伸ばした食指に力を込めかけて、やめる。
 指を引っ込めようとすると、躊躇う気持ちが足元にも滲んで、つい踵が半歩分後ろにずり下がってしまった。ついでに顔まで俯けると、手に提げたままの買い物袋の中に紛れてお菓子の紙袋が視界に飛び込んでくる。
 いや……やっぱここまで来て帰るとかダメでしょ。ふう、と深呼吸を一つ。意を決して顔を上げ、もう一度右手の指を伸ばし――、

「……、」

 それでもやっぱり躊躇してしまう自分に段々と嫌気が差してきた。この場に辿り着いてもう何分経ったんだろう、そろそろ不審者として近所の人に通報されても良い頃合いだ。
 ダメ、ダメだ落ち着け。第一何をそんなに緊張する必要があるのさ。わたしはお礼のお土産を持ってきただけ、パパッと渡してササッと帰るだけなんだから。そう、この小刻みに震えながら固まっている指先をもう少し前に押し出して、早いところ用事を済ませてしまえばいいだけ。
 わかっちゃいるのだけれど――もう何度目かわからない溜息を零しつつちらりと振り返った道の先では、徐々に紫色を帯び始めた夕日が家々の屋根の間にすっぽり隠れようとしているところだった。もたもたしていると本当に夜になってしまう。

「……うん、第一出てくるのは光己さんだし……たぶん……うん」

 言い聞かせるように何度か呟いて、表札に記された“爆豪BAKUGO”の文字から極力目を逸らしつつ、今度こそ指先にそっと力を込める。かちりという小さな手応えとともにベルの音が鳴ったのだけれど、応答はすぐには来なくて、遠くの山へ帰っていくカラスの鳴き声、それから喧しく叫びっぱなしの自分の心臓の音が嫌に大きく聞こえた。
 子供の頃は滅多に呼び鈴も鳴らさず、まさに“勝手知ったる”という感じで平然と踏み入っていたはずなのに、時の流れとは恐ろしいものだ。というか主に全部上鳴が変なこと言うから。昨日から幾度となく繰り返した責任転嫁をもう一度始めたその時、ぶつ、とインターホンが繋がった音がスピーカーから聞こえてきた。

『――』

 が、それは一言も発さないまま、ものの二秒かそこらで再びブツリと音を立てて切れてしまう。
 おかしいな。光己さんなら、あるいは勝さんなら、「はい」とか「どちらさまですか?」とかそれくらいのことは言ってくれそうなもんだけど。悩むわたしの目に、インターホンに付いているカメラの黒いレンズがふと留まる。
 そっか、向こうからは来客が誰なのか見えてるんだ。ということは、相手は門の前に立っているわたしの姿を見た上で二秒で通話を切ったわけで――……何だか猛烈に嫌な予感がする。つい後ずさってしまったのは最早反射だ。
 が、わたしが逃げ出すより先に玄関扉が酷く乱暴に開き、予想通りの猛烈に不機嫌そうな顔が視界に飛び込んできた。思わず「げっ」と声を漏らすと、扉口から半身を乗り出した爆豪あいつは苛立たしげに口を開く。

「……居るときに来んなっつったろが鳥頭!」
「そ――そんなこと言ったって、同じクラスなんだから絶対休み被るじゃん!?そんなに嫌ならせめて居ない日予告してよ!」
「知るか察せや!」
「……とにかく、ちょっと光己さんに挨拶していきたいだけだから。取り次いでくれると嬉しいんですけど」

