――きっかけは、小学二年生の冬だった。

 その日は珍しく雪が積もって、近所の子供は皆大はしゃぎだった。爆豪少年も例外ではない。いつもの友達こぶん三人と、性懲りも無く付き纏ってくる幼馴染デク、そして当然のようにくっついてくる隣の家の少女も不本意ながら引き連れて、近所の公園で雪遊びに興じたりしていた。

 何のことはない、普通の一日になるはずだった。適当に遊んで、不器用な少女が作った不細工な雪だるまを鼻で笑ったりして。雪合戦がいつの間にか“出久デクに雪玉を当てる遊び”にすり替わっていったのも彼らにとってはごく自然なことだったし、標的にされた彼を庇うように、怒り顔の少女が割って入ってくるのもよくある流れだった。
 ただ、一つだけ違ったのは――。

「ほたるちゃん、どうしたの?だ、大丈夫……!?」
「――……っ、」

 爆豪少年が思い切り投げた雪玉を胸の辺りに受けた少女が、途端に顔色を変えてその場に崩れ落ちたことだけ。
 膝をついて蹲った彼女は、痛みに耐えるように胸元を押さえつけながら、少しの間息を詰めていた。鈍い取り巻きの三人はその様子を見て「え?」「今の雪玉でそんな痛がる?」「だっせー!女子って弱えー!」とげらげら笑っている。ただならぬその様子に気付いたのは、血相を変えて駆け寄った心配性の緑谷デクと、雪玉を投げた格好のまま固まっていた彼だけ。
 確かに重く湿った雪ではあったが、それほど硬く固めた訳ではない。投げる勢いだって、まあ当たればそれなりには痛いだろうけれど、こんな風に悶絶する程のものではないはず。何より、今までだって何度も爆豪少年の拳や爆破を体を張って邪魔してきたこの少女が、痛みに対してここまで深刻な反応を示したこと自体が初めてのことだった。

 正直に言えば、少し動揺していたのだと思う。
 何を言っていいのか即座に思い浮かばず、少年はそのまま少しの間固まり続けた。もしかするとふざけて、あるいは日頃の意趣返しにこちらを揶揄うつもりで、わざと大袈裟に痛いフリをしてみせているのかもしれない……とも一瞬考えたが、それならそろそろケロリとした顔で舌を出してきてもいい頃合いだ。目の前の彼女は、ただ心を落ち着けるように深呼吸を繰り返すだけ。どうやら痛むのは本当らしい。
 となると、察しのいい少年の頭脳は早々に一つの答えに辿り着いた。

 ――元々あった・・・・・傷の上に、今の雪玉が直撃したのではないか?

「ほたるちゃん……!」
「……大丈夫、ちょっと――服の中に雪入ってびっくりしちゃった!えへへ」

 が、半べその緑谷を安心させるように笑った彼女は、痛みから立ち直るなり平気な顔でそんなことを宣う。あまりにも粗末な言い訳だと爆豪少年は思った。
 しかし、緑谷は二、三度「ほんと?」「大丈夫?」と確認を取ると、最後には「よかったあ」と腑抜けた笑みを返す。別に“無個性”で性格もどんくさい木偶の坊に何かを期待していた訳ではないけれど、あっさり信じ込んだ彼の様子に爆豪少年は人知れず苛立った。生来人の善さを持ち合わせている――爆豪少年に言わせれば“間抜け”な性格の彼は、きっと一番の仲良しである彼女が平気な顔で自分に嘘を吐くという可能性自体があまり思い浮かばないのだろう。
 けれど、爆豪少年にはわかった。

「……大丈夫・・・、なんともないよ」

 険しい視線に気付いてこちらを見た彼女は、そう言ってへらりと笑う。
 ――嘘だ。
 付き合いの長さに加えて、少年の勘は大層鋭い。見れば分かる。貼り付けたような誤魔化し笑いが、失敗をしてしまった幼い子供を宥めるようないやに優しいその声色が、今まさに嘘を吐かれているという事実そのものが、とにかく気に障って仕方がない。

「ていうかあんたらねえ、よってたかってイズに雪玉投げつけるってなんなのさ!ヒキョーモノ!先生に言ってやろー!」
「うわっ」
「へぶっ」
「ツバサくん!くっそ、やったなおめー!?」

