「おはよ――うわっ」

 ――一夜明け、実技試験の翌日。
 スピーカーから流れる予鈴の音を背後に聞きつつ、抜け切らない疲労でぎしぎし軋む体を引きずりながら教室の後ろ側のドアを開けたわたしを出迎えてくれたのは、何だか気まずそうに苦笑いを浮かべているデクと瀬呂くん、そしてすっかり消沈しきった四人組――ミナちゃん、上鳴、砂藤くん、切島くんの顔だった。
 夏の朝に似つかわしくない沈痛な雰囲気もさることながら、特にクラスの中でも明るい部類の彼らがそんな様子でいたものだから、余計に異様な空気が立ち込めている。挨拶もそこそこに「え、どしたの……」と言葉を発しかけて――はっとして思わず口元を押さえた。
 そうだ、自分のことで色々あったから頭から抜け落ちかけていたけれど……この四人といえば、実技試験で先生に為す術なくあしらわれ、クリア条件を達成できなかった面々。つまり林間合宿不参加で補習地獄が濃厚な四人組だ。特にミナちゃんと上鳴は多分クラスで一番合宿を楽しみにしていた二人だし、涙ぐんだり無表情で俯いている姿を見せつけられるとどうにも居た堪れない。そんな感情がつい顔に出てしまったようで、生気の薄い目でわたしの方をちらりと見遣った切島くんが、乾いた笑いとともに小さな溜息を吐き出した。

「いいんだぜ、はっきり言えよ南北……“あーそっか、林間合宿行けない組かあ”ってよ……!」
「皆……土産話っひぐ、楽しみに……うう、してるっ……がら!」
「まっ、まだわかんないよ!どんでん返しがあるかもしれないよ……!」
「緑谷、それ口にしたらなくなるパターンだ……」

 どうやらデクはすっかり落ち込んでしまった四人を励ましているところだったらしい。が、その善意の同情が逆に虚しさを煽ったようで、上鳴は「貴様らの偏差値は猿以下だ!!」とか何とか叫びながら暴れている。相当堪えてるみたいだし、これはちょっとそっとしておいた方がいいかもしれない、とわたしは思ったのだけれど、優しい瀬呂くんは少し苦い顔で自分を指差した。

「わかんねえのは俺もさ。峰田のお陰でクリアはしたけど寝てただけだ」
「えっ!?」
「“えっ!?”ってなんだよ!?」
「今峰田くんのお陰って言った!?」
「あっ、そっか……ほたるちゃん、峰田くんたちの試験だけ見てなかったんだよね。凄かったんだよ!」
「そうそう、俺は速攻で眠らされちまって……峰田の機転で何とか条件達成よ」

 信じられない思いでちらりと自分の席の方を窺うと、一つ後ろの席に座っている峰田くんがご満悦の笑みを浮かべながら聞き耳を立てているのがわかった。マジか。マジか。そんな凄いことになってたなら、二人の試験もギリギリまで見てみたかったかも……でもあの時は外せない用事・・・・・・があって――。
 そこまで考えると、昨日の試験前から試験後にかけてのあれやこれやが脳裏に蘇ってきて、つい視線を前の列へ滑らせてしまう。前から二番目の席に座っている爆豪あいつは、妙に機嫌の悪そうなオーラを撒き散らしながら無言で窓の外を睨みつけているようだった。

 昨日はあの後教室で感想戦を行って、爆豪あいつとはそれきり会話もなく終わった。試験映像の一番最後、気絶した爆豪あいつを救けようとした部分が再生された時にはデクと二人揃って物凄い顔で睨みつけられたけれど、それだけ。幸い容赦なく弾かれた額は痣にならずにすんだけれど、結局わたしは――許してもらえたんだろうか。そんなことを考えていると、何だか釈然としないような、もやもやとした思いが胸の内で燻り始める。ムカつくとか怒ってるとか、そういう訳じゃあないんだけれど。

