「……、これは……」

 人気のない会議室。つい先程まで期末試験についての職員会議が行われていたその部屋に、今は二つの人影だけが残っている。手元の資料に目を落としながら苦々しげに呟くオールマイトと、彼が読み終わるのを黙って待つ相澤。
 少しすると、「ああ」と思い出したような相澤の声が、場を支配していた重苦しい沈黙を俄かに遮った。

「それ読んだこと、うっかり本人の前でバラしたりしないでくださいよ。母親には何も聞かないと言ってあるので」
「約束破ったのかい……!?」
「指導教員として、訓練に支障を来しかねないレベルの事情を把握しとかない訳にもいかないでしょう。合理的虚偽です」
「た、確かにそれもそうだけど」
「知ってるのは今のところ俺とリカバリーのばあさん、それとあなただけ。南北のプライバシーにも関わるんで、くれぐれも内密に頼みます」
「はい……」

 相変わらずの合理主義節に狼狽えつつ、全てに目を通し終えたオールマイトは小さく溜息を吐いた。先程までの会議に用いられた資料ではなく、相澤が別途用意し、わざわざ呼び止めたオールマイトにだけ手渡したA4用紙。そこにはかつての赤槌火照が――齢とおにも満たない少女が、本来なら子供が最も安らげる場所であるはずの“家庭”で経験した、薄暗く陰惨な出来事の数々が簡素に記されている。
 幼い頃から暴力を目の当たりにして育ち、やがて母親を守るために父親の“個性”による暴行に耐えるようになった少女の姿を思い描いただけで、正義感の強いNo. 1ヒーローの胸中にはただただ歯痒さが満ちた。しかもその父親が元はプロヒーローの端くれだったというのだから尚のこと遣る瀬ない。ただ、無事に救われた彼女が今も健やかであること――そして何より“ヒーロー”という存在に失望や嫌悪を抱かずにいてくれていることは、幸いというより他にないだろう。

「体育祭の試合を見たときから気にはなっていたんだが……こういう事情があったとは。歪まずに育ってくれたのは奇跡だな」
「……何言ってるんですか。十分歪んでますよ、あいつは」

 純粋な感想を述べたつもりが、渋い顔をした担任に一蹴されて、オールマイトは思わず口を噤む。そんな彼の痩せこけた顔をじとりと見遣った相澤は、「まあ、あなたも大概無茶するタイプなのでわからないかもしれませんが」と前置きして言った。

「ヒーローやってりゃ、身を呈して民間人を守らなきゃならないことも当然あります……が、それはあくまで最終手段。あいつはその最終手段を、“母親を庇う”という過程を経て最初に・・・身につけてしまった」

 オールマイトの脳裏に、かつてUSJで起こった出来事の数々が浮かび上がる。脳無の攻撃から爆豪を庇おうとし、その後ヴィランの前に飛び出した緑谷を抱きすくめて守ろうとした少女の姿――オールマイトも微かに危惧した、咄嗟の状況で出てしまう究極的な自己犠牲。あの時は漠然と危うさを感じるのみに留まってしまったが……なるほど、このような過去に起因していたとは。
 一人納得する彼の前で、相澤は静かに目を伏せた。

ヴィラン連合とやらの動きが活発になっている今、学校側も万全を期しているとはいえ、いつ何が起こってもおかしくない状況です。万一また会敵してしまえば、その悪癖が命取りになりかねない」
訓練で済む・・・・・うちに叩き直しておきたいって訳かい」
「そんな所です。あとは会議で言った通り、緑谷や爆豪との妙な関係性……まあ、緑谷の方とは最近上手くやってるみたいですが」

 もののついでのように相澤は言ったが、オールマイトにとってはそちらも十分寝耳に水の話題だった。喧嘩っ早い爆豪と彼女の不仲はまだ分かるけれど、緑谷の方とはごく普通に良好な関係に見えていたのに一体どこが……と、会議中にも拘らず一人大袈裟に驚いてしまったものだ。相澤曰く、不仲ではなく“悪い意味でべったり”なのが問題だった・・・らしいのだが――それも知らぬ間に解決しつつあるらしい。
 直属の弟子とも言える緑谷の交友関係にそんな落とし穴があったとは、まるで気が付かなかった。しょぼくれて肩を落とすオールマイトの様子を若干面倒臭げに流し見てから、相澤は机に並んだ三人分の資料に目を落とす。

「が、その分もともと緑谷に突っかかってた爆豪が余計に荒れてます。かなり面倒ですよこいつらは」
「面倒……?」
「三角関係……と言うと変に聞こえますが、どこか一辺に変化が起こるとその分他の辺にしわ寄せが来るというか……まあ主に重症なのは緑谷・爆豪間なんで、今回はそっちを優先してください。南北について俺からお願いしたいことはひとつです」

 充血しがちな気怠い目が、今度はしっかりとオールマイトの方を捉えた。一見怜悧にさえ見えるその視線の鋭さはやはり苦手だが、根底にはきちんと生徒への情があることを知っている。こうしてわざわざオールマイトを呼び止めてまで話をしたのも、彼女に“見込み”を感じていることの裏返しなのだろう。試験担当を任された以上自分もしっかり応えねばなるまい。
 しかし、心持ちを改めたオールマイトの目の前で――無精髭に覆われた口元は、意外にも微かに弧を描いた。

「オールマイトさんクラスの圧倒的に強大な敵を前にしても尚、南北あいつが後先考えず飛び出してくるようなら――自分の身ひとつ差し出した程度で何でもかんでも解決できると思ったら大間違いだってことを、思い切り体に叩き込んで・・・・・やってくださいよ」

 意地の悪ささえ伺える笑顔に思わず痩せた頬が引き攣る。相澤くんが笑うとこってあんまり見たことなかったけど、ちょっと怖いな――とは口にできないまま、オールマイトはこくこくと頭を上下に振った。最近は捕縛布の扱いについて個別で指導しているという話も風の噂で耳にしたし、このある意味楽しそうな笑顔も期待の表れなのだろう……きっと――。



















「(こりゃ言われた通り、叩き込んでやらないと駄目かな……!)」

 眼前に立ちはだかる少女の姿に目を細めながら、オールマイトは内心独り言ちた。
 案の定ガタガタのチームワークで始まった実技試験。いの一番に単身飛び出して吹っ飛ばされたにも拘らず、南北は再び彼の前にたった一人で立ち塞がっている。
 彼ら生徒が束になっても到底敵わないような実力を持つオールマイトからしてみれば、吹けば飛ぶような紙同然の薄っぺらい壁だ。そのことは彼女自身もよく分かっているだろうに――相澤が予見した通り、自分の身を犠牲にしてでも他の二人を救けるつもりで出てきたというのなら、やはり悪手と言わざるを得ない。それを置いていった緑谷も緑谷だと、妙にすっきりした声で「また後で!」などと言い残していった弟子に内心駄目出しを送る。“仲間チームを置いて逃げるのかい”と言ってやったばかりなのに、聞き入れないなんて……珍しいこともあったものだ。

「(しかし――地味にセンスがいい!良くも悪くも手段を選ばない・・・・・・・子だな、南北少女!)」

 つい先程受けた目眩しを思い出しながら、ずっしりと重みを増した両手を見遣る。爆豪一人に意識が集中していた一瞬の隙を突いて行われた奇襲。油断していたのに加え、緑谷が予想外の行動に出た影響もあったが、何にせよまんまと磁力の網に引っ掛けられてしまった。
 体重の半分の重さの圧縮重り付きリスト。シンプルなハンデだが、もともと体調が万全ではないオールマイトには思った以上に負荷が掛かっている。そこに彼女の磁力による引き寄せが加わると、動けないとまではいかないものの地味にきつい。試験冒頭で彼女を“厄介”と形容した所以だった。
 彼女の強みはそれだけではない。優れた動体視力、危機察知能力、身体能力、そして咄嗟の状況で冷静に奇襲の期を待てる戦闘の勘・・・・――話によれば、運動能力の素地形成において重要な幼少期にあの才能の塊のような少年を遊び相手にしていたのだというし、本人たちが自覚しているかどうかはさておき大半は爆豪譲りのものだろう。まだ半ば埋もれたままではあるが、磨けば光る才がある。

 まあ、それはそれとして――やはり悪手は悪手なのだが。

「言っただろう――どっちにしろ、一番厄介な“個性”の君から片付けるつもりだったってな……!」

 重たい右腕を持ち上げ、臍と尻の穴に力を込めながら振りかぶる。すると、不意に少女の口角がぐいと持ち上がるのが見えた。
 類は友を呼ぶとでも言うべきか、彼女もまた壁を前にして笑う・・人間らしい。こちらも知らず知らずのうちに幼馴染みどりやから影響を受けているのかもしれないが――何にせよその表情に、オールマイトは小さな引っ掛かりを覚えた。
 最初に突っ込んできたときの、怯えと強迫観念に彩られた瞳は見る影もない。強大な相手を前にした恐怖と緊張こそ滲んではいるものの、顔付きがまるで違う。腹に一物抱えていそうないい面構えになった。
 何か策があるなら上等なんじゃないかな――この場にはいない相澤に心の中で語りかけながら、オールマイトは右の拳を固く握り締めた。

