「……うん、見たとこ異常はなさそうだね。目立った怪我もない」

 過酷な最初の“試練”を終え、皆が食堂で一心不乱に夕食を掻き込んでいる頃――施設内の某室にて。
 土に汚れた制服をぱたぱたとほろいながら少女の体の隅々を確認し終えたマンダレイは、最後にテープの粘着でほのかにべたつく両腕をくまなく確かめると、頷いて手を離した。
 少女――南北は口を重く閉ざしたまま、解放された自分の両手をじっと見下ろす。一通り彼女の体を診たマンダレイの言う通り、“魔獣の森”を抜けてきたせいであちこち泥に汚れてはいるものの、他の生徒に比べれば外傷の類はあってないようなものだ。
 ただ、俯きがちなその瞳には疲れとは違う重苦しさが纏わりついていた。テープに拘束されていた腕に差す赤みとは対照的に、顔には些か血の気が足りていないように見える。
 話に聞いた、先の“暴走”が原因なのは明らかだった。少し離れた場所に佇み黙って様子を見守っていた相澤は、単刀直入に一言切り込む。

「原因に心当たりは?」

 少女が小さく息を呑むのがわかった。相澤は黙って答えを待つ。マンダレイ、そして入り口付近から遠巻きに様子を見守っていた大男――しなやかな筋肉質の四肢を、かわいらしいフリルの裾から惜しげもなく曝け出した、ワイルドワイルドプッシーキャッツの一員“虎”もまた、口を挟むことなく黙って成り行きを見届けている。

「……」

 南北の唇が小さくわなないた。見て取れたのは“躊躇”だ。そのまま何度かはくはくと控えめに動いた唇は、やがて一度ぴたりと閉じ合わされ――再び開いたその隙間から、平時に比べれば随分と覇気のない声が小さく漏れた。

「――ある、けど……でも……」

 そこで少女は言い淀む。
 自分の中に渦巻く感情をうまく言語化できないのか――あるいは、したくない・・・・・のか。いずれにせよ、その胸中に何かがつかえて取れなくなっているらしいということは、この場にいる誰の目にも明らかだった。
 “心当たりは”などと敢えて問うたが、その“原因”とやらを相澤はとうに知っている。彼女が“個性”の制御もままならぬほどに心乱される事柄など、知る限りではひとつしか有り得ない。
 そしてそれは、その記憶は、子供一人で――いや、大人だろうが何だろうが、単身腹の底へ飲み込んでしまうにはあまりにも不快な痛みを伴う劇物だ。
 少女はしばらくの間黙り込んだまま、脳裏では一生懸命続ける言葉を探しているようだった。
 そして。

「――でも、大丈夫です!」

 先程のか細い声とは一転、はっきりと告げられた言葉は、気のせいでなければ微かに震えているようにも聞こえる。
 意外な言葉だったのか、マンダレイは目を丸くして驚いていた。頻りに瞬きしながら自分の方を見下ろす彼女には視線を向けず、南北はまっすぐに相澤の黒い瞳だけを見つめる。

「何とかします。絶対に」

 深呼吸を経てから吐き出された声は、今度は震えることなくしっかりとした響きで耳に届いた。けれどやはり、少女の表情はどこか固い。不安、焦燥、僅かな恐怖――それらを決意でどうにか押しとどめて、首の皮一枚平静を保っているような危うさが見て取れる。まさに“いっぱいいっぱい”という言葉が相応しい。

(そのツラで出てくる言葉がそれとはな――大したタマだよ)

 感心半分、呆れ半分。内心独りごちながら、相澤はどうしたものかと思案した。
 彼女の悩みを淀みから掬い上げること自体は簡単だ。以前交わした不干渉・・・の約束――その実彼女の知らぬところでとうに破られているそれを、この場ではっきりと反故にしてしまえばいい。

 ――だが。

 少女は唇を引き結んだまま、黙って相澤の反応を待っているようだった。その双眸をじっと窺う。
 もちろん“暴走”の件で動揺しているのは間違いないだろうが、そこに浮かぶ不安はどちらかというと、この後の合宿における自分の処遇に対するもののようにも思えた。“大丈夫です、何とかします”の裏側は、恐らく“だからこのまま予定通り合宿に参加させてください”ということなのだろう。相澤は目元を指先でぽりぽりと掻きながら、静かに口を開こうとした。