 何か、わたしが一方的に喚き散らしただけで、結局爆豪あいつが何を考えてどんな気持ちでいるのか、あんまりわからなかったっていうか――。

「……南北?おーい、どうした?」

 急に黙り込んだわたしを不審に思ったのか、さっきまで上鳴となんやかんや言い合っていた瀬呂くんの手がわたしの目の前でひらひら動いた。何となく爆豪あいつについて考えていたことを悟られたくなくて、咄嗟に首をぎゅんと回して窓際前二列目の席から視線を逸らし、「うおっ」と驚いたように手を引っ込めた瀬呂くんのあっさり醤油顔を見上げながら言葉を探した。えっと、何の話ししてたんだっけ――ああそうだ、試験。試験の採点基準が不明で、瀬呂くんは寝てただけだから不合格かもしれなくて……。

「……ドンマイ!」
「古傷抉んなよォ!!」
「――予鈴が鳴ったら席につけ」

 瀬呂くんの絶叫と共に勢いよくドアが開き、小脇に冊子を抱えた相澤先生が姿を現わす。騒がしかった教室は一瞬で水を打ったように静まり返り、わたしもサッと素早く身を翻して着席した。いつも通り無駄のない動線で教卓に立った先生は、天板の上で冊子の端を揃えながら淡々と言葉を紡ぐ。

「おはよう。今回の期末テストだが……残念ながら赤点が出た。したがって――」

 ちらりと視線だけで教室の各所に散らばった四人の顔を伺うと、無慈悲な赤点宣告に各々苦々しい表情を浮かべていた。上鳴に至ってはショックのあまり悟りの境地に入ったらしい。アルカイックスマイルだ。斜め前の席で「うえ」と不安げな表情を浮かべている瀬呂くんの横顔も視界の端に留めつつ、せっかくの林間合宿なのに全員で行けないのはやっぱり残念だなあ、ミナちゃんも一緒に女子全員で楽しみたかったなあ、なんて思った、その直後。

「林間合宿は全員行きます」
「――どんでんがえしだぁ!!!」

 珍しく口角を上げながら放たれた先生の言葉と、四人分の絶叫が教室にこだましたのだった。
















「なんかちょっと慣れてきたよね、合理的虚偽ゴーリテキキョギ
「俺はまたしてもすっかり騙されて……くぅ!!」
「まあ何はともあれ、全員で行けて良かったね」

 放課後、わたしの横で未だに若干悔しがりながら飯田くんが合宿のしおりを開くと、帰り支度を整えた尾白くんが場を取りなすように笑って言った。
 結局のところ、“そもそも強化合宿・・・・である林間合宿においては、赤点を取った生徒ほど力を付けてもらわねばならない”ということで、赤点組の居残りは先生お得意の合理的虚偽。幸いなことに、わたしたち1年A組は全員揃って夏休みの合宿に臨めるらしい。落ち込んでいた四人――と、結局実技赤点組だった瀬呂くんも、“ぶっちゃけ学校に残っての補習よりキツイ”という合宿中の補習地獄を言い渡された時は絶望的な表情を浮かべていたけれど、それでも随分元気を取り戻したようだった。
 尾白くんの言葉に頷きながら、飯田くんが冊子のページを捲る。反対隣からはデクがひょっこりと顔を出し、その中身を一緒に覗き込んでいるようだった。

「一週間の強化合宿か!」
「結構な大荷物になるね」
「水着とか持ってねーや。色々買わねえとなあ」
「あ、じゃあさ!明日休みだしテスト明けだし……ってことで、A組みんなで買い物行こうよ!」

 途中どこからか聞こえたような気がする「暗視ゴーグル」とかいう不穏な単語は一先ず置いておいて――葉隠ちゃんが見えない顔を輝かせながら言うと、すっかりいつもの調子に戻った上鳴が「おお良い!!」と大きく頷く。

「何気にそういうの初じゃね?」
「おい爆豪、おまえも来い!」
「行ってたまるか。かったりィ」
「轟くんも行かない?」
「休日は見舞いだ」
「ノリが悪いよ空気を読めやKY男共ォ!!」