「協力して勝ちに来いと言ったはずなんだがな。たった一人で私をどうするつもりだい?」
「どうにかできるわけ……ないじゃないですか」
「そうか――だったら君はここまでだ!」

 磁力による重みを押し切って、オールマイトは目の前の少女に向かって飛びかかった。今まさに振り抜かれようとする丸太のような太い腕を、彼女の瞳がじっと見つめている。ヒーロ基礎学の実技を受け持っているオールマイトは、“攻撃を避けられない”という彼女の致命的な癖もとうに把握していた。思えばそれも例の過去による刷り込みの一つなのだろう。
 彼女はどんな敵意もその身一つで受け止めようとしてしまう。実力的に敵うはずがないとわかっている相手を前にしても、避けてやり過ごしたり、背を向けて逃げるという選択肢をなかなか選ぶことができない。幼かった彼女にとって、暴力から逃げるという行為は、背に庇っていた母親に危害が及ぶことと同義だったからだ。それ故に、周囲にクラスメイトや友人のような守るべき対象・・・・・・がいると、彼女の悪癖はますます顕著になる。今回のケースにおける緑谷と爆豪の存在がまさにそれだろう。
 ――手加減は無しだ。相澤くんの言う通り、自分のちっぽけさって奴を教えてやらないとな!
 迫り来る拳を穴が開きそうなほど真っ直ぐな目で見据える彼女の胴体に向かって、オールマイトは容赦なく仕留める・・・・つもりの一撃を繰り出した。空を切った拳が風を生み、地響きにも似た衝撃波の音が一帯に響き渡る。
 もろに喰らえば立ってはいられないはず。もうもうと立ち込める土煙の中に少女の姿を探し始めたその時――ふと、脳裏に違和感が過った。
 拳が、空を切った・・・・・――?

「んん!?」

 瞬間、両足にぴりりとむず痒いような感覚が走った。反射的に脚を確認しようと腰を軽く折ると、手首のリストが足元に強く引きつけられる。ぐっと踏ん張って抗うオールマイトの目の端に、素早く引っ込んでいく捕縛布の端がちらりと映った。
 また足元に磁力を張られてしまったらしい――が、やはり手足を完全に封じられるほどの負荷ではない。気合いを入れて持ち上げた片足でむき出しの土を踏み鳴らすと、視界を阻んでいた砂粒たちが風圧でさっと吹き飛んで行く。晴れ渡った街中をぐるりと見回せば、向かって左手のビルの壁に張り付いている少女の姿。
 額には汗を滲ませ、強張った顔でこちらを見下ろしていた彼女は、目が合うと即座に反発で壁を蹴り、通りの反対側へ移った。ぱっと見何の苦もなく動き回っている様子を見るに――どうやら、ほぼ無傷・・らしい。

「(マジか――避けたか!!どうやって!?)」

 重りと磁力に阻まれていたとはいえ、彼女が躱せる速度でないことは自負していた。そもそも避けられないもあるはず。一体何が起こったのか、オールマイトには把握できなかった。容赦なしに割と強めのスマッシュを繰り出したのが災いして、彼女が攻撃をやり過ごした決定的瞬間を土煙が隠してしまったのだ。
 少女は彼の視線から逃れるように、習いたての捕縛布も使いながら絶えず建物の周りを跳び回って動く。攻撃が飛んでくる前の段階で撹乱し、被弾の可能性を少しでも下げようという魂胆だろうか。反発による瞬間的な機動の高さを活かした作戦、なかなかどうして悪くはない――が。
 素早く距離を詰め、ひしゃげた電柱に向かって伸ばされた捕縛布を鷲掴みにすると、再度跳ぼうとしていた少女の足がぴたりと止まった。

「狙いを付けられる前に動く、対応としてはまずまずだね!だがこんなもの・・・・・をぴらぴらさせてちゃあ、捕まえてくださいと言ってるようなも――あ゛っづ!?」
「っ……、ごめんなさい!」

 ここでひとつ先生らしい技術的指導もせねばと、捕まえた捕縛布を強引に手繰りながら語ったオールマイトだったが――言い切る前に、布を握る手のひらを凄まじい熱が襲った。
 そうだった、彼女は“個性”の磁力の影響下にある金属を熱することができる。イレイザーヘッドの捕縛武器は炭素繊維と合金の鋼線で編まれた特別製、この用途を見越しての武器アイテム採用か――脳裏では冷静に分析しつつも、火傷するほど熱いものに触れると離してしまうのが人間の反射である。太い悲鳴を上げながら怯んだオールマイトの目の前を、脂汗を滲ませた少女が謝罪を残してひゅんと通り過ぎていった。
 ――ん?
 違和感に顔を上げたオールマイトの目が、宙を舞う少女の姿を捉えた。不自然なのは彼女の姿勢・・だ。てっきりまた跳んで逃げたものと思っていたが、その割には足腰に力が入っておらず、まるで無理矢理引っぱられたように体全体が伸びている。というか、彼女の右手に握られた捕縛布、電柱に巻きつけられたままのそれが、先程目にした時より随分短くなっている……上に、白かったはずの布地が黒ずんでいるように見えるのだが――。
 すると、ピンと短く張り詰めていた捕縛布が不意にたわんだ。電柱を蹴って後ろに下がりながら、少女が緩んだそれを素早く手繰って回収する。手元へ引き戻す間にも布の量はどんどん増えて、最終的にオールマイトが捕まえた時と同等の長さに戻り、焦げたような黒に変じていた色味も元のくすんだ白を取り戻していった。
 ――もしかして。一つの仮説を胸に、オールマイトは再度少女に襲いかかる。瞬間的に距離を詰め、軽く焼けた掌をぐっと握り込むと、すかさず別の電柱に布を絡めていた少女がはっとしたように息を呑んだ。

 そして、振り上げた拳が少女の瞳に映り込んだ瞬間――ぴりりと磁力の閃光を纏った捕縛布が一瞬で黒く変色し、少女の体が引っ張られるようにして眼前から消えた。
 拳が空を切る感触を再び味わいながらその姿を目で追うと、電柱に引き寄せられるようにして着地した彼女が、今度は真横にある看板の柱を布で捉える様子が見える。

「なるほど……熱で縮む・・・・のか、それ!」
「ま……まるっきり先生のパクリじゃ、芸がないですから……!」

 しっかりと布を握り締めながら答えた彼女の声は微かに震えていた。どうやら作戦が上手くいったことに彼女自身も驚いているらしい。いやいや、よく考えたよ――オールマイトは密かに感心した。
 てっきりイレイザーヘッドのものと全く同じだと思っていた捕縛武器だったが、どうやら一定の熱を与えることで変色、収縮するように作られた、彼女仕様の特別製らしい。常にオールマイトと自分の間の動線、即ち彼の攻撃の軌道と垂直になるようにその縮む布を張っておけば、攻撃の予兆を見た瞬間、握りっぱなしの布に熱を送り込むだけで引っ張られた体が勝手に動く。
 咄嗟に跳んで躱せない速さだろうが、避けられない癖があろうが関係ない――たったひとつ、“熱を込める”というアクションを起こすだけで攻撃から逃れることができるのだ。彼女の優れた動体視力と反応速度に加え、必要最低限の動作のみに意識を集中させればいいという単純なプランだからこそ、ハンデ有りとはいえ速さで遥かに上をいくオールマイト相手に通用した。
 立派な作戦勝ちだ。生徒の成長を目の当たりにして、オールマイトの胸が微かに踊る。

「いやぁ驚いた、やるじゃないか南北少女!だが……逃げ回るだけじゃヴィランは倒せないぞ」
「……!!」

 言いながら先程までより固めに拳を握り直すと、只ならぬ気配を肌で察知したのか、微かに笑っていた少女の顔が露骨に強張った。それに構わず、オールマイトは力を込めた左腕をゆっくり振りかぶる。この構えを取るのは本日二度目――試験序盤、挨拶代わり・・・・・に放った一撃の再現だ。大通りを丸ごと破壊し尽くした、拳圧による圧倒的広範囲攻撃。いくら便利な布があろうとも、躱すのは決して易くない。

「さてどうする――少女よ!」

 彼の気迫から繰り出されようとしている攻撃スマッシュの規模を悟ったのか、動揺した少女の目がちらりと背後を気にするような素振りを見せ――次の瞬間、彼女は意外にも捕縛布を手放した。代わりに左手で地面を叩き、反発を使って素早く跳び上がる。向かう先は、無残にも舗装を剥がされ土が露出している道路の真ん中辺り。
 一先ず拳の先から逃れようという動きなのはわかるが、まだまだ甘い。そんな大味な跳躍だと着地狩り・・・・されてしまうぞ。踏み出した右足を軸にぐるりと上半身を捻り、オールマイトは彼女の着地先に向かって拳を突き出して――、

「――……!」

 ――そして、目を瞠った。
 振り抜かれた腕が生んだ暴風が、吹きっ晒しの道路の上を再び乱暴に撫でていく。少女の体が枯れ葉のように軽々と舞い、「う゛っ」という苦しげな悲鳴とともにどさりと地面に落ちた。すかさず距離を詰め、無防備な両手首を掴み上げる。磁力も熱も厄介な“個性”だが、発動元である掌を封じてしまえば何のことはない。
 背を打った衝撃で咳き込みながら呻く少女を見下ろして、オールマイトは何とも言えぬ心境で口を開いた。

「……君、今……庇った・・・ね?」
「……へへ」

 少女は問いに答えず、汚れと傷でぼろぼろの頬を困ったように綻ばせる。笑いごとじゃあないんだけどなあ、というオールマイトの心の声は当然届かない。
 そもそもあの拳圧から逃れるためならば、捕縛布にげみちを手放す必要はまるでなかったのだ。いずれにせよ避け切れる攻撃ではなかっただろうけれど、焦って跳躍するよりは、先程までのようにしっかり集中して拳を見切り、ぎりぎりのところで避ける方が絶対に確実。そうできる状況だったにも拘らず、彼女は敢えて跳ぶ方を選んだ。何故――と思ったが、振り抜く直前、着地した先にどっしりと構えながらオールマイトを見据えていたあの目を見れば嫌でもわかる。
 避けるための動きではなかったのだ。敢えて腕を振るう前、まだ軌道の修正が利く段階で、引きつけて・・・・・軸をずらすために跳んだ。思えば彼女の背後に広がる雑居ビルの向こう側は――うっかり目隠しを食らってしまっていたので確かではないが、緑谷たちが逃げ込んだ方角と大体一致している。結果的に攻撃は事前に刻まれた轍の上を通ったわけで、街への被害が大いに軽減されたという意味ではファインプレーと言えなくもないものの……相澤から託された指導方針に則るならば、オールマイトは彼女を叱らなくてはならない。

 両腕を地面に押さえつけられた彼女は、ダメージと疲労の蓄積ゆえか、あるいは“為す術なし”と踏んだのか、抵抗する素振りを見せなかった。が、色々な意味で手段を選ばないタイプの子だ。一応逃げられないようにと手首を握り直すと、その先に付いている掌が目に入る。
 オールマイトはうっかり顔を顰めてしまった。ずっと捕縛布を繰っていた右の掌が、火傷で赤く爛れている――途中から滲んでいた脂汗の原因はこれだ。平和の象徴オールマイトも思わず「あ゛っづ」と漏らすような熱だ、年端もいかぬ少女の掌など焼けて当然だろう。体育祭の時の緑谷同様、それが今の彼女にできる最大限ということだったのだろうが――教師としての彼にとって、件の緑谷の戦いぶりはちょっとしたトラウマだったものだから、思った以上に諭すような声が出た。

「“身を呈することを恐れない”ってのは、確かに君の美点でもある。しかしそういうやけっぱちなやり方は良くないな……緑谷少年や爆豪少年を守ろうという気概はいいが、こんな風に君自身が傷つき倒れてちゃ意味が――」
「……確かに今のは、もうちょっと上手くやれたかもって思いますけど……、でも違うんですよ、オールマイト」

 アドバイスを最後まで聞いてもらえないのは、爆豪も含めて既に本日三度目だった。そういうとこも類友なのかな、などと思いながらオールマイトが口を噤むと、少女の口角が再びゆっくりと上がっていく。
 完全に捕まえられてしまっている現状が決して良いものでないということは彼女もわかっているのだろう、その笑顔はやや歪に強張っていて――けれど、同時に何とも言えない清々しさがあった。オールマイトを見上げる双眸は依然きらきらと光を灯したまま、この状況においても死んでいない・・・・・・。楽しげですらある笑みを呆然と見下ろす彼に向かって、少女は言う。

