――歩き去って行った方角からして、きっと一人で試験会場前に待機しているはず。
幸いにもその予想は当たっていた。演習場へ続く道の向こう側、歩み寄るにつれてはっきりと目視できるようになってきた背中をやや遠目に見ながら、無意識のうちに溜まっていた唾をごくりと飲み込む。ああ、何だってこんなに緊張してしまうんだろう。入学したばかりの頃は――昔のことを改めて思い出してしまう前は、どんなに素っ気なくされても構わず適当に言い返せていたはずなのに。
近づくほどに重くなっていく脚を一生懸命動かして、ようやく声が届きそうな距離まで近づいたその時、気配と足音に気付いたらしい
爆豪がちらりとこちらを振り返った。マスクに覆われた赤い目は明らかに苛立ちを孕んでいる――けれど、ここで挫けちゃ駄目だ。頑張れわたし。足早に距離を詰めたわたしは、真っ直ぐにその目を見据えて息を吸い込んだ。
「――探したよ。ね、作戦会議しよ」
「……」
「相手はオールマイトなんだからさ……逃げるにしろ戦うにしろ、やっぱ連携は話し合っとくべきじゃん」
「……連携だぁ?ンなもん必要ねェ」
ほぼ予想通りの第一声を発した
爆豪は、ふいと顔を逸らして閉ざされたままの入場ゲートに向き直ってしまう。案の定取りつく島もない。
思わず言葉を詰まらせたわたしの耳に、近くのスピーカーから鳴り響いたブザーの音が突き刺さった。続いて聞こえてきたのは『峰田・瀬呂チーム、演習試験、レディイイ……ゴォ!』――九組目の試験開始を告げる放送。
どんなに長引いたとしても、制限時間の三十分以内に瀬呂くんたちの試験は終わってしまう。わたしに残された時間は
それだけということだ。悠長に尻込みなんかしていられない。飯田くんも言ってたじゃんか、“聞く耳持つ気になるまで待つ”か、そうじゃないなら“向こうが折れるまで辛抱強く話しかけ続けるか”だって。背中を押してくれたお茶子ちゃんの手の感覚を思い出しながら、わたしはずんずんと足を動かし続けた。
「わたしには必要なの……!」
「知るか!何でてめェなんかに合わせなきゃなんねんだよ」
「チームだからでしょ!」
「そんなに
連みたきゃデクとやってろ!」
「そういう問題じゃなくて……!」
相手は人間離れした逸話を無数に轟かせる国内No. 1ヒーロー――存在そのものが
敵への抑止力になってしまうような、圧倒的実力を持つ平和の象徴なのだ。あくまで期末試験である以上、重りのハンデも含めて流石に多少の手心は加えてくれるだろうけれど、それでも
有精卵のわたしたちに勝ち目があるかどうかはわからない。
わたしとデクだけじゃ駄目。まして、いくら強くても
爆豪一人でなんて無謀だ。三人の力すべてを集結させなければならない。チームがバラバラの状態で勝たせてくれるほど易しい試験だとは、とても思えないから。そのこと自体は、賢い
爆豪ならきちんと理解しているはずなのだ。組まされた相手がわたしやデクだったから、こんなに意固地になってしまっているだけで。
だからこそ、わたしもここで引き下がることはできない。
「
あんたの力が必要だって言ってんの!変な意地張ってないで手貸してよ!」
強引に正面へ回り込んで叫ぶ。向こうがすぐ怒鳴りつけてくるものだから、対抗しようとすると自然と言葉が荒くなってしまっていけない。それでも何とか絞り出した言葉をぶつけると、
爆豪の眉間に深々と刻まれていた皺が、すっと消えていくのが見えた。
今度はどんな怒声が返ってくるだろう、なんて身構えていたのに、目の前の
爆豪はどこか呆然とした、気の抜けたような面持ちでこちらを見ている。予想外の反応にわたしの方まで呆けてしまって、「へ」と声を漏らしかけた――その瞬間。
「……ハッ」
聞こえてきたのは、人を小馬鹿にしたような短い
笑い声。罵声に始まり罵声に終わる喧嘩を覚悟してきたというのに、これまた想定外の反応だった。身を強張らせたわたしの目の前で、ぴくりと震えた
爆豪の口角が歪に吊り上がっていく。
一瞬揺れた赤い瞳に睨みつけられた瞬間、全身の肌がぞわりと粟立って――その時ようやく、先程の呆然とした沈黙は“嵐の前の静けさ”という奴で、どうやら自分が何かの
地雷を踏み抜いてしまったらしいということを、わたしは理解した。
烈火のような激情を双眸に滲ませた
爆豪は、本気で頭にきた時によく出す、低く這うような声音で言う。
「今更……寝惚けたこと抜かしてんじゃねェぞクソ女……」
「……な、なに……どしたの急に……」
「必要だぁ……?ふざけんな!