 と、一部の素っ気ない面々を除いて教室が一気に盛り上がり、「じゃ、後で集合時間連絡するね!」と葉隠ちゃんがスマホを振って宣言すると、みんなそれぞれ楽しげな面持ちで出口に流れ始めた。買い物かあ――こんなに大人数の友達と出かけるのって、そういえばあんまり経験ないかも。どんどん人気が無くなっていく教室の中、わたしもわたしで何となくワクワクしながら鞄を背負っていると、すぐそこに立っていた上鳴が足を止めてこちらを振り返る。

「南北は?行くよな?」
「うん、わたしも色々買わなきゃだし」
「轟は用事あるみたいだからしゃーねーけどさ。爆豪も来りゃいいのになァ」
「いや絶対来ないでしょ……」

 切島くんと二人で……とかならともかく、休日にクラスのお買い物会に参加する爆豪あいつの姿は流石に想像できない。ついつい小さく笑いながら肩を竦めると、上鳴は少し面食らったように目を丸くして、半開きの唇から「……へ?」と曖昧な音を漏らした。その素振りが何やら物言いたげに見えて、思わず眉間に皺が寄る。

「……何さ」
「いや、おまえ……爆豪となんかあったん――」

 ――上鳴が言い切るより早く、視界の端を何か青い物が掠めた。
 振り向くと、その何かは結構な勢いでわたしの眼前に迫ってきている。片手で掴める程度の大きさの、青い袋状の物体。弾丸のようにまっすぐ突っ込んでくるそれが、このままいけばわたしの顔面に気持ちよく激突してしまうだろうことは想像に難くなかった。どうしたものか、ほんの一瞬だけ躊躇したのだけれど――、

“――突っ立って見てても、攻撃は避けてくれないぞ。”

 何度目かの訓練の時に相澤先生から貰ったお小言が脳裏を過って、咄嗟に手が出た。ぐいと上半身を逸らして激突までの猶予を作り、白刃取り的な要領で飛んできた袋を思いっきり挟み込む。辛うじて顔面キャッチを回避できたその袋の中から、何か“バキッ”という音と、薄い板が割れるような感覚が掌に伝わって――、
 ……バキッ?

「――うお!?爆豪!!」

 目をぱちくりさせながら一連の出来事を見守っていた上鳴が、ふと袋が飛んできた方向――教室の入り口を見て、大袈裟に驚きの声を上げた。袋を挟み込んだ両腕の間から向こう側を覗くと、確かに開きっぱなしのドアの側に爆豪あいつが立っている。右腕を振り下ろしたその格好から察するに、袋を投げつけてきたのは奴で間違いないようだった。投げ渡すというより、完全に顔面に当てに来ている感じの球速だった気がするんですけど。実際目論見が外れて不服だったのか、それとも他に何か思うところがあったのか、爆豪あいつは両手をポケットにしまいながらわたし――とついでに上鳴を軽く睨みつけ、小さく舌打ちを零した。

「ババァがうるせえ」
「……へ?」
「体育祭の後……てめェがあんなとこうろつきやがったせいで、“連れてこい”って毎日うっせんだよ」
「バ、ババァって……光己さんのこと?」

 そういえば体育祭の直後、ふらふらと自分の家の跡地へ足を延ばした時に、光己さんとも一瞬だけど顔を合わせたんだっけ。あの時はわたしの方が逃げるように走り去ってしまったけれど、どうやらそれからずっと気に掛けて貰っていたらしい。
 とはいえ、今になってそんな話が爆豪あいつの口から出てくるとは思いもよらなかった。若干面食らいつつも両手で挟んだままの袋を手よく見ると、口は可愛らしい白のリボンで綴じられていて、中から仄かに甘く懐かしい香りが漂っているような気がして――そこでようやく、わたしはその袋の中身を悟ることができた。

「……ねえ、ちょっとこれ」

 ――わたしが好きだった、かっちゃんママの手作りクッキーの匂いだ。学校が終わって隣の家に帰ると、彼女がよくこれを皿に盛って出迎えてくれたのを覚えている。“勝己は甘いのあんまりたくさん食べないから、火照ちゃんがいると作り甲斐あるわァ”なんて笑いながら、夢中で頬張るわたしの頭を小突いたりしてたっけ。
 つまり爆豪あいつは、これを光己さんママから預かってきた……ということなんだろうか。思わず視線を上げて、憮然としたままの爆豪あいつの顔をまじまじと見返してしまう。彼は少しだけわたしと目を合わせた後、ふいと顔を背けて爪先を廊下へ向けた。

