「……えっと……ほたるちゃん?」

 戸惑いがちに声を掛けられて、一、二、三秒ほど。ぼんやりと思考の海を漂っていた意識が数拍かけてゆっくりと浮上し――正面からわたしを見ているその丸い両目に、困惑の色がありありと浮かんでいることにようやく気付く。右隣からも視線を感じてちらりと目だけで振り向くと、デクのそれと同じくらい丸みを帯びたお茶子ちゃんの両目が、不思議そうにわたしの横顔を見つめているのがわかった。
 考え事に没頭していて、つい不躾に彼の顔を眺め過ぎてしまったらしい。正面の座席で少し身を強張らせていたデクは、焦ったように自分の顔面をぺたぺたと撫で回し始めた。

「も、もしかして僕の顔何かついてる?ちゃんと朝洗ってきたんだけど……!」
「あ、いや、全然そんなんじゃないよ。ごめんごめん」

 どこか別の場所へ視線を移さなければと、取り繕いながら咄嗟にすぐ左側にある窓へ向き直った瞬間、車両がトンネルに入った。真っ暗になったガラスに写り込んだ自分の顔の更に向こう側、ちょうど反対側のボックス席に座っているらしい明るい金色の髪が、通路に立つ乗客たちの合間からちらりと垣間見える。
 休日ということもあってか、木椰区へ向かう電車内は結構混雑していて、途中の駅で合流したクラスメイトたちとも席がばらけてしまっているのだ。わたしと同じ四人掛けのボックス席に座っているのは、正面でいまだに自分の顔を気にし続けているデク、その隣で腕を組んだまま静かに目を瞑っている常闇くん、それからわたしの横で首を傾げたままのお茶子ちゃん。
 全員気心の知れた同級生なのだから、普段なら何の問題も無かったはずなのに――やっぱりそれもこれも全部上鳴が悪い。窓にちらちら映り込む金髪頭のてっぺんを軽く睨みつけて、わたしは小さな溜息を吐いた。




“――で、おまえさ。爆豪と緑谷と轟、結局どいつが好きなん?”




 何よりもまず、言っていることがまるで理解できなかった。
 轟くんとの間にそういうのは全くないと何度も否定しているはずだったし、爆豪あいつだって――ち、違うって以前きっぱりと言ってやったし、デクに至ってはどうして突然名前が出てきたのかもう全然わからないし。ツッコミどころが多過ぎて唖然としたまま固まっていたわたしに向かって「俺的にはやっぱ爆豪じゃね?って思うんだけど」だの「爆豪だよな?なあー!?」だのときゃんきゃん騒いでいた上鳴は――挙げ句の果てに、

「あ、もしかして俺!?俺か!?いやー参ったなァ、こう見えて割と爆豪ダチとの友情も大事にしたいタイプなんだけど――まあでも大丈夫、好きになっちまったモンはもうどうしようもないよホント!恋心ってのは抑えられるモンじゃないから!!」

 とか何とか言い出して――いや、今思えば完全にフリーズしていたわたしの様子を気遣ってわざとふざけたことを宣っていたのだとは思うのだけれど。
 とにかく次から次へと訳の分からない言葉を浴びせかけられたわたしが、我慢できずにそのよく動く唇をぴったりと磁力こせいで貼り合わせてしまったので、その話はそこで強制終了したのだった。後になって考えてみれば、塞がった口で何事かをモゴモゴ訴えようとする上鳴の姿はほんの少し可哀想だったような気もするけれど、どうせ一時間もすれば消えて無くなってしまう程度の磁力だったし、ちゃんと学校を出てから解除もしてやったし、その辺は大丈夫――だったと思いたい。
 他に気がかりなことといえば、衝動のまま教室を飛び出した時にすぐそこの廊下ですれ違った常闇くん(教室に忘れ物でもしたのだろうか、突然飛び出してきたわたしに大層驚いて珍しく目を丸くしていた)の存在だったのだけれど、今日こうして顔を突き合わせても何も言われないところからすると、あのしょうもないやり取りを見られたり聞かれたりしていた訳ではないようで……それ自体は不幸中の幸いといったところだろうか。
 けれど――そう、彼は何ひとつ悪くないのだけれど、その羽毛に包まれた黒いかんばせを目にすると、どうしても一連の出来事が脳裏に蘇ってきて悶々と考え込んでしまうのだ。
 大体“次の段階”って何さ。こちとらようやくマイナスに振り切れてた関係がゼロに戻ったところで……いや待って違う、何でナチュラルに爆豪あいつの話になってんの。本当に意味がわからない。上鳴のバカ――なんていう心の独り言を、数駅前で常闇くんたちと合流してからずっと一人で繰り広げてしまっていて。ともすればあらぬ方向に飛んで行こうとする思考を堰き止めるために、何とかして頭を違う物事の方へ向けようとしたのが、つい先程デクを大いに困らせてしまった視線の発端だった。

「(うーん――……イズ、かあ)」

 トンネルを抜けて再び街並みを映し出した窓から視線を外し、真向かいの席の方をちらりと盗み見る。そばかすの散った頬をずっと触って確かめていた彼は、ようやく自分の顔面の正常ぶりに自信を持てたようで、今はお茶子ちゃん同様、ただ行儀よく座ったままわたしの顔を戸惑いがちに見つめているだけだった。その面差しが幼い頃とちっとも変わっていなくて、なんだか懐かしいような可笑しいような、不思議な気持ちにさせられる。

 小さい頃の出久イズは、わたしにとっては弟のような存在だった。
 わたしよりも背が小さくて、髪の毛が寝癖みたいにモサモサで、泣き虫で、いつも誰かさんにいじめられていて――“無個性”で。真面目で正義感の強い子ではあったけれど、そういう抜けた・・・ところが沢山あったから、あの頃は年下の男の子を庇うような気持ちで彼の前に出ていたのだけれど。

“爆豪と緑谷・・と轟、結局どいつが――”

 そんな風に思っていたから、あの時あの中に彼の名前が出てきたことに、何だかはっとさせられてしまったのだ。
 小さくて弱かったイズはもう居ない。こうして改めてまじまじと見てみると、優しい目や佇まいはそのままだけれど、あの頃からは想像もつかないほどに大きく、逞しく、強くなった。もの凄く今更なことを言えば、彼だってもう幼い子供じゃなくて、すっかり立派な男の子になってしまったのだ。いつまでも弟分のようには扱ってはいられないなあと思うと、感慨深さのようなものさえ感じてしまう。
 そうやって目の前の成長した幼馴染について思いを馳せるうちに、あるささやかな疑問が仄かに湧き上がってきて――本人に訊くか訊くまいか、不躾な好奇心となけなしの理性をせめぎ合わせながらつい彼の顔を凝視してしまったのがいけなかった。もうデクやお茶子ちゃんの関心は完全にわたしに向いてしまっているし、何なら盗み見るつもりでちらりと彼に向けただけの視線も、向こうがわたしの顔をじっと見つめていたのでばっちり合ってしまっている。
 これはもう普通に切り込んでしまった方がいい奴だ。そう、そんなに足踏みするようなことではない。ただの世間話のようなものだし――全然、どこぞの誰かの赤い目が脳裏をちらつくからその手の話題を持ち出したくないとかそんなことは全くないし。うん、大丈夫。やや深めの息を吐いて気持ちを切り替えながら、意を決して今度こそデクの方に顔を向ける。

「いや、ほんとごめんね。大したことじゃないんだけど……デクってさあ」
「うん?」
「今好きな子とか居るの?」
「ブフォッゲホッゲホッ」
「麗日さん!?!?」
「お茶子ちゃん!?!?大丈夫!?」

 わたしとしては照れて顔を真っ赤にしながら慌てふためくデクの姿を勝手に予想していたのだけれど、何故か隣で持参した水筒の中身を飲んでいたお茶子ちゃんの方からもの凄く苦しそうな音が聞こえた。慌てて腰を浮かせたデク、流石に驚いたのか開いた目をぱちくりさせている常闇くんの様子を横目に見つつ、咄嗟に鞄から引っ張り出したポケットティッシュを差し出すと、お茶子ちゃんはぜえぜえと肩で息をしながら「あ、ありがと」と掠れた声を絞り出す。

「し、失礼しました……!アレだよ!揺れた拍子にちょっと麦茶が変なとこ入っちゃって!!」
「そ、そっか……!」
「それより……ほたるちゃんはその、なんで急にデクくんに……そ、そのような質問を?」

 湿った口元をティッシュで拭うお茶子ちゃんの瞳が、恐る恐る伺うようにわたしの方を見上げる。言葉遣いがぎこちないのは噎せて動揺してしまったからだろうか。デクもようやくそこで自分が食らった質問を思い出したのか、ほんのりと頬を赤らめながらうんうん頷いている。今度はわたしが視線を泳がせる番だった。
 「いや、上鳴が――」と、うっかり正直にそこまで言いかけて、すんでの所で口を噤む。ここに至るまでの経緯を全部説明するの?“結局どいつが好きなん?”のくだりとか、わたしの小っ恥ずかしい悶々の辺りとか――いやいやいや無理無理無理。無理だ。「上鳴くん?」と首を傾げる二人からパッと視線を背けて再び窓の外を見ると、ちょうど少し離れた場所に大きなショッピングモールの外壁が見え始めた辺りだった。しめた、目的地は近い。適当に誤魔化して逃げてしまおう。

「――や、やっぱなんでもない。忘れてください」
「ええ!?」
『――間もなく木椰区、木椰区です。お降りの方はお忘れ物のないようご準備ください――』
「ホラ次だよ荷物持って!わー楽しみだなーみんなで買い物!」
「……嘘は不得手か」

 それまで基本的に黙って成り行きを見守っていた常闇くんにさらりと刺されて一瞬言葉に詰まったけれど、とにかく膝に抱えていたリュックを背負って席を立つ。そこらの座席に散らばっていた同級生たちが同じく立ち上がり始めたのを横目に、そそくさと人混みを縫って降り口の方へ急いだ。程なくして電車が停まり、ホームへ降りた勢いそのままに、改札へ続くエスカレーターへ急ごうとした――その時、

「――ほたるちゃん!」

 後ろから軽く手首を引かれて振り返ると、少し息を切らしたお茶子ちゃんがそこに立っていた。どうやら一人逃げるようにさっさと降りてしまったわたしを追ってきたらしい。彼女はきょろきょろと周囲を気にするような素振りを見せながらわたしの手を引き、電車を降りる人々の流れから少し離れた場所に移ると、潜めた声でわたしの耳元に何事かを囁きかける。

「あ、あの」
「う、うん」
「えっと……その、ほたるちゃんって」
「……うん?」
「実はデクくんのこと――す、す……好きだったり、するのかなって」
「へ?」

 思わず素っ頓狂な声を出してしまったけれど、お茶子ちゃんの表情は真剣そのものというか、何だか鬼気迫るような深刻さが見て取れるような気さえした。その目があまりにも真っ直ぐだったから、彼女が本気でそう・・思っているのだということがわかって――呆けて半開きのままだった唇から、ついつい笑い声が漏れてしまう。

「ぶはっ――ち、違う違う!まさか!」
「まさか!?」
「さっきのは全然そういうのじゃなくて……なんて言うのかな、ほら……いろいろあって」
「いろいろ……!?」
「……年頃の弟の恋愛事情が気になる……みたいな?」
「お……おとうと……!」

 かなり真剣にわたしの言葉を聞いていたお茶子ちゃんは、最後の方になると少し脱力しながら、嬉しいようなそうでもないような、何とも複雑な面持ちで「そっか……いや、そうだよね」「ほたるちゃんには爆豪くんがおるもんね」と頷いた。
 何だかまた聞き捨てならない言葉が聞こえたような気もするし、墓穴を掘った感が凄いけれど、ともあれあらぬ誤解は解けた――と、思いたい。
 そうこうするうちに別の降り口から出てきたクラスのみんながどんどん集まってきて、「やっと合流できたねー!」「流石に電車も混んでたなー」なんて言葉を交わしながら改札の方へ纏まって動き始める。ようやくいつもの調子に戻って「私らも行こっか!」と歩き出したお茶子ちゃんに続いて、わたしもその中に混ざろうと一歩踏み出した――その時、

「……奴の言葉も、そうして一笑に付してしまえば良かったものを」

 背後からそんな言葉が掛かった。
 振り返るより早く、心なしか呆れた様子の常闇くんがポケットに手を突っ込んだ格好でわたしの横に並び立つ。どうやら偶々すぐそこの降り口から出てきたらしい彼は、「すまない。前回も今回も、立ち聞きするつもりは無かったんだが」と前置きして、独特の落ち着き払った声音で告げた。

「……無粋を承知で言わせてもらうが――昨日の有様では、あの中に正解がある・・・・・と教えているようなものだぞ」
「……へ?」
「……やはり、嘘は不得手らしいな」

 それだけ言うと、常闇くんは一足先に動き始めたクラスメイトたちの後ろを追うように歩を進める。わたしは右足を一歩踏み出した姿勢で固まったまま、その黒い後ろ姿を少しの間ぽかんと眺めていた。
 ――き、

「聞かれてたんかい……」

 率直な感想をぽつりと呟くと、えも言われぬ羞恥心に顔がほんのり熱くなる。常闇くんに昨日のあのしょうもないやり取りを目撃されていたこと自体もそうだけれど、あの中に正解・・が――いや、無いったら。違うんだってばほんと。みんな人の気も知らないで勝手なことばっかり言って。ぶんぶんと首を振って、顔面に集まってきた仄かな熱と、じわじわと大きくなり始めた鼓動の響きを強引に追い払った。

 ――だって、やっとだ。
 わたしのせいで大きく欠けてしまった六年分の溝がようやく少しだけ埋まって、何となく以前よりは良好な関係になった――かもしれない、くらいのところなのに。惚れただの腫れただの、そんな感情をうっかり持ち込んだりしたら、今は奇跡的に保たれているわたしたちのバランスが呆気なく崩れてしまうような気がしてならない。これ以上ぐちゃぐちゃになってしまったら、きっと今度こそわたしの手には負えなくなる……、

「(……なんか……言い訳みたいじゃん、それじゃあ)」

 ああ――もう、考えれば考えるほどドツボに嵌ってしまう。それもこれも全部上鳴のせいだ。そういうことにしよう。脳裏で邪気なく笑う奴の顔をほんの少し恨めしく思いながら、何となく赤くなっているような気がする頬を誤魔化すようにべちりと叩いて、わたしは半端に踏み出していた足を今度こそ動かした。

 夏休み目前の空気に飲まれているのか、妙に浮ついた自分の頭が嫌になる。この緩みきったネジをきつく締め直してくれるような――妙にふわふわした感情を忘れさせてくれるような、そんな出来事のひとつでも起こればいいのに。

 この時のわたしは、ただそんな事ばかりを祈っていたような気がする。

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