要らねえから何にも言わねェで……クソ親父にブン殴られてもへらへら笑ってやがったんだろが……!」
「へっ……、」
クソ親父――その一言で、全身を巡っていた血潮がさっと冷えたような錯覚に陥る。咄嗟に胸元の傷跡を押さえつけてしまったのは、あの最低最悪の男のことを思い出す時にうっかり出てしまう癖のひとつだった。
本来ならば驚くまでもない、少し考えればわかることだった。だってあのエンデヴァーが言ったのだ、“礼なら隣家の少年に言え”と。その言葉が本当なら、目の前の
爆豪はあの晩わたしやわたしのお母さんの為に何かしてくれていたということで――ならば尚更、あの忌々しい父親がわたし達に何をしていたのか知らないはずがない。
それでも、幼い頃から
爆豪だけには知られないように、悟られないように一生懸命頑張っていたつもりだったものだから、口を衝いて出たのは確認の言葉だった。
「……知っ、てたん……だ?」
「たりめーだ、てめェ自分がどこ住んでたと思っとんだ!嫌でもわかるわアホが!!」
「だ……だよね、そりゃそうか……はは、」
動揺していた。再会してからもずっと、
爆豪がわたしの家の話に触れることなんて一度もなかったから、知らないままでいてくれているんじゃないかと、淡い期待を持ってしまっていた。
テンパった頭で中身のない返事を絞り出し、つい乾いた誤魔化し笑いを浮かべて俯きかけたその時――大きな舌打ちが聞こえて、衝撃と共に体勢が崩れた。みっともなく尻餅を搗いて地面に倒れ込んだところで、肩の辺りを思い切り突き飛ばされたらしい、ということに気付く。咄嗟にアスファルトの上へ突いた掌が薄く擦り剥けて、じわじわと痺れるような痛みが皮膚を刺した。
「笑うな……!ムカつくんだよ、てめェが気色
悪ィ面で笑ってんの見ると……昔っから腹ァ立って仕方ねえんだ……クソ!!」
「……、」
こちらを見下ろしながら叫ぶ
爆豪の顔は、怒りらしきものでぐしゃぐしゃに歪んでいる。わたしは立ち上がることさえできないまま、引き攣った笑みの形に固まった顔で、その鬼のような形相を呆然と見上げることしかできない。それがまた気に障ったのか、
爆豪は赤く温まったグローブの掌から小さな火花を散らした。
「てめェが家でどんな目に遭ってようが、んなモン俺にゃ関係ねェしどうだってよかったんだ!けどなぁ、隠してやがったのだけはクソ我慢ならねェ……!嘘ばっかついてコケにしやがって!」
「ま――待ってよ!違う、そんな……」
「違わねェよクソ!今も昔も……てめェは俺を
下に見てんだろ!」
「……!?」
「
弱えと判断したから!デクの野郎庇うときみてえに、俺をてめェんとこのクソ親父から遠ざけやがったんだろが!余計なお世話だっつんだよ!!」
箍が外れたように次々と降り注ぐ怒声の雨。その内容に、叩き付けられる感情の情報量に、情けなく地面に転がったままのわたしは目を白黒させることしかできない。六年前から今までずっと溜め込まれてきた言い分が、まさに今この瞬間、全てまとめて吐き出されているようだった。次々と溢される本音の数々を何とか頭で理解しようと試みながら、こんなに思うところがあったなら、大喧嘩する前にちょっとでも言ってくれれば良かったのに……などと、今さら言っても詮無いことをぼんやり考えて――気付く。
違う。最初に隠しごとをしたのは、毎夜のように起こっていた家でのできごとを丸ごと無かったように振舞っていたのは、わたしの方だ。きっと
爆豪はそれにずっと気付いていて、腹が立って堪らなくて、それでわたしのことを“腹の内を見せない嘘吐き”だなどと罵ったのだ。
嘘吐きのわたしが――本音を見せようとしないわたしが、
気持ち悪かったんだ。
「そのうえ人が忘れかけてた頃ンなってノコノコ目の前に現れやがって――“轟には父親のことも全部話しました”だァ!?」
「え!?なんでそれ知っ……」
「うっせェ喋んな!ムカつくなぁクソ……!脳ミソ
敵相手に俺を庇っといて、あんだけイズイズ言って囲ってたクソナードのお守りは卒業したんかよ――なあ!!どういうことだクソ女!!」
轟くんの名前に驚いて上半身を起こしたわたしの目の前で、手榴弾型の厳つい籠手を纏った右手が勢いよく振り上げられる。火を噴きながらわたしの顔面へ迫り来る掌に、強烈な
既視感を感じた。
こんな抜けるような青空じゃなくて、焼けるように赤い夕暮れだったけれど――あの日の
