうしようだなんて少しも意識していないはずなのに。
 どうして。おかしい。
 脳裏を疑問で埋め尽くしながら呆けるわたしの前で、デクは少しの間言葉を探すように視線を彷徨わせて黙っていた。やがて優しい瞳が意を決したように前を向いて、まっすぐにわたしの目を射抜く。

「――これは、君の力だよ」
「……?」
「どうしてそんな風になっちゃったのか、詳しい原因はまだわかんないかもしれないけど……でも、ほたるちゃんの“個性”だ。正体不明のどうしようもない力じゃない」

 訓練すれば制御できるはずだし、制御できればそれは“できることが増えた”ってことだ。
 デクの言葉の一つ一つが、静かに胸の中に落ちていく。また何か得体の知れない力が発現してしまったんだとしたらどうしよう――そんなわたしの不安が、いつの間にか彼には伝わってしまっていたのだろうか。傷だらけの指がルービックキューブの残骸を机の上に戻して、代わりに所在なく垂れ下がっていたわたしの手をやんわりと握った。

「僕も“個性”の制御には苦労してて、そういう意味でも色々力になれるかもしれないし…… 訓練するなら手伝わせて!」
「ていうか、そんなの改まって宣言するまでもなくない?もう勝手に分析とかしまくってるし……」
「え!?あっうん!それもそうかも……!」

 呆れ混じりの耳郎じろちゃんに笑われると、デクはぎょっとしたように頷いて、恥じ入るように目を逸らして後ろ頭を掻く。わたしはそんな彼の表情を、不思議な思いで見つめていた。
 いつぞやの路地裏での出来事を思い出す。痛む体を引き摺りながら大通りに向かって歩いたあの晩。それまでわたしにとってはただ守るべき対象だった彼が、“君と一緒に戦えて嬉しかった”と言ってくれたあの時――胸を満たしたふわふわとした感情の名前を、今ようやくはっきりと理解したような気がした。
 当たり前のようにわたしと同じ線の上に立とうとしてくれる。不安な時は手を握ってくれる。重たい荷物は分け合おうとしてくれる。それが“友達”で、おそらく“仲間”で。

 ――この気持ちはきっと、“信頼”だ。

 やんわりと握られていた手に力を込めて握り返す。気付いてこちらを見遣るデクの瞳に一度にっこり笑いかけて、それから繋いだ手を大袈裟にぶんぶん振ってやった。「わわわ」と情けない声を出して驚く彼の様子につい口元を緩ませながら、わたしは離した片手で彼の肩をぽんと叩く。

「あてにしてるよ」

 目を丸くしたデクは、やがてはにかみながら力強く頷いた。「俺も、何か力になれることがあれば言ってくれ」「私も手伝うよ!」と、飯田くんやお茶子ちゃんも手を挙げてくれる。ほんの少し、胸の奥をぎゅうと締め付けるような罪悪感を振り払って、わたしは静かに息を吐いた。
 優しいみんなに、昔のことを知って欲しいとは思えない。みんなには何の関係もない話なのに、きっと心を痛めてしまう。気を使わせてしまう。だから事情は話せない。
 けど――話せなくても、教えられなくても。

(……一緒にいたって、いいんだよね)

 荷物の全てを渡すことはできなくても、いくらか分かち合ってもらうことはできるはず。多分、それでいいんだ。何もかもを預けることはできなくても、できる範囲で寄り掛かれば。
 これまでのわたしは、一人で全部抱え込んだせいで、大切な幼馴染を手酷く傷付けてしまったのだから。同じ轍はもう踏みたくない。
 考えながら、無意識に視線が爆豪あいつの背中を追った。空席が増えてがらりとした机の前で、ツンツン頭はただ黙々と食事を口に運び続けているようだ。
 彼には何度も嘘を吐いた。強いふりをしている自分を壊さないように、今にも崩れそうな壁を何とか押し留めるために、“大丈夫”と、そればかり繰り返して、大きくなってからもそれでたくさん苛立たせてしまった。だからこそ今がチャンスなんだ。
 過去を仕舞い込むんじゃない、乗り越える。強いふりをするんじゃなくて、本当に強くなって――。

「……本当に、大丈夫になってみせるから」

 呟いた声を拾ったのは爆豪あいつではなく、目の前ではにかみっぱなしだったデクだった。当然意味が分からなかったのだろう、ぱちくりと瞬く双眸にわたしはただ笑みを返す。
 誰に言えなくとも、心持ちは少し変わった。あとはわたしが本当に強くなれるかどうか、それだけだ。腹が減っては戦はできぬ、まずは依然ほぼ空っぽの胃にものを入れるべく、わたしはお茶子ちゃん達が待つテーブルの前に戻っていく。土に薄汚れた両足は、先程までよりは随分軽くなっていた。

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