 横暴極まる言い草にそれ以上突っかかる気も起きず、手にしたお菓子の袋をちらつかせながら肩を竦めると、爆豪あいつはいかにも面倒臭そうに舌打ちを漏らしながら、半開きになっていた扉を乱雑に押し開けた。もの凄く不服な様子ではあるけれど、一応家の中には上げてくれるつもりらしい。
 そのままこちらに背を向けて、さっさと家の中に戻ろうとするその後ろ姿を見るうちに、あれほど騒いでいた心臓がいつの間にか大人しくなっていることに気付く。……なんだ、色々考えて勝手に緊張してしまっていたけれど、いざ顔を合わせてみれば意外と何ともないもんだなあ。後を追うのも忘れて小さく息を吐くと、わたしが突っ立ったままでいる気配を感じたらしい爆豪あいつが立ち止まって振り返った。

「……んだよ。さっさと上がって秒で帰れ」
「言われなくても……」
「――ちょっと、ちょっと勝己、ニュース見た!?」

 売り言葉に買い言葉を返そうとしたその時、開きっぱなしの玄関の奥からパタパタと慌ただしい足音が聞こえてきた。見ると、一度廊下を横切って通り過ぎようとした人影が、玄関先に立っている爆豪あいつの姿を見つけてこちらに駆け寄ってくるのがわかる。夕飯の支度中だったのだろうか、エプロンを着けて片手にはお玉を持ったままの彼女は、何やら焦った様子の光己さんその人だった。

「木椰区ショッピングモールにヴィラン連合が出て臨時閉鎖したんだって!今朝あんたのこと誘いにきたクラスの子達、確かあそこに行くって言って――」

 言いながらどんどんこちらへ歩み寄ってきた光己さんの目が、爆豪あいつの向こうで固まっているわたしの姿を捉えて静かに見開かれた。同時に呼び掛けられて背後を振り返っていた爆豪あいつの視線もこちら側に戻ってきて、わたしの手にぶら下がったままの買い物袋達を改めて見るや、その目元が鋭く険しい形に歪んでいく。
 考えてみれば当然のことだ。今何かと世間を騒がせているヴィラン連合絡みの話だったし、お茶子ちゃんがしっかり通報してくれたお陰で警察も駆け付けたし、なによりあれだけの規模のショッピングモールを一時閉鎖したとなればニュースにもなるだろう。気まずい静寂の中、わたしはただ誤魔化すように愛想笑いを浮かべることしかできなかった。















 件の白昼の邂逅エンカウントのその後。
 お茶子ちゃんの通報によってすぐに警察が駆けつけて、木椰区ショッピングモールの出入り口は迅速に封鎖された。けれど既に死柄木の姿はそこに無く、黒霧やその他のヴィランが潜伏している様子もない。
 集合場所の広場に慌てて駆けつけてきたクラスメイト達に囲まれたりなどしつつ、直接奴と接触したデクは事情聴取のために警察署へ連れて行かれた。もしかしたら今もまだ、あのスッキリした顔立ちの刑事さん――USJ事件のときもお世話になった塚内さんと話している最中かもしれない。
 現場に居合わせたお茶子ちゃんやわたしもその場で軽く話を聞かれはしたものの、本当にごく僅かな接触だったものだから同行とまではいかず、その場で解散するみんなと一緒に帰してもらえることになった……の、だけれど。