 ――が、次の言葉を選ぶより早く、ぐぎゅぅぅぅうと、間抜けな音が静まり返った部屋の中に響き渡る。唇をひき結んでこちらを見据えていた南北の白い頬に、みるみる羞恥の赤みが差した。

「……すみません」
「――ああ、そりゃあお腹も空くよね。キティも晩ご飯にしましょ、他の連中は一足先にありついてるよ」
「はい!」
「食堂の場所はわかる?」
「たぶん……ここまで声聞こえてますし」

 南北の苦笑いと同時に、廊下の向こうから男子のものらしい大声が響く。すっからかんの腹に入れる飯が余程美味いのか、先ほどから定期的に生徒たちの感激の声が漏れ聞こえてくるのだ。
 疲れ切っていた割に随分元気だな。呆れる相澤の前で、確かめるように自分の両手を握ったり開いたりしていた南北が大きく息を吐いて立ち上がり、マンダレイに向かってぺこりと頭を下げた。

「診てくださってありがとうございました」
「また調子がおかしくなりそうだったらすぐ報告すること。万一制御ができなくなっても、イレイザーが見て・・れば大丈夫だから――……ねえ?」

 同意を求めるようにマンダレイが相澤を流し見たが――その視線には何やら含みがある。知らぬふりで目を逸らしながら「そうですね」などと気のない返事をすると、しまいには肘で脇腹を小突かれた。

「……イレイザー、」
「以上、話終わり。さっさと夕食摂って風呂入ってこい」
「?はい」

 二人のやりとりを不思議そうに眺めていた南北も、促されると素直に部屋の出口へ向かう。扉の脇に佇む虎に小さく会釈して、「失礼しましたー」という声を最後に、土で薄汚れた制服姿は扉の向こうへ消えた。
 その様子を見送ると、マンダレイは困惑と心配の入り混じった面持ちで肘を引っ込め、やや躊躇いがちに問う。

「……いいの?」
「何がです」
「明らかに突っ張って・・・・・た。私にはよく分からないけど……事情、知ってるのよね?」
「……ええ、まあ」

 言われなくてもわかっている――悩んでいる生徒をこのまま放っておいていいのか、教師として介入すべきではないのかと、マンダレイは暗に語っている。相澤は淡々と答えた。

「事情があろうがなんだろうが、特別扱いするつもりはないので」
「でもさ……」
「悩みってのは大なり小なり、どの生徒の中にもあるもんですよ。そして、その本当の重さ・・は生徒自身にしかわからない」

 どの生徒にも過去があり、事情があり、ぶつかるべくしてぶつかる壁がある。内容が内容だけに、その存在を知ってしまった大人は彼女の抱えるものを一層重たく捉えてしまいがちだが、本来そこに貴賎も尊卑もない。
 周りから見ればささやかなことでも、本人にとってはこの世の何より大きな傷であることもある。その逆も然り、側から見て同情せずにはいられない苦しみの記憶も、本人の中では同年代の子供たちが抱えるピンからキリまでの悩みと同じ机の上に無造作に置かれている――ということもまた、十分にあり得る。
 少なくとも彼女はそうだ。あんな過去があるのだから“仕方ない”のだとは思わない。自分が特別“可哀想”だなどどは、きっと夢にも思わないだろう。
 ただ、同級生たちと同じように――彼らがそれぞれ乗り越えていく自分の“壁”を、自分も越えたいと必死になっているだけ。未熟な自分を鍛えるため、歯を食いしばって痛みに向き合おうとしているだけだ。

 ならば、それに応えることこそが教師じぶんの役割だと、相澤は思う。

「明日からの特訓は予定通り・・・・に行います」
「――承知した。ブラドにはそのように伝えよう」

 それまで無言だった虎が頷き、踵を返して部屋を出ていく。自分とラグドールが世話を担当するB組の施設へ戻るのだろう。その背を見送りながら、マンダレイは微かに眉を寄せて再度念を押すように問うた。