爆豪も、こんな風に切羽詰まった顔で、何事かを叫びながらその手を思いっきり振り抜いていたんだっけ。呆然とそんなことを思い出していると、手指と籠手の向こう側に覗いた真紅の瞳が、一際大きく揺らいだのが見えたような気がした。
「――クソが!!」
苛立たしげな絶叫と同時に、真っ直ぐわたしの目の前に振り下ろされようとしていた掌がぐんと逸れる。硬直したまま
身動ぎもできずにいるわたしの顔のすぐ横で、閃光と共に耳を劈くような爆音が響き、煙たい風に煽られた横髪からほんのりと焦げたような不快な臭いがした。
冷たい汗の雫が一筋、こめかみの辺りから滑り落ちていくのがわかる。今まで何度か“殴られるかも”と思ったことはあったけれど――今度ばかりは本当に、あの日と同じように一片の容赦もなく振り抜かれてしまうかもしれないと、ほんの一瞬だけれど思ってしまった。が、どうやら間一髪、虚空を爆破するだけに思い止まってくれたらしい。無意識のうちに止めてしまっていた息を浅く吐いたわたしの耳元で、きつく握り込まれたグローブの生地がぎちりと音を立てた。
「訳わかんねェんだよ、てめェも……デクも」
苛立たしげに震えてはいたものの、それまでとは打って変わって静かな声が降ってくる。すぐ斜め前にある顔にそろりと目を向けてみたけれど、真っ赤な瞳はどうやら握った自分の拳を睨みつけているようで――呼吸の音が聞こえるほどの距離なのに、視線が交わる気配は少しもなかった。険しく吊り上がった両目に浮かんで見えるのは、激しい怒りとやり場のない焦燥、そしてほんの少しの怯えにも似た何か。
じわじわと、耳の中へ染み込んでくるような蝉の声がいやに煩くて、それがまたあの夕暮れの公園を想起させた。
爆豪はあの日とよく似た目をしている。どこか不安げに見えた彼に向かって、わたしは“大丈夫”なんて言って笑ってしまった。あの時の少年が、先程捲し立てられた通りのことを考えていたのだとしたら――どんなに的外れで無神経な態度に感じられたことだろう。
「――かっちゃん!?」
強張った顔のまま頭の中で一生懸命言葉を探していると、遠くからデクの声が聞こえた。ぎこちないながらも何とか動かせた首で背後を振り返れば、必死の形相でこちらに向かって走ってくる緑色のコスチューム姿が目に入る。
そういえば、あの日もこんな風に彼が――イズが揉みくちゃになっているわたし達をたまたま見つけて、無理矢理止めに入ろうとして敢えなく弾き出されてしまったんだっけ。今思えばあれも随分悪いことをした。
「さっきの爆発音なに!?試験前に何やってんのさ!!」
『――峰田・瀬呂チーム、条件達成』
青い顔で叫ぶ彼の声に被さるように、瀬呂くん達の試験終了を伝えるアナウンスがスピーカーから流れる。依然座り込んだままのわたしの上に半ば覆い被さる形で止まっていた
爆豪は、今日一番大きな舌打ちを漏らして駆け寄ってきたデクを睨め付けた。嫌悪に満ちた眼差しに一瞬怯む
素振りを見せたデクだったけれど、足を止めることはない。体を起こしゲートの前へ向き直った
爆豪の背を恐る恐る伺いながら、わたしの前へそっと手を差し伸べてくれる。
「大丈夫?怪我、ない?」
「……、」
「ほたる……ちゃん?も、もしかしてどこか痛めたり……」
「……違う、違うよ」
確かにほんの少しだけ擦り剥いたけれど、ほとんど血も出ないようなかすり傷だ。突き飛ばされて地面に激突した尻も大したことはない。爆発だって当たらなかったし、体は本当に何でもないのだ。
それでも――気遣わしげなデクが目の前にいるっていうのに、“大丈夫”の一言が出て来ない。いつかの更衣室で見た梅雨ちゃんの笑顔が一瞬脳裏に浮かんで、消えた。相手の気持ちを知ることが、こんな風に衝撃と痛みを伴うなんて、知らなかった。
『爆豪・緑谷・南北チーム――演習試験、レディイイ……ゴォ!』
時間は待ってくれない。ブザーと共に重々しい音を立てて演習場の門が開くと、
爆豪はこちらを振り返ろうともしないまま歩き出した。どこか気後れしたような、不安げな面持ちのデクが「……行こう」と呟いてそれに続く。強張りきってしまった顔を少しもほぐせないまま、仕方なしにわたしもその後を追った。
対オールマイトの戦略を話し合うという当初の目的は、これっぽっちも達成できなかった。
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