「俺が居ねえ時に行って黙らせとけ」
「……はい?」
「居る時に来やがったらブッ飛ばす」

 なんじゃそりゃ――と、あんまりな言い分に文句をつける前に、淡い色のツンツン頭はドアの向こうに姿を消した。わたしはせっかく貰ったのにうっかり砕いてしまったクッキーの袋を両手の間に挟んだまま、遠ざかっていく気怠げな踵の音を呆然と聞いていた。
 やがてその靴音も、遠くからほんのりと聞こえる帰宅中の生徒たちの声や足音に紛れて消えていく。ぽかんと口を半開きにしたまま固まっているわたしと上鳴だけがその場に取り残されて、教室は暫しの間沈黙に包まれていたのだけれど、やがて我に帰ったらしい上鳴が勢いよく身を乗り出してわたしに詰め寄った。

「はああああああ!?何!?何よおまえらどうした!?やっぱ仲直り!?」
「……そ、そんな風に見える?」
「だっておま、今のあれ……!!あっちから普通に話しかけて来てんじゃねーか!!あの爆豪が!?奇跡か!!明日は雪か!?」

 大騒ぎの上鳴がわたしの手を取ってぶんぶん振り回すと、ただでさえ割れてしまっているクッキーが袋の中でガシャガシャ擦れ合う音が聞こえた。思わず振り払ってストップを掛けると、彼は「わり!」と軽い調子で謝りつつも、興奮冷めやらぬ様子で頻りにわたしと教室の出口とを見比べて「うわーマジか……マジかー……!!」などと呟いている。何故か当事者わたしよりはしゃいでいるその横顔を横目に、わたしも爆豪あいつが消えていった扉の向こうをぼんやりと見遣った。
 素っ気ない言葉。小さな舌打ち。相も変わらず無愛想で乱暴な態度だったけれど。
 あの赤い目を見つめ返した時――少し前まで爆豪あいつと顔を合わせるたびに感じていた変な緊張感や怯えのようなものが、不思議と湧いてこなかった。

「……よくわかんないけど」
「ん?」
「――ちょっとはマシになれたのかな」

 呟くと、上鳴は驚いたように二、三まばたいた後、ニカッと笑ってわたしの背中を叩いた。“何言ってんだよ”とでも言いたげなその軽快な衝撃が彼の返事らしい。
 思えばこいつも梅雨ちゃんたち同様、何やかんやわたしと爆豪あいつの仲を気遣って心を砕いてくれた人の一人――というか、幼馴染デクを除けば最初の一人と言っても過言じゃないかもしれない。あんまりはしゃぐから驚いてしまったけれど、それだけ親身になってくれているのだと思うと、何だかくすぐったいような気持ちになった。妙に照れ臭い心を「へへ」と笑って誤魔化すと、上鳴はつられたように笑った後、徐に腕を組んで深く頷く。

「いやぁーそっかァ……おまえらもついに和解かあ」
「いや、和解したかどうかはわたしも知らないけど……」
「実質和解だって!!もういいんだよこの際そんな細けえことは!何にせよ、これでようやく次の段階・・・・に進めんじゃん!」
「次?」

 言われた意味がわからなくて首を傾げると、上鳴は不意に人気のなくなった教室や廊下の向こうに視線を巡らせて、人目を気にするような素振りを見せた。そしてどうやら周囲に誰もいないらしいことを確かめると、愛嬌のある吊り目をにんまりと笑ませてわたしを見下ろす。
 何だろう、なんかちょっと――嫌な予感がする。クッキーの袋を懐に抱えて身構えたわたしを意にも介さず、上鳴は悪戯を企む子供のようにわたしの耳元に顔を寄せる。控えめに抑えられた、けれど至極楽しそうな囁きが、わたしの耳元をくすぐった。

「――で、おまえさ。爆豪と緑谷と轟、結局どいつが好きなん?」

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