 仕返しと言わんばかりに彼女が雪玉を子分たちに投げつけると、公園はあっという間に合戦場に変貌する。飛び交う雪玉の中、さっさと話を変えるようにはしゃぎ始めた彼女のその白々しさにまた神経を逆撫でされて――少年は手にした雪玉を、もう一度彼女に向かって力一杯投げつけた。


 それからしばらくの間、機会が巡ってくる度に彼は試した・・・
 喧嘩のとき、わざと彼女が痛がった場所を狙ってぶったのだ。緑谷が聞けば「何てことするんだよ!」と怒り出しそうな話だが、それが彼のやり方・・・だった。
 不本意の不可抗力とはいえ、生まれた時から“お隣さん”として半ば家族同然に育ってきた間柄だ。あんな風に嘘を吐かれたのは生まれて初めてのことだったし、恵まれた能力や周囲の賞賛がもたらす全能感を享受してきた彼にとって、こそこそと隠し事をされるのはとにかく気に食わない。
 問い詰めてやってもいいが、何となく彼女はそう簡単に口を割らないような予感もするし――何より、詮索を拒むような少女の態度は彼にとって“宣戦布告”に他ならなかった。そっちがそのつもりなら、こっちだって容赦なしにやってやる。対話ではなく行動を選んだのは、複雑に混じり合った意地と自尊心と怒りがそうさせたからだった。
 第一、怪我の具合や理由なんてものはそもそもどうでも良かったのだ。こそこそされたのが気に食わなかっただけ。ただ隠しているその本音・・を引きずり出せればそれでいい。
 絶対ぜってー“痛い”って言わせてやる――少年の理由はそれだった。

 しかし、少女の意地は彼のそれを上回った。
 雪玉が当たっただけであんな風に蹲っていたのだから、肘で打ったり拳で殴ったりすればもっと酷く痛むはずなのに、少女はなかなか音を上げず、あくまで平気な体を貫こうとする。お陰で苛立ちは募るばかりだった。
 それでも、負けず嫌いの少年はなかなか諦めずに少女の様子を探り続けたのだが――ある日ふと、“もう怪我治ってんじゃねーの?”という仮説が脳裏を過ると、急に何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。誤魔化されっぱなしなのは至極腹立たしいけれど、“理由なんてどうでもいい”はずの自分が――別に心配なんかしていないはずの自分がこんなに一生懸命になって彼女の秘密を暴こうとしているのも、何だか……矛盾しているというか、変な話だ。
 必死こいてバカみてえ。だいたいあいつが隠し事してたら何か困ることあんのかよ。何もねえだろ。怪我してようがなんだろうがどーでもいいし。そんなに秘密にしてーなら勝手にやらせとけ。
 そんな半ば負け惜しみのような独白を最後に、彼は考えるのをやめた。思考と記憶を遠くに投げ捨てて、積もった苛立ちも日が経つごとに少しずつ薄れていく――、

 ――はずだった。










 人々が寝静まった深夜。
 うっかり目が覚めてしまったその日、トイレから自分の部屋に戻ってきた爆豪少年は、カーテン越しにぼんやりと光るものがあることに気がついた。隣にあるものといえば件の少女一家が住む一軒家だが、蛍光灯の明かりとも少し違う、もっとぼんやりした温かみのある色の光だ。
 少し霞む目を擦りながら何の気なしにカーテンの隙間を覗くと、暗がりの中で淡い光を放つ隣家の窓が見える。向こうもカーテンを閉め切っているので室内の様子はわからないが、やはり電灯とは少し違う、赤みがかった色の乗った明かりだった。時折その窓からひょっこりと顔を出して笑う少女の姿が不意に脳裏を過って、少年の胸に半ば忘れかけていた苛立ちが再び燻る。本格的にむかっ腹が立ってくる前に早く寝てしまおうと踵を返しかけた、その時だった。

「――……?」

 ドン、と何かがぶつかるような音が聞こえて、少年はふともう一度布地の隙間から隣家へ視線を落とした。あの明かりが漏れている窓から聞こえたような気がする。じっと暗がりに目を凝らしてみると、カーテンがもぞもぞと動いているのが見えて――不意に、その片側が何かに引っ張られて勢いよく開いた。開けたというよりは、よろめいた拍子にうっかり開いてしまったような、そんな動きだった。
 向こう側から姿を現したのは、子供の人影。隣に住んでいる子供は一人しか居ないので、火照あいつだ、とすぐにわかった。その後ろから真っ赤に光る腕・・・・・・・が伸びてきて、体勢を崩してカーテンに縋るような格好でいた少女のパジャマを引っ掴み、部屋の奥へ引きずり戻していく。程なくしてカーテンは閉まり、また薄ぼんやりとした赤い光だけが、その向こうから窓辺を仄かに照らし出していた。

 ――は?

