「――い……おーい」

 ちょん、と控えめに肩を突かれてようやく呼び掛けに気付く。顔を上げた先では、前の座席から軽く身を乗り出した瀬呂くんが、わたしを突いた指を引っ込めながら首を傾げていた。

「聞いてた?次“う”な」
「へ?」
「砂藤“バタースコッチ”、峰田“痴情”、次南北“う”」
「えっ、またしりとり始まってたの?」
「気付けよ薄情者!」
「じゃあ、えっと……“右脳”」
「おまえさっきも“毒婦”に“夫婦”で繋げてたよな」

 通路を挟んで斜め前側の席からブーブー言う峰田くんを適当にあしらいつつ答えると、わたしの次の番だったらしい瀬呂くんは少し考えてから「んー……“鵜”!」と繋ぎ、隣の尾白くんは「また一文字渡し……」と苦笑する。
 丸めていた背中を少し伸ばして二人の頭越しに通路の前の方を覗けば、色とりどりのみんなの頭の隙間に、一際目を引く紅白の髪がちらりと見えた。向こうで補助席に座っている轟くんだ。彼があそこにいるということは、隣の青山くんはいまだに座席の上で伸びているらしい。
 林間合宿の宿泊先へ向かうバスの中、鏡の見過ぎで車酔いしてしまった青山くんの気を紛らわせるために始まったしりとり。確か一度終わって、さっきまでは峰田くんや梅雨ちゃんが何か面白い話をしていたような気がするのだけれど……どうやらそれも終わり、各々がお喋りに戻って一層賑やかさの増した空気の中、暇を持て余したバス後部の面々の間でいつの間にか二周目が始まっていたようだ。

「じゃあ……“馬”!」
「普通だな」
「だから普通でいいだろ!次常闇……は、やらないよね……爆豪も寝てるし……えーと、最初に戻って障子?」

 順当に行けば次の番らしい常闇くんは眠……っているのではなく静かに目を閉じて瞑想中なので、尾白くんが少し困ったように斜め前の座席を覗き込む。すると、背もたれの向こうからするりと伸びてきた複製の口が「ま……“まなこ”」と答えた。障子くん、寡黙な印象だけど結構付き合いいいんだなあ。隣の席では、同じく普段は無口な口田くんが次の答えを探してうんうん頭を悩ませているようだ。言葉が見つからないというよりは、どの動物の名前を言おうか迷っているような感じがする。
 ――などとぼんやり考えていると、依然前の席の背もたれから顔を覗かせたままの峰田くんが口を尖らせて言った。

「おまえさっきからずっと上の空だよなァ……オイラの深くてイイ話ちゃんと聞いてたか?」
「あ?えー……っと、峰田くんが――」
「オイラが?」
「……ホームレスのおじさんと蛍見に行ったんだっけ?」
「半端に聞いてんじゃねーよ!!混ざってんだよ蛙吹のと!!」
「ごめんて」

 峰田くんの憤慨ももっともだ。内容がどうであれ人の話をまるで聞いていないのは大問題に違いない。決して興味がなかった訳では無いのだけれど、あれやこれやと浮かぶ考え事につい思考を引っ張られて、結局断片的なフレーズしか頭の中に残らなかったようだった。
 心の底からの謝罪を込めて空いている左手で“ごめん”のポーズを取ると、成り行きを見守っていた瀬呂くんの目が不思議そうにぱちくりと瞬いて、膝の上で握られたわたしの右手を見下ろす。

「つーか南北、さっきからそっちの手で何にぎにぎしてんだ?」
「……あ、これ?」
「な……何だその黒い塊……ボールか?」

 開いて見せた掌の中、ちょうどわたしの手に収まる程度の大きさの丸い塊を見た峰田くんは、その黒ずんだ見た目が何やら不気味に見えたのか、頭を背もたれの向こうに若干引っ込めながら怪訝そうに眉を潜めた。
 そう身構えなくたって、みんなにとっても別に未知の物体という訳ではない。峰田くんに見えるようにその塊を軽く掲げ、込めていた“熱”を解除すると、次第に表面から焦げたような黒色が引いていく。同時に塊は質量を増し、絡み合った帯状の生地が鍋の中に入れたインスタント麺のように少しずつほぐれて解け、わたしの手の中から溢れて膝まで垂れた。くすんだ白に戻ったその細長い布を見て、砂藤くんが納得したように声を上げる。