「――おいバカ。メール見てねえのかカス」
「う、……うん、まあ?」
「つーか警察来たならその場で釘刺されんだろアホ。何でここにいんだよてめェは」

 場所は移って爆豪家のリビング。
 有無を言わさぬ光己さんの指示で、ソファに腰掛けるわたしの目の前の天板に冷たい麦茶の入ったグラスの底を叩きつけた爆豪あいつは、徐にポケットから取り出した自分のスマホを弄って眉を顰めた。もれなく語尾に付いてくる暴言に思わずわたしの眉根も寄ったが、奴の言わんとすることもわかるというか――正直そこにはあまり触れないで欲しいというか。後ろめたさが勝ってつい視線を背けてしまう。
 メールというのは多分ほんの四、五分ほど前、雄英高校の事務局が全校生徒に一斉送信したアレのことだ。木椰区での一件を受けて、“生徒の皆さんは本日不要な外出を控えるように”とのお達しが出ているのをわたしも一応見てはいるし、爆豪あいつの言う通り、駆けつけてくれた警察の皆さんからも「このまま真っ直ぐ帰宅して、今日のところは火急でない外出は控えてください」と念を押されていた。何なら「寄り道せず真っ直ぐ、同じ方向の皆はなるべく固まって自宅へ帰ろう!」という飯田くんのテキパキ誘導まであったりしたのだけれど――わたしはそれらを掻い潜って勝手にここまでやってきたのだ。
 目を逸らされたのがまた癇に障ったのか、引き結ばれた爆豪あいつの唇がどんどんへの字に歪んでいく。それはもう「イラッ」という音が聞こえてきそうな勢いだ。何をそんなに苛立っているのかは知らないけれど、黙っているとまた話が拗れそうな気がしてきたので渋々口を開く。

「そりゃあ……だってさ、今帰っちゃったら暫くは外出控えなきゃいけなくなるじゃん?それじゃいつまで経ってもクッキーのお礼できないし」
「……」
「……うちに帰る前なら外出・・じゃないから。セーフでしょ」
「アホの理論だろ」
「うっさいな!」
「――まったく、あんたたちときたら」

 手土産に持ってきたビターチョコの箱を開けて机上に広げていた光己さんは、言い争うわたしたちを横目に見遣って呆れたように肩を竦める。けれどそれも一瞬のことで、わたしの正面のソファに腰掛けて足を組んだ彼女の顔は何だか機嫌良く微笑んでいるように見えた。目敏く気付いた爆豪あいつが、今度は光己さんの方を忌々しげに睨めつける。

「……何ニヤついてんだ、ババア」
「んー?そりゃあ嬉しくもなるっての」

 こういう時は「ババアって言うなっつってんだろ!!」とすっ飛んで息子の頭を張り飛ばしに行きそうな光己さんだけれど、今日はただ含みのある笑みを浮かべるばかりで怒り出す気配もない。どうやら本当に機嫌が良いようだ。勧めるようにチョコレートの箱をわたしの方にさり気なく押し出しながら、彼女は爆豪あいつと同じ真紅の瞳を感慨深げに細めた。

「体育祭の直後だっけ?あれからずっと“いっぺん連れてきな”って言ってんのに、さっぱり音沙汰ないもんだから、こっちも色々気ィ揉んでたんだけど……思ったより全然仲良くして貰えてんじゃないの。良かったわね」

 わたしにとっても想像の斜め上だったその台詞を聞くと、それまで不機嫌そうに歪みっぱなしだったあいつの顔面から、虚を突かれたように一瞬力が抜けて――すぐにその眦がギリギリと吊り上がっていく。こめかみに浮かぶ青筋も何処吹く風、今度は揶揄するような笑みを浮かべながら光己さんはまた肩を竦めた。

「心配してんのはわかるけどさァ、あんまりバカとかカスとか言ってると今度こそ本気で嫌われちまうよ?」
「――上等だァ!さっさと帰れやクソカスが!」

 とうとうブチ切れてしまった爆豪あいつは、ぽかんと成り行きを見守っていたわたしを容赦なく怒鳴りつけると、そのまま踵を返し苛立ちも露わな足取りでリビングを出て行く。その背中に向かって「おいコラあんた本当にいい加減にしろよ!!」と怒鳴り返した光己さんを、わたしは何となく潜めた声で慌てて制した。

「だっ……駄目!そういうイジり方は駄目です、マジギレしちゃうから!別にそんな仲良しでもないし!」
「ちょっと、火照ちゃんまでそういうこと言うわけ?そんなとこばっか勝己あいつに似なくても……」
「冗談ではなく……!」
「いいじゃないの!あの子が照れてキレ出すのなんか今に始まったことじゃないし」

 小さい頃も大体あんな感じだったろうにと、光己さんは懐かしむように笑う。
 果たして本当にそうだっただろうか。記憶の糸を手繰ってみると、無理やり手と手をくっつけて家路に着いていたあの頃の情景がふと頭に浮かんだ。「相っ変わらず仲良いねぇ」とニヤつきながら茶化すかっちゃんママと、憤慨して腕がもげそうなほど暴れる幼馴染の姿――た、確かに。彼女からしてみれば、今も昔もわたしたちのやっていること自体は大差ないのかもしれない。
 それでも、あの頃と今では互いの心持ちが随分違う。六年前の喧嘩に始まり、USJ事件、体育祭、期末試験その他もろもろ――爆豪あいつとの間には、なにぶん色々なことがありすぎた。怒っている姿を見ると妙にはらはらしてしまうのは、何度も傷付けて怒らせてしまった自覚と負い目があるからだろうか。何とも言えない思いで押し黙ると、光己さんはそんなわたしの様子を穏やかに見つめて言った。

「真面目な話、本当に安心したよ――何よりも、火照ちゃんがそうやって元気そうで居てくれたことにね」
「……、」
「ずっと気がかりだったんだ。お母さんと一緒に引っ越しちゃった後のこと、私らには何にも分からなかったからさ」
「多分……アレです。 父親あいつのことがあるから、どこに引っ越すのかとか、そういう手掛かりを残しちゃうと不味かったというか……」
「そりゃそうよねぇ……お母さんは?元気にしてる?」
「うん。引っ越しの二年後くらいに再婚して、今は新しい父さんと仲良く暮らしてます」
「そっか。本当……よかった」

 頻りにそう呟きながらも、嬉しそうに微笑んでいた光己さんの表情が少しずつ翳り始める。わたしはハッとして口を噤んだ。
 もう六年も前の話とはいえ、隣家であんな事件が起こっていたという事実は彼女にとっても気分のいいものではなかったはず。誘われ――いや、先日の爆豪あいつの態度を誘いと呼んでいいのかは微妙なところだけれど――とにかく誘われるままのこのこお宅に上がり込んで、再会の喜びにほんのり浮かれながらぺらぺら話してしまったけれど、結果的に嫌なことまで思い出させてしまったのではなかろうか。
 咄嗟に「ごめんなさい」の「ごめ」辺りまで口走りかけたそのとき、光己さんは組んでいた足を不意に解いて姿勢を正した。

「今更言ったって仕方ないのはわかってるけど――あの時は本当に、悪かったね」
「……えっ」
「毎日のように一緒に居たはずなのに、ギリギリになるまで何も気付けなかった。私らが大人として守ってやらなきゃならなかったのに、その責任を果たせてなかった。それどころか、勝己あのバカが余計な怪我までさせちまって……」
「ち――違うよ!あれは、あれは全体的にわたしが悪くて……いつだって頼れたはずなのに、勝手に諦めて意地張ってただけで……すから」

 元より彼女たちを恨んだり責めたりする気持ちなんて微塵もなかったけれど――ここ最近の諸々の出来事で、そんな感じのことはさんざ痛感させられていた。何よりも、あれだけお世話になった恩ある人に、そんな要らない責任を感じさせてしまっていることが歯痒くてたまらない。
 必死になってぶんぶん首を横に振ると、光己さんはその勢いに驚いて目を丸くした後、何とも言えない複雑そうな顔で黙り込んだ。あっ、その顔いつにも増して爆豪あいつに似てるかも――と、一瞬あらぬ方へ思考を逸らしかけたその時、

「――バカ!」
「うひゃっ」

 怒ったような声とともに光己さんがぐいとこちらに身を乗り出し、その右手が高く振り上げられた。幼い頃の――お説教の度にスパンスパンと叩かれまくっていたあの頃の記憶がさっと蘇り、反射的に悲鳴を上げながら身を強張らせると、殆ど力の込もっていない手刀がとんとわたしの額を叩く。想像よりもずっと優しい衝撃に困惑しながら薄っすら目を開けると、先程までより少し近い位置から、光己さんの赤い目が真っ直ぐわたしを見つめていた。

「あんたが負い目を感じる必要なんてないの。“自分も悪かった”なんて、絶対思っちゃダメ」
「……、」

 ――“全部自分てめェが悪いことにしときゃそれでいいんか!?”

 いつぞやの怒鳴り声が脳裏に鳴り響いた。何も言えずに固まるわたしの額から手刀を離し、光己さんは乗り出していた上半身を再びソファの背もたれに預け直す。依然として真剣な色を帯びた声音がわたしを諭した。

「あんたが優しい子なのはわかってるけどね――そうやって要らないモンまでまとめて背負い込んじまうのは、ちょっと欲張り・・・なんじゃないの?」
「……うぐ、」

 思わず言葉に詰まる。“何でもかんでも背負い込もうとするな”と、以前わたしに言ってくれたのは相澤先生だっただろうか。デクにも“悪い癖”と言われた覚えがあるし、上鳴には“水臭い”だの何だのと言われたし――こうして思い返してみれば、色んな人から散々言われまくってきたことなのに、またやってしまった。こういうわたしの態度こそが、爆豪あいつからしてみればきっと堪らなく傲慢なのだ。
 まったく本当に、どうしようもないやつだなあ、わたし。小突かれた額を摩りながら、つい神妙にうな垂れてしまう。けれど、そんなわたしの様子を見た光己さんは、引き締めた表情を不意に緩めて笑った。

「そうは言っても難しいよねぇ!一度染み付いちまった考え方の癖ってのは、なかなか消えてなくならないモンだしさ」
「……うん」
「でも、ちょっとずつでいいから……周りの大人や友達を頼ってくれると嬉しいなって思うわけよ。お母さんやお父さんに言いにくいことでも、私やうちの人になら言えるかもしれないし――私らに言えないことも、勝己になら言えるとか。そういうのもあるだろ?」
「い、いや……、あいつはその、人の悩みとか聞いてくれなさそうだし、弱気なこと言ったら怒りそうだし」

 そう、だからアレもコレもソレも全部言えなくて、それがまた余計に仲を拗らせる原因になってしまったのであって――寧ろ、まさに“爆豪あいつに言えないことを光己さんに言えてる”というのが現状のような気がするのだけれど。
 ぼそぼそとそんな言葉を零すと、光己さんは拍子抜けしたように二、三瞬きを繰り返した後、先程爆豪あいつが出て行った扉の方をちらりと見遣って何やら含みのある笑みを浮かべた。

「あーあァ、日頃の行いってヤツだね」
「いや、でも、その……善処します!」

 居た堪れなくなって咄嗟に声を上げると、ほんの少し嬉しそうに笑んだ彼女の手が伸びてきて、わたしの前髪のあたりをくしゃくしゃと撫で回した。そのすべすべの肌触りは、記憶にある彼女のそれとまるで変わっていない。
 またこんな風に頭を撫でてもらう日が来るなんて、少し前までは考えすらしていなかった。何とも擽ったい気持ちになって、口元が勝手に緩んでしまう。最後にわたしの頭をぽんと軽く叩いた光己さんは、満足げな面持ちで立ち上がりながら袖口を捲り上げた。

「さてと、説教臭い話はこの辺にしておいて……夕飯食べてくだろ?ちょうど今日は火照ちゃんが好きな――」
「あっ、ごめんなさい……!お母さんには用事が済んだらすぐ帰るって言っちゃったし、一応わたし、今外に出てちゃいけない人間だから……今日のところはお暇しようかなと」
「ハァ!?」
「(圧が強い……!!)えっと、そもそも今日は頂いたクッキーのお礼しに来ただけだし……!また今度、出かけても大丈夫な日に改めてお邪魔しますから!」

 時計を見れば既に夜の七時を回ろうかというところ、話し込むうちに窓の外もすっかり薄暗くなっていた。寄り道する旨はお母さんにも連絡してあるけれど、昼間の事件がニュースで大々的に取り上げられている現状では、これ以上遅くなると流石に心配を掛けてしまうことになりそうだ。
 注いでもらった麦茶を慌てて飲み干し立ち上がると、光己さんは少し不服そうに唇を尖らせながらも「そお?」と頷いてくれた。が、ほっと息を吐いたのも束の間、今度は手土産に持ってきたはずのチョコレートの小包装がわたしの手のひらへ強引に押し込まれる。

「じゃあせめてこれ、持って帰んな!はい!」
「え!?いやだから、これはクッキーのお礼で――」
「貰ったんだからもう私のモン!私のモンを誰にあげようが私の自由!大体あれってもうかれこれ二ヶ月近く前・・・・・・の話だろ?律儀にこんな立派なお礼なんか持ってこなくても良かったのに……」
「……へ?」

 渡そうとする光己さんと返そうとするわたし、互いの手を重ねたまま膠着状態に陥りかけていたのだけれど――思いもよらぬ言葉に思わず力が緩んで、今度こそチョコレートの包みはわたしの手に渡ってしまった。呆けて固まるわたしの様子はさして気にもせず、光己さんは「勝己!勝己ー!!あんたちょっと来な!!」と廊下に向かって声を張り上げ、少しの間を置いて階段を下る気怠げな足音が聞こえてくる。その間もわたしは、少し前から朧げにあった――今になってようやく少しずつ形を持ち始めた違和感・・・の正体に思いを馳せていた。
 実を言うと昨日の晩、上鳴から逃げるようにして帰り着いた自宅で、あの割れてしまったクッキーを口に含んだ時――何かが胸の内に引っかかるような感覚があったのだ。その時は漠然とした違和感としてしか捉えられなくて、すぐに考えるのをやめてしまったのだけれど、今なら何となくわかる。自分の記憶の中にある彼女の味と、ほんの僅かに風味が違うような気がする……というのもあったのだけれど、それよりも。
 せっかく光己さんが手ずから焼いた割れやすいお菓子クッキーを――爆豪あいつが、あんな風に思いっきり投げつけて渡したりするだろうか?
 現にアレはキャッチした拍子にばっきりと割れてしまった訳だし。あれで意外と母さん思いなところもある爆豪あいつの一面を思うと、あの日の行動はどうにも腑に落ちなくて。

「(いや、まさか――)」

 ふと頭に浮かんだ可能性は、あまりにも根拠が薄くて、推測というよりは直感に近い。「うるっっっせえな何の用だババア!!」と怒鳴り散らしながらリビングへ戻ってきた爆豪あいつの顔をついまじまじ見遣りながら考える。市販のものに比べて甘さがやや控えめの素朴な味わいは、確かに幼い頃よくご馳走してもらったものとよく似ていた。けれどもし、もし昨日貰ったアレが、光己さんの焼いたものじゃない・・・・のだとしたら――。

「(いや……流石に……)」
「火照ちゃんもう帰るっていうから、あんた駅まで送ってきな。ほら荷物も持て」
「あ゛ァ!?ンで俺が――」
「日中あんな事件があったばっかなのに、夜道を女の子一人で帰せるわけないでしょうが!いいからさっさと支度して行けっての!」

 ソファの横に置いてあったわたしの買い物袋を押し付けられた爆豪あいつが、彼以上に語気の強い光己さんの迫力にやや押し負けて言葉を詰まらせ、わたしを睨みつけてから渋々といった様子で再びリビングを出ていく。火に油間違いなしの問いかけをその背に投げかける勇気は流石に持てず、わたしは湧き上がる疑念にそっと蓋をした。まさか――うん、まさか、ねえ。

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