 一瞬自分が何を目撃したのか飲み込めずに、少年は少しの間固まって――そして、徐に窓を開いて身を乗り出した。今起こったことは現実なのか、それとも自分の見間違いなのか、確かめようとせずにはいられなかった。
 深夜の住宅街は痛いほどの静けさに包まれていて、車の音一つ聞こえてこない。そんな中、よく耳を澄ませなければ聞き逃してしまいそうなほどの大きさで、隣家の窓の中から小さな物音が聞こえる。人の歩く音と、大人の話し声――。

「――ねえやめ……お願い……あな……の子供……のよ!?」
「うるせえ――おまえはもう……いんだよ、引っ込ん……ろ」

 決して大きな声ではない。風が吹けば掻き消されてしまいそうな、意図的に抑えられたような声量の会話。爆豪家の両親の寝室は、ちょうど家の反対側にある。時間帯、距離、窓の位置や諸々を考えるに、恐らく今開け放った窓から顔を出している少年以外にこの音を感知している者はいない。
 続いて何かを叩くような乾いた音と、大きなものが床に落ちたような重い音が聞こえた。それきり会話らしい音はなく、ただ誰かがすすり泣いているような弱々しい嗚咽と、何かを噛み殺したような声にならない声がほんの僅かに届くだけ。
 少年はようやく、あの仄かな赤い明かりの正体を察した。この近所では知らぬ者のいないプチ有名人、片足を失った悲劇の元ヒーロー――赤く熱した鉄の“個性”の持ち主。真っ赤に光る腕が何を引きずり戻していったのかを思い出しては、理解できずに愕然としてしまう。“温かみのある光”だなどと思ってしまったが、赤く照らされた少女の顔は苦痛に歪んでいて――どう見ても一家団欒とは程遠い光景だった。
 平和――とは言えないかもしれないが、幸いにもそれなりに愛のある家庭に育った少年にとって、それは思いもよらぬ“真実”だった。同時に、なぜ彼女が胸の傷を隠そうとしたのか――わかるような、わからないような、わかりたくないような、形容しがたい思いが胸を占める。




 火照あいつに、傷をつけたのは――。




 それは少年にとって青天の霹靂――酷く受け入れがたい事実だったというのに、翌朝家の前でばったり鉢合わせた彼女は、昨日までと全く同じ・・・・顔で笑っていた。

「あっ、かっちゃんだ。おはよー」
「……」
「どしたの、機嫌悪い?眠いの?」
「……」

 険しい面持ちでその顔を凝視する少年を見て、少女は何食わぬ顔で首を傾げる。あまりにもけろりとしていたものだから、もしかして昨夜のあれ・・は寝惚けて見た夢だったのではないかと一瞬思ったほどだ。けれど、今朝の彼女は少しだけ普段と様子が違っていた。いつもの赤いランドセルの代わりに、見慣れない水色のショルダーバッグをたすき掛けにぶら下げている。

「……ランドセルどこやった」
「どこもやってないよ?えっと……、ふたの金具が壊れちゃったんだ。お母さんが直してくれるまではこのカバン」
「……」

 ――嘘つけ。
 ランドセルは背負えないだけだ。昨日の夜中、あの腕に引っ張られた時に負った背中の火傷に擦れるから。やはり夢などではなかった。確信すると同時に、目の前にいる少女が、昨日までの彼女とはまるで別人のように見えてくる。
 昨日も彼女は笑っていた。爆豪家で楽しそうに夕飯を平らげた後、「また明日ね」なんて言って、何でもない顔であの家に帰って行ったのだ。夜中に見たあれが本当のことなら、今だって傷が痛まない筈がない。普通の神経をした人間なら、平常心で居られる訳がない。なのにどうしてこいつはこんな、こんな何でもないような顔でここに立っている?
 違う。ああ、そうか――、