「ああ、捕縛布それか!縮んでたから気づかなかった……」
「これから待ちに待った林間合宿ですーって時に、何でオイラの話も聞かずにそんなもんにぎにぎしてんだよおまえは!」
「いやそれは確かにごめんだけど……これはただの自主トレ的なアレで」
「自主トレぇ……?」
「そ。手のひら鍛えてんだ、最近」

 期末試験を経て新たに知った自分の特性――どうやら火傷の類に強いらしいわたしの両手のひら。これを鍛えれば“熱で自傷してしまう”というわたしの戦闘スタイルの欠点をひとつ潰せるはず。鍛えるにはやっぱりひたすら慣らす、とにかく反復あるのみ――ということで、最近暇を見ては地道に取り組んでいるトレーニングがこれだ。火傷するかどうか、ギリギリの温度まで上げた捕縛布玉を素手で持ち続ける。温度調節の練習にもなるし、実際成果もあって、近頃は布が真っ黒に縮むくらいの熱さでも少しの時間なら持ち続けられるようになってきていた。今のような移動中などのちょっとした隙間時間に取り組めるのも良い。
 という訳なので、「ね!」と取りなすように答えてみたのだけれど、相当にご立腹らしい峰田くんは尚も怪訝そうな目でわたしをじとりと睨みつける。楽しい楽しい林間合宿に向かう道中、端から端まで浮かれ騒ぎのバスの中で、なんだってこいつはひとり空気も読まずにぼへっとしながら自主トレなんてしてやがるんだ――と、その恨めしげな双眸が語っていた。散らばった捕縛布を手元に丸め直しながら、わたしはそんな彼からそっと視線を外す。

「ほんとごめんって……」
「――暗い!暗いんだよ南北!」

 もう辛抱ならないとでも言わんばかりに峰田くんが目を剥いた。ぎょっとして顔を上げたわたしの目の前で、小さな手が座席の背もたれをバシンバシンと大袈裟に叩く。

「バス乗るなり黙って一番後ろの席に一人で座るし!」
「いや、それはたまたま奇数だったからでしょ?無理に補助席使うよりよりこっちがいいってだけだし……」
「そもそも峰田の横に女子座らせるのは倫理的に問題アリだしな」
「やかましい!しりとりも適当、人の話は聞いてねえ――挙げ句の果てに自主トレだと!?それでも林間合宿前の高校生か!?キャッキャウフフの七泊八日が楽しみじゃないのかおまえはァ!?」
「合宿なんだからキャッキャウフフではないだろ……」

 瀬呂くんや尾白くんの冷静なツッコミは綺麗に無視して、憤慨しっぱなしの峰田くんは目を血走らせながらわたしを指差した。何をおっしゃいますか――尾白くんの指摘が若干耳に痛いけれど、わたしだってこう見えて割とキャッキャウフフな感じだった側の人間だ。
 勿論、合宿の主たる目的が何なのかくらいちゃんと理解している。ヒーローに必要な能力をより磨き上げるための“強化合宿”。待っているのは恐らく学校での授業より過酷なトレーニング祭りなのだろう。
 でもそれはそれ、夏休みの数日間を利用して、自然豊かな土地でクラスのみんなと共同生活――これがワクワクせずにいられようか。あの時は試験のことで頭がいっぱいでそれどころじゃなかったけれど、「花火!カレー!!肝試しー!!」とはしゃいでいたミナちゃん達の気持ちが今ならよくわかる。何より自動的に女子のみんなと相部屋お泊まり会が成立してしまうのだ!正直ドキドキが止まらなかった。
 思えば幼稚園から小中と、仲のよかった幼馴染といえばデクに爆豪あいつにイナサ……男友達ばかりでどうにもむさっくるしい人生を送ってきたと我ながら思う。それが嫌だったわけじゃないけれど、今一つ女子コミュニティ的な華やかさと縁遠かったのも事実。
 おまけに男女比が半々だった中学校までと比べれば、クラスの女子人口が少ないおかげで全員とそれなりに気心知れた仲でもある。就寝前に枕を突き合わせておしゃべりに花を咲かせれば、それはもう楽しい時間になること間違いなし。

 そんな訳で、わたしだって柄にもなく昨夜のうちから内心はしゃぎっぱなしだったのだ。
 ――バス乗り場での一件があるまでは。

「……南北」

 ブーブー言い続ける峰田くんを遮って控えめに声を掛けてきたのは、窓際後ろから二列目、わたしの真ん前の席からこちらを振り向いている尾白くんだった。

「物間に言われたことなら気にしない方がいいよ。誰もそんな風に思ってなんかないんだし」
「あー。何だよおまえ、アレ気にしてんの?意外とナイーブか?」

 思い当たる節があったらしい瀬呂くんも呆れたように笑う。彼らが言っているのは多分この車両に乗り込む前――A組とB組の面々が一堂に会した、バス乗り場での一悶着のことだろう。

 物間くんといえば、体育祭の時に騎馬戦で爆豪あいつと何やら揉めていた……ついでに言えば予選の結果発表の時にわたしをちくちく突いてきた、爽やかな見た目の金髪B組男子のことだ。
 その物間くんが、乗り場で合宿中の補習について話していた切島くん達の声を聞きつけて発した第一声が、

“―― え?A組補習いるの?つまり赤点取った人がいるってこと!?ええ!?おかしくない!?おかしくない!?A組はB組よりずっと優秀なハズなのにぃ!?あれれれれえ!?”

 ……というもので。
 体育祭の時にも垣間見た、見かけによらない嫌味ったらしい言動からして、A組わたしたちに対して相当な対抗心を燃やしていそうなことは薄々知っていたのだけれど――どうやら想像を遥かに超える強烈な性格の持ち主らしいということに、わたしもその時点でようやく気付いたのだった。というか、わたしが彼の顔を見たのはなんだかんだで体育祭ぶりだったけれど、デクや他のみんなは昼休みなんかに出くわしてはよく絡まれているんだとか何とか……ある意味熱心というか、逆に感心してしまいそうになる。

 そしてきっと尾白くんが気遣ってくれているのはその後――A組わたしたちではなく、わたしに・・・・対して掛けられた言葉の方だ。






 発端は、先の物間くんのひと騒動が拳藤さんの鮮やかな手刀で収束した後、バスへの荷物の積み込みを待つB組の生徒の中から一人が抜け出して、“あん時は悪かったな!”などとわたしに声をかけてきたことだった。
 相手が一体誰なのかすぐにはピンと来なくて面食らってしまったのだけれど、わたしの戸惑いを察したらしい彼が「俺だ!俺!」と言いながら拳を握って力んだ途端、数ヶ月前の記憶が鮮明に蘇ってきた。
 陽光を照り返して輝く鋼鉄の体。面と向かって顔を合わせるのは体育祭ぶりか。金属じゃない素の姿はほとんど見ていないので気づくのが遅れたけれど、よくよく見れば間違うはずもない、トーナメント一回戦でわたしと当たった鉄哲徹鐵くんその人である。切島くんづてにちらほらと話を聞いたことはあったけど、これまで特に話す機会にも恵まれて来なかった相手。突然の接触はわたしとしても結構驚きの出来事だった。

 一体何事かと思えば、どうも彼的に例の試合は納得いかない結末というか、勝ちはしたものの釈然としないものを色々と残す結果になってしまったようで――そりゃああんな騒ぎになれば当然のことだろう。反省しかない。その節は本当に申し訳ありませんでした。
 そして彼曰く、その“釈然としないもの”の内の一つに、なんと“様子がおかしいわたしの顔面を何も気付かないまま思いっきりぶん殴ってしまった”という出来事が含まれているというのだ。もちろんそんなの鉄哲くんが気にするようなことじゃないよと伝えはしたのだけれど、殴ったのがどうと言うより、明らかな異変に気付かず試合を続行してしまったことに不甲斐なさを感じているのだとかなんとか……ちょっといい人過ぎるんじゃないかな。切島くんの友達なだけある、などとこれまた感心してしまう。

 つまり、何だかんだであの試合以降ろくに顔も合わせないまま月日が過ぎてしまっていたので、いつまでも心にしこりを残し続けないためにも、この辺で一言だけでも話をしておきたかった――というのが鉄哲くんの用件だった。そもそも喧嘩していた訳じゃないので和解というのも何だか変に聞こえるけれど、一番妥当なのはそういう表現になるのだろうか。

「かなりのキレっぷりだったからな、相当怒らせちまったかと思ってたが――あんまり気にしてねェみたいで良かったぜ。そんじゃまァ、この話はこれでチャラってことでひとつ……」

 そう言って、全身から力を抜いた鉄哲くんが、右手を差し出して握手を求めてくれた。むしろ謝らないといけないのはこちらの方だし、そんなのでチャラにして頂けるのはわたしとしても願ってもないことだ。深呼吸をひとつ、心を落ち着かせてから、こちらも右手でその手を取ろうとした――その時だった。

「――よせよ、鉄哲」

 やや苦しげな声が鉄哲くんの背後から掛かった。見れば、いつの間に意識を取り戻していたのか、拳藤さんに襟首を掴まれたままバスの方へ運搬されていた物間くんの顔が、かなり良い角度でぐりんとこちらを振り向きながら笑っている。声も首も、拳藤さんの力に抗ってその場に留まろうとする手足もぷるぷると小刻みに震えていて、傍目に見ても相当苦しそうに見えた。何が彼をそうまでさせるんだろう……と呆気に取られていたわたしを睨むような半笑いで見上げ、物間くんは先刻のアレとほとんど同じ調子の声で謳う。

「彼女がどんな人間なのか、君が一番身をもって知ってるハズだろ?」
「あァ?」
「USJ襲撃事件、“ヒーロー殺し”の一件……何より体育祭予選の大問題ジャンプ、おまけに決勝トーナメントでの暴走。ねえ南北さん!君って人は事件という事件に片っ端から巻き込まれないと、もしくは自分から巻き起こさないと気が済まない体質らしい!」
「は、はあ……」

 まあ、その指摘自体はあながち間違いではない。表現の柔らかさはだいぶ違ったけれど、巻き込まれ体質についてはイナサにも似たようなことを言われたような気がするし……体育祭の件については平に謝るより他にないし。けれどとにかく勢いが凄い。煽りの勢いが。若干気圧されながら曖昧に相槌を打つわたしに向かって、ついに物間くんは高らかに言い放った。

「つまり!問題を起こしてばかりのA組の中でも!!飛び抜けて厄介事を呼び寄せる疫病神ってことだ!!親しくしたってロクな目に遭わないだろうさ、やめておきなよ鉄哲!!ハハハハ――」






「いやー、本当に凄かったよな……拳藤の手刀」
「動作が見えなかったもんな……」

 ちょうどわたしと同じような会話を回想していたらしい瀬呂くんが遠い目でぼそりと呟いた。尾白くんがそれに同意しつつ、心底感心するようにしみじみ頷く。わたしも全く同感だった。
 あの後、呆気に取られた一瞬のうちに物間くんの高笑いがぶつりと途切れたかと思うと、再び気絶した彼を引きずりながら「ほんとごめんな」とこちらへ会釈する拳藤さんの姿があって。あまりにも鮮やか過ぎる手刀は繰り出されたことにすら気付かないのだと、その時初めて知った。
 とまあバス乗り場でそのような一悶着があったりなどしたので、どうやら尾白くんはあの物間くんの台詞でわたしが傷ついたのではないかと心配してくれているらしい。有り難いことだけれど、生憎――

「あのね、物間くんのアレはほんとぜんっぜん気にしてないから」
「えっ、そ……そうなの?」
「うん、全然まったく。あんなの気にしたってしょうがないし……」

 かなり神経を逆撫でされる言い方ではあったけれど、どう考えても露骨な挑発だし、めそめそと傷つくほどの内容でもない。何よりあんな風に嫌な事をズケズケ言ってくる奴なのに、不思議と本気で憎む気にならないのが物間くんの凄いところだと思う。毎度わたし達に代わってすかさず拳藤さんが成敗してくれるおかげかな。

「まあ確かに、言い掛かりも甚だしい話だったよなァ。USJなんかオイラたち全員巻き込まれてるし、保須の事件だって緑谷たちが一緒だったろ」
「そうそう、ぶっちゃけ事件巻き込まれ率で言うと緑谷と大差ないしな」

 肩を竦めて頷き合う峰田くんと瀬呂くん。その向こう、通路真ん中の補助席に座る轟くん――の隣から、不意に自分の名を聞きつけたらしいデクがちらりとこちらを振り返ったのが見えた。目が合ったので軽く手を振ると、不思議そうに首を傾げながらも小さく微笑んで手を振り返してくれる。
 確かに瀬呂くんの言う通り、保須では轟くんや飯田くんたちと一緒だったし、体育祭でのやらかし具合もデクと大差ない……というか、被害状況的には腕がボッキボキになった彼の方が上だろう。だから大丈夫。“何でもかんでも自分のせいと思うな”と、ついこの間お説教を食らったばっかりだ。色々と反省はすれど、変に気に病むようなことはこれからも無い。
 一応納得はしてくれたようで、尾白くんは少し気恥ずかしそうに笑って言った。

「そっか……気にしてないなら良いんだ。早とちりしてごめん」
「ううん!ありがとね」
「……あの……、」
「ん?どうした口田……」
「……こ、“コンゴウインコ”」

 話がひと段落した所で、障子くんと共にこちらの様子を見守っていた口田くんが砂藤くんの肩を突いて控えめに声を上げた。すっかり忘れかけてたけど、そういえばしりとりの最中だったっけ。口田くんてばずっと黙ってタイミングを待っててくれたのかな。飯田くんに負けず劣らずの律儀さだ。
 他のみんなもしりとりの事を思い出したようで、「こ、こ……“コンフィチュール”!」「なんじゃそりゃ」と話が元の流れに戻っていく。「フランス語でジャムって意味の……」という砂藤くんの説明を聞きつつ、わたしも膝の上に広がった捕縛布を丸め直してもう一度熱を通した。じんわりと手のひらに熱が広がる。呼応するように、焦燥にも似た感情が胸の内で燻り出した。
 尾白くんが心配してくれたようなことはない。全然気にしてなんかない。
 そう――そっちじゃない・・・・・・・んだ。

 鉄哲くんが声を掛けてくれたとき。
 薄情にも相手が誰なのか分からなくて呆けたわたしにあの日のことを思い出させようと、彼が自分の“個性”を見せてくれた、あの時。
 全身がカッと熱くなった後急激に冷えるような感覚があって、嫌な汗がじわりと体中に滲んだ。いつの間にか手足は嫌というほど強張っていて、早鐘を打つ心臓の音が頭の中いっぱいに喧しく鳴り響いて。指先は冷えているのに、手のひらが熱かった。握り込んだ手の中から“個性”の光が微かに漏れ出ていたことを、誰かに悟られていなければ良いんだけど。
 突然相手に身構えられてしまった鉄哲くんの方も些か戸惑ったようで、テカテカ輝くその顔はやや驚いたような表情のまま固まっていた。鉄哲くんのことが気になっていたのか、こちらの様子を遠巻きに見守っていた切島くんが呆けるわたしの肩を叩いてくれた時、ようやく体の力が抜けて、引きつった喉から浅い息が漏れて。

 ――動けなかったのだ。
 体育祭の時と同じように、頭の中が焼き切れたように真っ白になってしまった。

 もう数ヶ月も前のことだし、何かと濃ゆい出来事が盛りだくさんの日々だったおかげで半分忘れかけていたけれど。改めて彼と対峙して、痛感せざるを得なかった。

 わたし、少しも成長していない。

 入学してから色々なことがあった。絶対的な溝で隔てられていたデクと爆豪あいつは、オールマイトとの戦いで渋々だけど手を取り合った。飯田くんはなりたいものをもう見失わないだろうし、轟くんも自分の炎熱ひだり側を少しずつ受け入れようとしている。A組の他のみんなだって、入学当初に比べてめきめきと力をつけてきていることは、期末テストでの戦いぶりを見れば明らかなことだった。

 でも、わたしは。
 みんながどんどん前に進み続けているっていう時に、わたしは――とっくの昔に終わったはずの過去トラウマを、いつまでも引きずり続けている。
 克服したい、絶対克服してやると、体育祭が始まる前に誓ったはずなのに。忙しい日々に追われて忘れようとしていただけで、根本的には何の改善も行われていない。わたしだけがどこにも進めずに、立ち止まったままでいる。

 一度そう思ってしまうと、じっとしていられなくなってしまった。こんな気持ちじゃみんなの浮かれ騒ぎに馴染めそうもなくて、わたしには遊んでいる暇なんかないんだって、そんな漠然とした焦りが頭の中でぐるぐる渦巻いて。
 楽しみじゃなかったわけじゃない。峰田くんや梅雨ちゃんの話も興味がなかったわけじゃない。いっぱいいっぱい過ぎて、全然頭に入ってこなかっただけなのだ。そんな余裕のない自分にまた嫌気が差す。気を紛らわせるにはトレーニングくらいしか出来ることがなかった。

「(……あーあ)」

 思わず漏れそうになった溜息を慌てて引っ込める。溜息なんか聞かれたらまた峰田くんにあれこれ突かれそうだ。
 相談しようにも、何にも知らないみんなには説明のしようもないし……何より、誰に何と言われたところで、結局わたし自身が乗り越えないことには解決できない話だし。