「いいんだね?」
「はい。……カウンセリングは専門じゃないですし」

 無論、そういったものが必要になる場合もあるだろうが――今ではないし、それに最も適任なのが自分だとも思わない。

「生徒が“なりたい自分”になるために、その道筋を示すのが俺の仕事だと思ってます」
「……さすが、しっかり先生してるのね」

 眉間の力を抜いたマンダレイが悪戯っぽく笑った。あえて揶揄うような口ぶりに少し居心地の悪さを覚えながら、相澤はそっと目を伏せる。

 なりたい姿を共に模索し、そのための進路を捉え、時に鞭打ち、時に背を押しながらその道行きを見守る――優しい者が、未来に咲くべきヒーロー達が無事一人前になれるように、全てを懸けて守り育てるのが自分の仕事だ。
 そのために必要なことなら手段は選ばない。懸命にヒーローを目指す彼女を、彼女自身が望み続ける限り、必ず他の生徒と同じように鍛えてみせる。

 ――たとえその道程が、彼女にとって痛みを伴うものになったとしても。














「緑谷くん!口に物を詰め込んだまま喋るのは行儀が悪いぞ!」
「――えっ、全部口に出てた……!?ごめん!」
「まあ、こうも空きっ腹では口をパンパンにしたくなる気持ちもわかるが……」

 言いながら飯田は白米を口に詰め込んだ。炊き立ての米は粒立ちがよく、それでいて決してぱさつかず、噛めば噛むほど仄かな香ばしさと共に上質で自然な甘みが口の中に広がる――端的に言ってしまえばかなり美味い。空腹は最高のスパイスとはよく言ったものだ。ついつい普段よりがっつき気味になってしまうが、それでもしっかり口の中のものを飲み込んでから、飯田は再び口を開く。

「しかし、一体何をそんなに考え込んでいるんだい?」
「ご飯とブツブツモードの両立はさすがに至難の技だね」

 飯田の隣で野菜を取り分けていた麗日が笑う。彼女の言う通り、正面の緑谷は先ほどからずっと何かを考えながらブツブツ呟いていて――それでも腹の減りは途轍もないものだから、体は自然と食べ物を次から次へと口に運び、結果的にご飯を口いっぱいに頬張りながらもごもご喋り続けるという、側から見ればだいぶ不思議なことになっていたのだった。
 “魔獣の森越え”という苦行を乗り越え、食堂では誰も彼もが涙を流しながら一心不乱に食べ物を掻き込んだり、和気藹々と雑談に花を咲かせたりしているというのに――緑谷はしっかり食べてこそいるものの、どこか上の空な様子に見えてならない。何だか心配になってしまうのが友人心というものだ。

「もしや……先ほど攻撃された陰嚢がまだ痛むとか」
「その話題はそっとしといて欲しいな……!!もう全然痛くないし!」
「そうか、なら良いんだが……それじゃあ一体どうしたんだ?」

 麗日が親切で取り分けてくれた揚げ物の皿を受け取りながら、飯田は改めて問うた。味噌汁を飲み干した緑谷は、目の前の大皿から煮物をよそいながら隣の席をちらりと盗み見る。出席番号順に並んで座る長椅子の上、急ぐあまりお椀から汁を盛大に溢しながら食べ進める峰田と緑谷の間には人ひとり分の空白がぽっかり空いていて、テーブルの上には未使用の食器がこぢんまりと並べてある。
 なるほど。答えを聞かずとも、その素振りだけで飯田は納得した。

「遅いな、南北くん」
「そういえばそうだね……先生とマンダレイに連れてかれてから結構経つのに」
「様子が変だったものね。大事ないといいけど」

 左では麗日が眉尻を下げ、右では蛙吹が心配げに呟いた。
 飯田は微妙に離れた所で戦っていたので詳しいことは知らないのだが、“魔獣の森”における戦闘の最中、南北の“個性”が暴走の兆候を見せたという話は聞いている。本人も相当動揺していたようだし、何より――。
 ちらりと右斜め前を見遣れば、隣の緑谷から微妙に体と顔を背けつつ、目の前の皿の中身を次々と口の中に放り込んでいく爆豪の姿がある。またよりによって彼に何か言われてしまったらしいという話だ、彼女にとっては色々と精神的ダメージが重なったに違いない。そんなことを考えていると、視線を感じたらしい爆豪がギロリと飯田を睨め付けた。

「何見とんだクソメガネ」

 本当に口が悪いな。若干ムッとしながらも、ちょうど口にコロッケを入れてしまった飯田はぐっと堪えて咀嚼に専念する。すると、焼き魚の身をほぐして米に乗せていた麗日が再び口を開いた。

「もしかしてデクくん、ほたるちゃんの“個性”のこと考えてた?」
「……うん」

 緑谷の丸っこい目が不意に真剣味を帯びる。「ノートは鞄に入れっぱなしだから手元にないし、うまく考えが纏まらないんだけど」などと呟きながら、彼は手に持つ箸の動きを完全に止めてしまっている。また考え事のスイッチが入りかけているらしい。

「僕も近くで見てたわけじゃないからわからないんだけど……ほたるちゃんの“個性”、普段と様子が違ったよね」
「そうなんだよ!何か爆発・・とか何とか言っててよ、本人もパニクってて!オイラ普通にビビっちまったよ」

 通りかかったピクシーボブから味噌汁のお代わりを受け取りつつ、峰田が不意に緑谷の話に相槌を打ち始める。それをさして気にする様子もなく、緑谷はやや小さめの声でブツブツと語り出した。

「僕の知ってる限りだと、ほたるちゃんの“個性”の制御、少なくとも最近はかなり安定してて……効果範囲、出力の強さ、発動中の調整その他もろもろ、疲れとかで弱まることはあっても、強い方・・・にブレることは滅多になくて、ましてや自分の意思で発動が止められないなんてことは……」
「……いやいやちょっと待て、あった!あっただろそれ!」
「――そう、あったんだ。規模は違うけど、ほたるちゃんは体育祭の時も突然“個性”を制御できなくなってた……逆にいえば、今まで暴走しちゃったのはその時と今回の二回だけ・・・・ってことだよね」
「一回でも暴走された時点でこっちの心臓は持たねえよいろんな意味で……」
「しかも普段は暴走の気配なんて全く無いだろ。ちょっとややこしいあの“個性”を戦いの中で活かせるくらいには制御できてる、そんなほたるちゃんが急に手が付けられないような暴走状態に陥ってしまう……これって多分、偶然じゃないと思うんだ」

 峰田の愉快な合いの手をよそに、緑谷はほとんど独り言のような調子で自分の考えを順に纏めようとしている。思わず自分まで箸を止めて聞き入ってしまっていた飯田は、ふと目の前で起こった異変に気が付いた。
 ――斜め前に座る爆豪の箸も、生姜焼きの乗った皿の真上でぴたりと止まっている。
 そんなことには少しも気付かないまま、緑谷は遂に箸を置き、片手を口元に当てながら小さめの声で続ける。

「たぶん暴走にはトリガー・・・・があるんだ。肉体的なものか、精神的なものか、それとも環境的なものなのか……その辺は手掛かりが無さすぎてまだわかんないけど」
「えーと……つまり?」
「暴走が起こってるのはたまたまじゃなくて、何か特定のきっかけがあって“個性”の制御が乱れちゃうんじゃないかってこと――って言っても、今回と体育祭だとまず状況からして全然違うし、実際に起こった暴走の内容っていうか、力の暴れ具合も色々違うみたいなんだけど……」
「……てめェに」

 首を傾げる麗日に緑谷が補足しているとそれを静かに遮る声があった。驚いた緑谷が振り向いた先、空いた席とは反対側の隣に座る爆豪が、大皿を睨み付けたまま低く唸る。

「理由なんざ、てめェにだけは死んでもわかんねぇよ」

 麗日と蛙吹が目を丸くして彼を見遣る。緑谷は一瞬小さく息を飲み、何かに頭を強く殴られたような顔で茫然としていた。飯田は突然ピリついた空気を感じ取って気まずそうにもぞつく峰田と思わず顔を見合わせる。
 クラスで時々起こる現象だ――この二人、あるいは二人と轟あたりにしか分からない何らかの事柄をめぐる衝突が、今まさに目の前で起こっているらしい。

「……僕には、わかんないのかもしれないけど」

 少しの間黙っていた緑谷は、やがて意を決したように口を開いた。机の上に乗った手が静かに拳を握り込む。

「僕はかっちゃんじゃないから教えてもらえないし、わかんないのかもしれないけど……でも、考えるのはやめない」
「……」
「わかろうとするのだけは、やめたくないんだ。もう独りになんか――させない」

 何だか互いに抽象的な物言いで、一体何の話をしているのか、飯田含め周りの人間にはあまり理解できなかった。爆豪は口を開いた時と全く同じ格好のまま、ぴくりとも動かずに苦虫を噛み潰したような不快そうな顔をしている。隣の麗日がごくりと固唾を飲んだ。よく分からないなりに、爆豪が緑谷に殴りかかるのではとひやひやしているに違いない。
 けれど爆豪は何も返さなかった。小さく鼻を鳴らしたかと思うと、止めていた手を動かして細切れ肉を口に放り込む。張り詰めていた空気が消えて、峰田がほっと肩の力を抜いたのが見えた。

「……とにかく、まだ判断材料が少ないから断言はできないんだけど、僕的にはそんな風に考えてて……というかそもそも森で具体的に何が起こったのかを考えるのが先だよな。爆発がどうとかって聞いたけど、それって今まで表面化してた磁力や熱の特性とはかけ離れてるっていうか、まさか“個性”の複数持ちなんてことは無いだろうし――」
「――緑谷、それなんだけどさ」

 再び堰を切ったようにブツブツし始めた緑谷に向かって、飯田の背後から女子の声がかかった。こちらを振り向いて声を上げたのは耳郎、その隣で障子も食べる手を止めて振り返っている。何やら話し始めた緑谷と彼らの間を遮らないよう、蛙吹に少しだけ寄ってもらい、飯田は右側に若干体を逸らした。

(“独りにさせない”――か。緑谷くんらしいな)

 忘れもしない、いつぞやお節介にも路地裏まで自分を助けにきた彼の背中を思い出しながら、飯田は微かに口元を緩めた。友人のために食事も忘れてこんなにも一生懸命になれる、そんな彼の優しさが飯田は好きだった。自分もぜひ友人の――南北の、ひいては彼女を案じる緑谷の助けになりたい。かつて彼らが自分の心を案じてくれたように、自分も彼らを案じたい。

 耳郎と障子は、どうやら森での出来事について緑谷に情報提供しているようだった。自分もまたそれに耳を傾けようとしたその時――ふと、目の前で肉を頬張る爆豪の顔が目に入る。そこに何かいつもと違う色を見たような気がして、飯田はぱちぱちと四角い目を瞬かせた。

 いつも通りの仏頂面、いや、平時より若干不機嫌そうなしかめっ面。その裏に、何か。
 微かに困惑したような――あるいはほんの少し、傷付いたような。

「――おい」

 いかにも不機嫌な声に呼ばれてはたと我に返る。正面から、吊り上がった真っ赤な双眸が飯田を睨みつけていた。

「何見とんだっつってんだクソメガネ」

 その顔には苛立ちが浮かんでいる――それ以外は特に見えない。先ほどほんのわずかに浮かんでいた何かは、怒りの表情の奥に引っ込んでしまったようだった。あるいは最初から気のせいだったのだろうか。常日頃不遜でしおらしさとは無縁な彼には、些か不釣り合いな表情だったことは否めない。
 仮に気のせいではなかったとしても。爆豪が緑谷の言葉のどこにそんな感情を抱いたのか、飯田にはわかりそうもなかった。
 違和感と少しの疎外感を振り払うように小さくかぶりを振って立ち上がる。何にせよ、この口の悪さには一言物申さねば気が済まない。馬耳東風とは承知しつつも、飯田は今度こそ大きく息を吸い込んで口を開いた。

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