「ずっとかよ」
「……へ?」
「おまえ、今までずっと、そうやって……」
「……ねえ、どしたの?何か今日変だよ?」

 本気で困惑したような顔つきでそんなことを聞き返してくるものだから、もう我慢ならない。わかってしまった。そもそも昨日今日始まった嘘ではなかったのだ。自分がまんまと騙されて何一つ気付いていなかっただけで、彼女にとってはこうして取り繕うこと自体、とっくの昔に当たり前のことになっていて。

 ――“こいつには明かさない・・・・・・・・・・”という決定は、もう随分前に為されていたらしい。

 そんなようなことを幼心に理解するなり、胸がむかついて仕方がなくて、少年は衝動のままに彼女の体を思い切り突き飛ばした。よろめいた少女は相変わらず戸惑うような眼差しをこちらに向けてくる。嘘を吐かれていたことに対する苛立ちも依然消えないけれど、それ以上に腹立たしくてたまらないのは、これほどまでに重大な出来事を打ち明けなかった彼女の選択だ。
 他人の家の事情なんて知ったことではない。彼女がどんな目に遭っていようと、結局自分には関係ないことだ――とは、思う。けれど、機会は無数にあったはずなのに何も知らされなかった、頑なに隠し通され続けてきた、その事実だけはどうしても看過できない。
 だって、それは――。

「ふざけんな……!!」

 頼る価値が無かった・・・・・・・・・
 縋るのに不十分だった。
 そういうことだとしか、思えない。










 あの女がどうなろうがどうでも良かった。
 親が“個性”を使って子供を傷付ける。確かに胸糞悪い話だとは思うが、何度探りを入れても、無理やり吐かせようとしても、頑なに隠す方を選んでいるのは彼女自身だ。勝手に隠して、勝手にやられて、勝手に自滅するなら、それはもうあいつの自己責任だ。知ったことじゃない。

 だから――“救けたい”だなどと、ふざけた事を考えたことは一度だってなかった。
 ただ、胸に刻み込まれた屈辱を何とかして晴らしたかっただけ。たった一言、“痛い”とか、“苦しい”とか、“救けて”とか、そういう言葉を無理やりにでも、この手で吐かせたかっただけ。
 なのに、どうしたって思い通りにならない。痺れを切らして気紛れに手を差し出してみても、彼女は絶対に受け入れようとしない。あまつさえ元凶である父親から、少年のことを庇うような仕草まで見せた。
 ただただ腹が立った。酷い目に遭っている癖に、救けを求めようとさえせずにへらへら笑っている少女に。あろうことか、そんな彼女に自分が庇い立てされているという事実に。子供をあやすように誤魔化されたまま、ましてその背に庇われるなんて――それでは“無個性”で役立たずのお人形デクと同じだ。
 違う。自分は絶対にそんな存在なんかじゃない。俺は強い・・・・。何としてもその事実を、あの女に認めさせなければ気が済まない。

 その結果があれ・・だ。
 夏の公園。蝉の声が耳障りな夕暮れ。何のことはない、他愛ないことから始まったいつも通りの喧嘩だった。ただ、それまで募りに募った苛立ちがどうにも抑え込めなくて、振りかぶった掌がつい熱を持ってしまった。馬鹿な彼女は、咄嗟に身を庇うことさえしないまま真っ直ぐにこちらを見据えていて――その視線に薄ら寒いものを覚えたことを今でも覚えている。
 服が焦げた時の苦い匂いが鼻をついた。
 直撃だった。さして強い威力ではなかったが、爆ぜた炎はシャツの襟ぐりを焼き、その下に隠れていたガーゼを燃やす。暴こうと躍起になっていた秘密は、存外簡単にその姿を現した。真っ赤に爛れた皮膚。筋状の――人間の指の形・・・・・・の火傷。その上にできた別の赤みは、たった今自分の“個性”がもたらした真新しい傷だ。

 ――こんなことがしたかった訳じゃない。

 痛みに顔を歪めながら呆然と傷を見下ろす彼女を見て、一瞬そんな思いが過ぎり――けれど今更引っ込みがつく筈もなく。言いようのない後悔と恐怖にも似た感情を胸の奥に押し込んで、微かに震え始めた右手を無理やり押さえつけながら、少年は必死に念じた。

 泣け。怒れ。痛いって言え。
 ――笑うな。

 だというのに、彼女は。

「……だい、じょうぶ」

 痛くないよ。
 そう言って優しく手を取って、引き攣った顔で笑うのだ。
















 “――ありがとね。”