 ――頑張らなきゃ。
 具体的に何をどう頑張れば良いのかもよく分からないまま、わたしは取り敢えず決意だけを新たにした。堪えきれなかった溜息が、ついにほんの少しだけ唇の隙間から漏れた。










「南北」
「はっ……はい?」

 乗り込んだときの予告通り、出発から一時間ほど経った辺りでバスが開けた場所に停まった。
 促されるままみんながぞろぞろと降り立ち、トイレを求めてぴょんぴょん歩きでステップを降りる峰田くんに続いてわたしも地面に足を着けたのだけれど――思わぬ人に呼び止められて声が裏返る。
 振り返った先には、一番最後までバスに残っていた相澤先生の姿があった。特に心当たりが無くても――いや、心当たりがない時だからこそ、この人に名前を呼ばれると“なんか悪いことしたっけ……”と一瞬どきりとしてしまう自分がいる。却って思い当たる節があるときの方が、もう運命を受け入れるしかないので逆に心穏やかだったりするんだよね。で、今回は一体……と目を泳がせたわたしの視界の端で、気怠げに細められていた先生の目が不意に赤く光を帯びた。

「うひゃ!?」
「一旦没収」
「えっ……ええ!?なんで!?」

 “見られた”瞬間手の中の熱が消えて、縮めていた捕縛布の塊が一気に質量を取り戻す。爆ぜるようにばさばさとわたしの手から飛び出したそれを、先生はさっと自分の片手に巻きつけて瞬く間に回収してしまった。さすが捕縛布の扱いは慣れたもの――じゃなくて。
 なんで。なんで……なんで?声に出した疑問を頭の中でも幾度となく繰り返しながら見遣ると、先生は纏めた捕縛布を自分の首回りの捕縛布の中に仕舞い込みながら、若干面倒臭そうに――あるいはやや呆れたように答える。

「自主トレは結構だが、今消耗するのは控えとけ。余計な疲れを残した状態で乗り切れるほど甘っちょろい合宿じゃない」
「えっ……いや、でも」

 まあ確かに全く疲れない訳じゃないけれど、そんな疲労困憊するような内容の自主トレでもない……つもりだったんだけど。突然のことにしどろもどろのまま、思わず片手を差し出して“返してください”のポーズを取ると、先生は今度こそ面倒臭そうに溜息を漏らした。

「四六時中張り詰めてても効率が悪いって言ってんだ。気張るときは気張る、休むときは休む……メリハリってモンを覚えろ」
「……は、はあ……」
「……何を焦ってるんだか知らないけどな」

 指先で頬をぽりぽり掻きながら、先生は少し間を置いて言った。“知らない”などと言ってはいるけど、わたしからすればどうも諸々見透かされているような気がしてならない口ぶりだ。元の黒に戻った瞳がじっとわたしを見下ろす。優しくはないけれど、何か言い聞かせるような声音が続いた。

生徒おまえたちの弱点や欠点、現時点での強みに特徴――諸々加味してどこをどう伸ばしていくか、こっちでもちゃんと考えてある。……おまえにとっても、大きな意味のある合宿になるだろうさ」
「……、」
「だから、始まるまで体力はとっとけ。その時が来たら思う存分発揮するように。いいな」
「……はい」

 先生の言うことも一理ある。実際何をどうしていいのか分からないまま、気を紛らわせるために闇雲にトレーニングしているだけな訳だし……はあ。何度考えても情けないったらない。
 しゅんと項垂れたわたしを前に先生はもう一度頬を掻いて、「わかったらさっさと行け」とせっついた。素直に従い踵を返して、一足先に広場の真ん中あたりに集まっているみんなの方へ足を動かす。
 その時、背後からぼそりと呟く声が聞こえたような気がした。

「……まあ、その時・・・ってのは今なワケだが」

 意味深な台詞に思わず振り返ってしまったけれど、相澤先生は変わらず淡々とした表情のままそこに立っている。もう一度、今度はやや苛立たしげに「さっさと行け」と睨まれたわたしは、慌てて前を向いて小走りに進んだ。そういえばここ、トイレも休憩所も見当たらないけど一体どこなんだろう――なんて、ぼんやりと考えながら。

 程なくして、わたしは先生の言葉の意味を体感することとなる。
 この時既に――地獄の林間合宿の幕は、人知れず上がっていたのだった。

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