「最近の――いや、爆豪あいつは昔からなんですけど……あの二人、もうわたしなんかが偉そうに“守る”とか言えるほど弱い奴じゃないし……だから、全然庇うつもりなんかじゃなくて」
「……、」
「あの二人が必要だから、わたしがあなたを引きつけなきゃって思ったんです。守りたいからじゃなくて、勝ちたい・・・・から、こうしました」

 ヒーロー志望としてどうなのよって、自分でも思いますけど……と小さく自嘲する少女を見て、オールマイトは人知れず納得した。ああ、先程相対した時に感じた引っ掛かりは――“顔付きが違う”と感じた原因は、これだったのだ。
 形としては、今までとさして変わらぬ自己犠牲。けれど動機が、目指す先が違う。ただ自分を捨てて終わるのではなく、後を仲間かれらに託そうとしている。依然未熟で困ったあり方には変わりないが、その変化には大きな意義があった。

「(相澤くん、やはりこの子は――)」
「……だから、気をつけてくださいね」

 それまでの情けないような笑みが引っ込んで、少女は少し勝気に笑った。どこか信頼に満ちた目がオールマイトを見据える。

「わたしはもう駄目かもですけど――あいつらは、勝ちますよ」

 その言葉を聞き終えるのとほぼ同時に、背後に気配を感じた。
 振り返るより早く、後頭部に容赦ない爆風が降り注ぐ。件の問題児がようやく戻ってきたらしい。「あいててて」と漏らしつつ、掴んでいた片手を離し顔を庇うようにして振り向くと、煙の隙間に覗いた爆豪の目尻から、塩辛そうな雫がぽろりと零れたのが見えた。
 ――えっ、泣いてる!?
 一瞬気を取られたオールマイトの顔面に、二度三度と続け様に爆破が浴びせかけられる。その間に無理矢理涙を引っ込めたらしい彼は、酷く忌々しげに、半ば自棄くそ気味にその名前を叫んだ。

「――デク!!」
「跳んでほたるちゃん!!」

 すぐ後ろ、腕を伸ばせば届きそうな距離から聞こえた声にはっとした瞬間、ばちりと強く弾かれるような感覚と共に、片手に掴んでいた少女の手首が消えた。振り向いた先には、腕に装着した爆豪の籠手を真っ直ぐこちらに向ける緑谷と、咄嗟に体を弾き飛ばして逃げたのだろうか、宙を舞いながら目を丸くしてその背を見ている少女の姿。
 身構えたオールマイトの眼前で、巨大な手榴弾のピンが静かに引き抜かれた。

「――ごめんなさい、オールマイト」

 視界が爆破の閃光で真っ白に塗り潰される。熱気、轟音、爆風――ビルをも粉々に砕くような凄まじい破壊力を身に受けながら、オールマイトは小さく微笑んだ。まだ蟠りが解けるとまではいかないだろうが、喧嘩ばかりの彼らもようやく一時休戦と相成ったらしい。
 熱風の向こうに、脱出ゲートの方へ駆けていく三人の背中がちらりと見える。まるで示し合わせたかの如く絶妙なタイミングの奇襲だったが、驚きも顕だった少女の様子を見るにそういう訳では無いようだ。威力に負けて体勢を崩しながら、オールマイトは彼女の瞳を思い出していた。きらきら煌めく勝気な目。友への信頼を湛え、何よりも未来を見据えた力強い双眸。
 ――相澤くん、やはり彼女は。

「(彼女はちゃんと――真っ直ぐに育とうと、もがいているよ)」

 だからこそ、たった一人でオールマイトの前に残り、挙句完全に捕まってしまっていたあの状況から、ついには逃れ遂せたのだ。
 なるほど、“見込み”は大いにある。これからもっともっと丁寧に磨いてやるのが私たちの仕事だね――この場に居ない担任に向けて心の中で語りかけながら、オールマイトはどしりと尻餅を搗いた。叩き込む・・・・ことはできなかったが、彼女個人の問題は思いのほかいい方に向かっているらしい。朗報だ。となると残る問題は、拗れに拗れた男子二人――。

「ってて……やられたな」

 火傷した皮膚の痛みに小さく声を漏らしながら、まだまだ駆け出しの教師オールマイトは、ようやく足並みが揃い始めたらしい二人について思いを馳せ始めたのだった。

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