 そんな言葉が聞こえたような気がして、思わず鼻で笑ってしまう。

 ――バカだろ。
 あん時――気付いた瞬間俺が通報してりゃ、半年は早くケリが着いてた。黙ってたのに何で感謝されなきゃなんねえんだ、クソ気持ちわりィ。

 悪態を吐いてみたが、脳裏に浮かんだ少女の顔はそれきり何も言わず、へらへらと締まりのない笑みを浮かべるだけ。その態度がまた少年の胸をざわつかせた。
 憎まれこそすれ、感謝される謂れなどひとつもない。雄英に入学して、不本意ながら壁にぶつかり、物事を少し捉え直した今だからこそ余計にわかる。ああだこうだと理由を並べてみても、結局のところ悔しかった・・・・・だけなのだ。
 彼女が自分を下に見てなどいないだろうことにも、本当は気付いていた。喧嘩の絶えない間柄だったが、だからこそ信頼を寄せられている自負があった。困ったことがあった時、当然彼女が頼ろうとするのは自分だと確信していた。
 それだけに、彼女の中に自分の力の及ばない領域があることが許せなくて、むきになった。裏切られたような、侮られたような思いがした。ぶつかって勝つ・・以外に雪辱の手段がわからなくて――傷つけた。
 “見たぞ”と言ってしまえば、“父親に何をされているんだ”と訊いてしまえば済んだかもしれない話だったのに、肥大し続ける自尊心が目を曇らせた。本当に悪いのがどちらの方か、いまだにわからないほど愚かではない。試験前に彼女を責め立てたのだって――言ってしまえば、己の無力を認めたくない少年の、ただの八つ当たりだった。
 なのに、彼女は笑った。突然浴びせられた言葉に目を白黒させながら、視線の端々に驚愕と自責を滲ませて、それを取り繕うように口の端を無理やり持ち上げて。

 ――クソが、笑うな。

 どうして笑っていられるのか理解できない。窓の向こうの光景を見てしまったあの日から、今までこの目で見ていた笑みが本物・・だったのかどうかもわからなくなってしまった。笑った顔を見るたびに腹が立って、苛ついて、体の奥のどこかが締め付けられるような苦しさがあって――不快で仕方ない。
 なのに、ふとしたとき目に浮かぶ彼女の顔はいつも笑っていた。今だってそうだ。悪態を聞いているんだかいないんだか、ただ困ったように苦笑いを浮かべるばかりで。

 ああ、そのツラ――それが二番目に嫌いだ。一番苛つくのは、痛みを堪えて誤魔化す時に浮かべる引き攣った笑み。無性にブン殴ってやりたくなる。
 嫌いだ。笑った顔が気に食わない。こんなに強く念じているのに、ムカつく笑顔が脳裏にこびりついてなかなか消えない。大体何へらへら笑ってんだ。俺はてめェに――怪我させてんだろが。何なんだよ。クソ、クソが。

 ああクソ、いい加減にしろカス。笑うなっつってんだろブッ殺すぞ――、








「……なんて寝言だい。物騒だねえまったく」

 呆れたような声が聞こえて、そこでようやく意識が浮上する。霞んだ視界に見えたのは白い天井と、眉を潜めてこちらを見下ろす皺だらけの顔。呆然と瞬きを繰り返す爆豪に、リカバリーガールは目元の皺を深めて微笑みかけた。

「目が覚めたね、爆豪勝己。体の調子はどうだい?」
「……」
「黙ってちゃわからないよ、ホレ」
「いっっってえなクソ!何すんだババア!!」
「それだけ元気が余ってるなら大丈夫だね」

 正直に言うとすれば“全身クソいてえ”辺りが妥当な表現だったのだが、弱音を吐くのも癪に思えてむっすり口を閉ざしていると、老人の持つ杖の先が容赦なく身体中を突き回す。飛び起きて怒鳴り散らした爆豪に肩を竦めつつ、リカバリーガールは「お食べ」とペッツを彼の掌に二粒落とした。

「眠っている間に治癒はかけておいたよ。しばらく怠いだろうけど我慢しな」
「……試験は」
「合格さね。加減知らずの新米教師相手に、三人ともよく頑張ったよ」

 労わり代わりとでも言わんばかりに三粒目のペッツが掌に転がされる。このまま持っていても仕方ないので、爆豪は渋々それをカラカラに乾いた口の中に放り込みながら周囲の様子を伺った。
 どれくらい眠っていたのかはわからないが、壁掛け時計の針は既に夕方の終わり近くを指している。日差しから患者を守るようにベッドの窓側だけを覆っている白いカーテンの向こう側から、紫混じりの赤い光が淡く滲んでいた。室内にはベッドがいくつか並んでいたが、目の前の老女以外に話し声は聞こえてこない。

「もう少ししたら緑谷出久が戻ってくる筈だよ。それまでここで休んでな」

 何で俺がデクなんぞを待たなきゃなんねえんだ――という言葉が喉まで出かかったものの、感想戦の存在を思い出して踏み留まり、代わりに苛立ちを小さな舌打ちに乗せて漏らす。試験の途中で気を失ってしまった悔しさもさる事ながら、ついさっきまで見ていた昔の夢にも酷く神経を逆撫でされて、爆豪の機嫌は傾くばかりだった。
 がりがりと奥歯でペッツを噛み砕く彼の険しい顔つきに幾度目かの苦笑を浮かべながら、リカバリーガールはひょいと回転椅子から飛び降りて、爆豪が座っているベッドの外側をぐるりと回り、カーテンに遮られた向こう側へ消えていく。

「――ホレ、起きたよ。話があるんだろ」

 白い布の向こう側に、赤い夕日の色を遮ってむくりと人影が起き上がってきたかと思うと、リカバリーガールの手でサッとカーテンが開かれ、隣のベッドが露わになった。寝起き特有の気怠そうな目がリカバリーガールの顔を見遣り、そのままのろのろと爆豪の方を向いて――視線が合うなり驚いたように固まる。
 南北だった。気配がしないので他にベッドの利用者は居ないものと思っていたが、彼女がすぐ隣で熟睡していたらしい。少しの間固まっていた彼女は、やや気まずそうに視線を彷徨わせながら物言いたげに唇をはくはくと動かしている。その仕草が何となく気に障って、爆豪は思わず舌打ちを漏らした。何やら生暖かい目で両者を見守っていたリカバリーガールは、南北に「頑張りな」とだけ声を掛けて、そのまま一人で部屋を出て行った。

「……」
「……」

 静寂が二人の間に降りた。
 爆豪は黙って南北の顔を睨みつけたが、彼女の方は強張った顔で視線を斜め下に落とし、緊張を解すような深呼吸を頻りに繰り返している。そういえば試験中にも「言いたいことがたくさんある」とか何とか偉そうに啖呵を切っていたくせに、どうにもまどろっこしい。
 嫌な夢を見たせいもあって、その一挙一動が無駄に苛立ちを呼び起こす。再度舌打ちを漏らし、さっさと彼女から視線を外してベッドの上に転がり直すと、身動ぐような衣擦れの音が微かに聞こえた。

「……」
「……」
「……あのさ」
「……」
「……聞いて欲しいことがあるんだけど、喋っていいかな」

 いつになく控えめな言い回しが静かな室内に溶けるように響く。両手を枕にして仰向けに寝転がった爆豪は、白い天井を睨め付けながら口元をへの字に歪めて――ぼそりと、静かに吐き捨てた。

「……おっせえんだよ、アホ」

 何年待たせてんだクソ――とは声にしないまま唇を引き結ぶと、少しの沈黙を挟んで「ごめん」という言葉が返ってきた。苦笑混じりのその声を聞くと、眉を下げて困ったように笑う顔が目に浮かぶようで、また言いようのないざわつきが胸を襲う。けれど、試験中に掛けられた言葉やら、オールマイトに追い詰められた彼女が口走っていた台詞を思い出すと、どうにも肩透かしを食らったような気分になって、怒る気力も湧いてこない。
 ――なにせ、六年経ってしまった。
 “どうでもいい”だの、“負けを認めさせたいだけ”だの、そんなことを理由にまともな対話を拒み続けて、六年。今この時、靄のように胸を占め続けているこの苛立ちが一体何に起因するものなのかさえ、混ざって、掻き乱されて、もう判然としない。どうしてこんな叫び出したいような気持ちにさせられるのか、分からない。分かりたくもない。
 それとも、これから紡がれる言葉を聞けば――六年待った彼女の心の内を聞いたなら、この燻りも幾らかマシになるのだろうか。そんなことを考えながら少年は静かに目を閉じて、なかなか始まらない彼女の話を今しばし待った。

前へ 次へ
戻る
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -