最後に心操くんは、少し申し訳なさそうな顔で消し跡だらけのわたしのノートを眺めていた。「結局俺が古文教えてもらっただけになっちまったな」なんて彼が言うものだから、わたしも慌てて首を振る。厚意をわけのわからないこだわりで無碍にしたのはわたしの方なのだから、謝って欲しくなんかなかった。

「いやいや、最後に答え合わせしてくれるだけでもめっちゃ救かるよ」
「……まあ、最終的にあんたが解けるようになったっていうなら、それでいいんだけど」

 彼が握っている赤ペンの先が紙面に降りて、確かめるように数式の上を何往復かした後、大きく滑らかな円を描いた。何度か“糖分摂取”の名目でパフェを貪りながら頭を捻った甲斐あって、最後の問題もきちんと正解できていたらしい。丸で埋め尽くされたノートをわたしの方へ返しながら、彼はもう何杯目かもわからないアイスティーをちびちびと口に含んだ。

「苦手って言ってた割に、時間かければちゃんと解けるんだな」
「数字が絡むとなんかこう、頭の回転が遅くなるんだよね。混乱しちゃって。一人でじっくり考えられれば、まあ……」
「それで授業についていけてないと」
「異国語で話しかけられた犬らしいから」
「今日もたくさん吠えられたしな」

 軽口に皮肉を返されて一瞬言葉に詰まったけれど、その分彼の目からは先程までの申し訳なさそうな色が幾分薄れていて、わたしもほっと息を吐きながら笑った。
 時刻は既に夕方を通り過ぎていて、店内は休日の夕食を摂りにきたらしい家族連れで賑わい始めていた。随分長いこと付き合わせてしまったようだ。お互い家でお母さんが美味しいお夕飯を作って待ってくれているらしかったので、ひょんなことから始まった期末テスト直前の追い込み勉強会もこの辺でお開きということになる。

「いやー、ほんとありがと!これで筆記は何とかなりそうだし、あとは実技だけだ」
「ヒーロー科の実技試験、大変そうだな」
「でもアレらしいんだよ、一般入試とか体育祭の時みたいな、対仮想ヴィランロボの演習。それならわたし相性良いし何とかなりそうかも」

 実技試験内容についての情報を仕入れてきたのは、先日わたしが相澤先生に昼休みの稽古をつけてもらっていた間、食堂までご飯を食べに行っていたみんなだった。何でもばったり出くわしたB組の拳藤さんという人が、上級生に知人がいるとかで去年の試験内容を知っていて、親切にもその場にいたA組のみんなに情報のおすそ分けをしてくれたらしい。
 みんなから話を聞いた上鳴とミナちゃんが「なんだー!」「ぶっぱで余裕だー!!」と大喜びしている横で、わたしもひっそりと拳を握ったものだった。対ロボなら磁力で簡単に動きを封じられるし、今のわたしなら熱を送り込んで壊すことだってできる。入試の時よりずっとスマートに立ち回れるはずだ。
 けれど、ほくほく顔でノートや筆記用具をしまうわたしの前で、心操くんは不思議そうに二、三瞬きをした。

「試験内容、変更になるって聞いたけど」
「――へ?」
「……いや、本当に小耳に挟んだ程度。少し前、相澤先生に呼ばれて職員室に行った時に、ヒーロー科の先生たちがちらっと話してた気がして……“実技試験の内容変更”がどうのって」
「……ええ!?」
「まあ詳しい内容は知らないし……聞き間違いかもしれない。信じるかどうかは任せる」

 頑張れよ。そう呟いて言葉を区切り、心操くんはテーブルの上に散らばった荷物たちを片付け始めた。わたしはペンケースを鞄に突っ込んだ格好のまま固まっている。
 ……ロボじゃないの?すっかり見通した気でいた実技試験当日のビジョンが一瞬で不透明に逆戻りだ。これ、ミナちゃんや上鳴に言ったらどんな顔されるだろう――いや、でも心操くんも聞き間違いかもって言ったわけだし、信憑性は……。ぐるぐる考えるわたしの前で、最後に古文の単語帳をしまい込んだ心操くんは、小さく息を吐いた。

「そうやって悩めるあんたは幸せ者なんだぜ」
「え」
「……今に追いついてみせるからな」

 きゅ、と引き結ばれた彼の薄い唇を見て、試験のことでいっぱいだったわたしの頭が少し冷えた。
 わたしも他のクラスのみんなも、厄介ごとのように頭を悩ませていたけれど――言い換えれば、雄英高校ヒーロー科の狭き門を潜った人間以外は受けることさえできない試練。
 目の前にいる彼は、一度ふるい落とされてしまった一人だ。静かな闘志と、ほんの少しの悔しさを滲ませたその目に見つめられると、自然と背筋が伸びる。

「……頑張るよ」

 真っ直ぐ見返しながら言うと、心操くんは少し笑った。

「イレイザーヘッド直々に稽古つけてもらっといて、赤点なんか取るなよ」
「と……、取れるわけないよ……」

 そうだった。短い期間とはいえあの相澤先生に直接稽古をつけてもらっているんだ。どんな試験内容だろうが、赤点なんて取ろうものなら補習でこってり絞られるに決まってる――急にそんな恐ろしいことを思い出させないで欲しい。青い顔で呟いたわたしを見て、すみれ色の目がまたほんの少し意地悪く細まった。



















「うおっ、南北なんだそれ!」
「相澤先生のパクリか!!」
「リスペクトです」

 ごほん。こっちを指差しながら言う切島くんと瀬呂くんを咳払いで制する。一応本人に了承を取ってから申請してるんだから誤解を招くような言い方はよして欲しい。お茶子ちゃんや梅雨ちゃん、それにデクまで興味津々な様子でわたしの首回りに巻いてある捕縛布を眺めているものだから、何だか少し居心地が悪くて肩を縮こめた。

 三日間に渡る筆記試験を終え、早いもので今日は実技試験当日。
 鬼気迫る顔でテストに臨んでいたミナちゃんと上鳴は「とりあえず全部埋めたー!」と喜びながら八百万やおちゃんに感謝していたし、わたしも勉強会の甲斐あって随分落ち着いて数式と向き合えたような気がする。ものすごくいい点という訳ではないかもしれないけれど、とりあえず赤点はなんとか回避できている……はずだ。
 あとは実技試験だけ、それも事前の情報では一度経験済みの“ロボ無双”ということになっていた訳だから、こうしてコスチューム姿で会場の広場に集合したみんなの空気はどこか緩やかだった。もちろん基本真面目で全力投球な飯田くんやデク、それに“今回こそは本物の一位を獲る”と尋常じゃなく意気込んでいる爆豪あいつなどなど油断しない人も大勢いるのだけれど、何となくでも試験内容がわかっていることがみんなの心に多少のゆとりを生んでいるようだ。

 ぐるりと見回して同級生たちの顔を確かめた限り、どうやら内容変更の噂を耳にしたのはわたしだけらしい。信憑性は定かでないとはいえ、本当に変更があるならみんなの耳にも入れておいた方がいいのかも……なんて考えて、筆記試験終わりに話題に出してみようと思ったのだけれど――最後のテストが終わった瞬間「花火ー!!」「肝試そー!!」と全力ではしゃぎ始めたお二人さんかミナりコンビを見ていると、どうにも水を差すのが申し訳なくなってしまって。もうわたしにできることといえば、“心操くんの聞き間違いでありますように”と心から天に祈ることだけ。
 第一“変更になるかも”という噂を聞いただけで、肝心の内容についてはさっぱりわからないのだ。だったらどんな試験が来たとしても全力で頑張るしかないわけだし、うん、言おうが言うまいが多分おんなじ。大丈夫。
 「これってイレイザーヘッドの捕縛武器と全く同じもの?確かにほたる……南北さんの“個性”はリーチの長い武器と相性が良いし、確かこの布には特殊合金が織り込まれてるんだっけ……!これなら近接戦闘の弱点をカバーしつつ、磁力も熱もぐんと使いやすく――」と興奮気味にブツブツ呟いているデクにうんうんと適当な相槌を打ちつつ自分に言い聞かせていると、正面に建っている施設の自動ドアが開いた。

「全員揃ってるな」

 最初に出てきてそう言ったのは、蝉がミンミン鳴き喚いているこの季節でも相変わらず全身長袖黒づくめで涼しい顔をしている相澤先生。その後ろからマイク先生、13号先生、ミッドナイト先生、エクトプラズム先生やパワーローダー先生などなど、合わせて八人のプロヒーローが続々と姿を現わす。反射的にスッと姿勢を正して口を噤んだわたし達の顔を見渡して、相澤先生はポケットに手を突っ込んだまま口を開いた。

「それじゃあ、演習試験を始めていく。この試験でももちろん赤点はある――林間合宿行きたけりゃ、みっともねえヘマはすんなよ」
「……?先生多いな」

 離れたところで首を傾げた耳郎じろちゃんの呟きが聞こえたような気がして首を動かすと、足元にいた峰田くんが、口を半開きにしたまますぐそこのお茶子ちゃんのパツパツスーツ姿をガン見しているのが偶然視界に入った。アイテム申請通りたてほやほやの捕縛布の初仕事が、“性欲の権化の首を九十度回転させる”なんてことになってしまうとは。「アッ……」と微かに悲鳴を上げながらぐきりと首を正面へ回された峰田くんと、彼を冷ややかに睨みつけるわたしの顔を見比べて、相澤先生が何とも複雑そうな表情を浮かべたのが見えたような気がしたが――話は淡々と進んでいく。

「諸君なら、事前に情報を仕入れて、何するか薄々わかってるとは思うが……」
「入試みてーなロボ無双だろー!!」
「花火!カレー!!肝試しー!!」
「――残念!諸事情があって今回から内容を変更しちゃうのさ!!」

 早くも合宿お祭りモードではしゃぐミナちゃんと上鳴をくぐもった声が遮る。驚き固まるわたし達の前で、相澤先生が巻いている捕縛布がもぞもぞ動き出し――不健康な頬を半ば押しのけるようにして、真っ白で毛艶のよい生き物がひょっこりと顔を出した。

「校長先生!?」
「変更って……?」
「これからは対人戦闘・活動を見据えた、より実戦に近い教えを重視するのさ!」

 どうしてそんな場所に収まっていたのかはわからないけれど、捕縛布を伝って地面にひょいと降り立った二足歩行のネズミ……のような生き物は、紛れもなくこの雄英高校の校長――根津先生その人だった。凄いところから出てきた校長先生と、凄いところに校長先生を平気な顔でしまっていた相澤先生と、さらりと告げられた試験内容の変更に各々が戸惑いを隠せない中、校長先生はそのつぶらな瞳にほんのりと凄みを滲ませながら両腕を大きく広げ、高らかに宣言する。

「というわけで――諸君らにはこれから、二人一組でここにいる教師一人と戦闘を行ってもらう!!」

 瞬間、みんなの間に衝撃と戦慄が走ったのがわかった。
 先生と――プロヒーロー・・・・・・と、戦闘。いくら二対一といっても、実力差はあまりにも明白だ。最初から何となく嫌な予感はしていたのだけれど、案の定試験はとんでもなくきつい方向に変更されてしまったらしい。隣で小さく息を飲んだデク同様、わたしの体にも緊張が走った。
 これには峰田くんも流石に驚いたらしく「マジか……!」と小さな声が聞こえてきたのだけれど、すぐに「ミッドナイト先生……ミッドナイト先生……」と祈るような声が聞こえてきた。そのメンタリティはある意味尊敬に値する。

「なお、ペアの組と対戦する教師は既に決定済み。動きの傾向や成績、親密度――諸々を踏まえて独断で組ませてもらったから、発表してくぞ」

 二人一組と聞くと、思い出すのはかつての戦闘訓練だ。あの時は轟くんから逃げるのだけでいっぱいいっぱいで、周りが見えてなくてあっさり負けちゃったんだっけ。
 あれから色々なことがあった。USJで自分の悪い癖を知って、体育祭で自分の知らなかった“個性”に気付いて、保須の路地裏で本物の殺気と狂気を肌に感じた。フライさんや相澤先生にだって色んなことを教えてもらってきたんだし、何より経験は活かしてこそだ。今日までに吸収してきた全てを、今ここで出し切らなくちゃ――。

「――んで、南北」

 対戦の組み合わせを読み上げていた相澤先生の声が、いつの間にかわたしの名前を読んでいた。はっとして顔を上げると、こちらを見ていた充血しがちな目がわたしの隣、そして反対側の方をちらりと見遣る。

「それに緑谷と爆豪。人数の関係上、おまえらが変則で三人チーム」
「……へ!?」
「かっ……!?」
「で、相手は――」

 右隣で驚いたように息を飲んだデクと二人揃って振り向くと、お茶子ちゃんたちを挟んだ向こう側に立っていた爆豪あいつも同じように目を丸くしてこちらを見ている。特にデクを“完膚なきまでに差ァつけてブチ殺してやる”とまで宣言していた爆豪あいつにとっては完全に想定外の組み合わせだろうし、わたしだって近頃の気まずい状況の中、まさか期末試験を爆豪あいつと同じチームで戦わなければならないなんて夢にも思っていなかった。

 ――けれど事態は、悠長に驚く時間さえ満足に与えてはくれないようで。
 相手の教師を発表しようとした相澤先生が、ふと眩しそうに青空を見上げた。つられて顔を上げたわたしの目に天高く跳び上がった人影が映る。太陽を背負ったその人は、わたし達の目の前へ土煙を上げながら着地すると、真っ白な歯を剥き出しにして笑った。

「――私が……する!!」

 声も出なかった。
 今まで吸収してきた全てを、今日というこの日、一番いい形で出し切れたとしても――果たしてわたし達に、勝ち筋なんてものが存在するのだろうか。
 彼に憧れてやまない二人の幼馴染に挟まれたその場所で、不敵に笑うNo. 1ヒーローの巨躯を見上げながら、わたしはそんなことばかりをぼんやりと考えていた。



















「やっぱり、いくらハンデがあるといっても……あのオールマイト相手に“戦う”って選択肢は、絶対に無謀だと思うんだ」

 呟かれたデクの言葉は、半分自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。曖昧に頷きながら見上げたモニターの中では、障子くんと葉隠ちゃんがスナイプ先生の銃撃を耐え凌ぐ様子が映し出されている。彼らは八組目。既に七組のペアが、ある者は苦境を乗り越えて、ある者は涙を飲みながら、林間合宿の参加がかかった運命の期末試験をそれぞれの結果のもとに終えていた。
 わたし達はこの次の瀬呂くん、峰田くんペアのすぐ後――最後の十組目だ。作戦会議の時間はたっぷりあるはずだったのに、モニタールームで先に試練に挑んでいったクラスメイトたちの勇姿を見つつ、合間合間にデクと全く同じような問答を繰り返しているうちに、いつの間にかこんなに時間が経ってしまっている。
 すぐそこには既に試験を終えたお茶子ちゃんと飯田くん、梅雨ちゃんや八百万やおちゃんも立っていて、みんなモニターに映し出される試験の様子を見守りながらも、時折気遣わしげな視線をわたしやデクに向けているのがわかった。どうせまた同じ流れになってしまうとわかっているけれど、黙りこくっているわけにもいかず――もう何度目かもわからない応答を、わたしはもう一度口にする。

「……でも、きっと爆豪あいつは戦いたがるよ」
「……ほたるちゃんはどうするべきだと思う?」
「わたし……も、カフス掛けるには懐に飛び込まなきゃならないし、それは流石に危険すぎるし、どっちかというと逃げるべきだとは思うけどさ」

 何かの間違いでありますように――という願いも虚しく、実技試験の内容は先生をヴィランと想定した戦闘演習になってしまった。
 勝利条件は二つあって、制限時間以内に生徒の誰かが“脱出ゲート”を潜るか、先生の体のどこかに専用の手錠カフスを掛ければわたし達の勝ちになる。ペアで力を合わせて応戦・捕縛するか、あるいは撤退して応援を呼ぶか、その辺りの判断は生徒に委ねられているらしい。実力差をある程度埋めるため、先生方は体重の半分の重さがある“超圧縮重り”を手足に装着するというハンデまで付いている。
 でも、それでも――わたしたち三人の相手は、あの・・オールマイトだ。

「……かっちゃん……僕は無理でも、ほたるちゃんの話なら少しくらいは聞いてくれるかと思ったのに」

 いや、どう考えてもそれはないでしょ――という言葉は飲み込んで、憂鬱そうな顔で俯いているデクと二人揃って溜息を吐く。相手があのオールマイトなら、チームメイトもあの・・爆豪勝己。“親密度諸々を加味して組んだ”と相澤先生が言っていたから、爆豪あいつと仲が良くないわたし達をぶつけたのは敢えて・・・なのだろう。
 当然爆豪あいつはわたし達と話し合う気などさらさらなくて、声を掛けたわたし達をひと睨みしたきりどこかへ姿を消してしまった。情けないのはそれに気圧されてすごすごと撤退してしまったわたし自身だ。爆豪あいつとデクの不仲は小さい頃からの筋金入りなんだから、むしろ昔のように無理矢理にでも間に入って緩衝材的なアレにならなきゃいけないはずなのに――近頃ずっと手酷い拒絶を受けてばかりだったものだから、じわじわと湧いてきた苦手意識に加えて、以前にも感じた名状しがたいモヤモヤがわたしの胸を蝕んでいる。“聞く耳持つ気になるまで待つしかない”と飯田くんは言ったけれど、今やそうも言っていられない状況になってしまった。
 爆豪あいつと話し合いひとつできないまま、このままここで時間まで待機し続けるのは――他のみんなの試験の様子が見学できるという意味では有意義なのだけれど――とにかく、まずいような気がする。

(――ずっとこのまんまでいいの?)

 少し前から頭の中でぐるぐる回り続けているのは、いつか上鳴に掛けられた言葉。今になって蘇ってきたのは、きっとそれがわたしの自問と重なっているからだった。

「……難儀な子だね、あんたたち・・・・・も」

 何だか少し呆れたような、それでいて優しい声に思わず顔を上げると、ゴーグル越しの小さな瞳と視線がぶつかる。それまで黙ってモニターの方を向いていたリカバリーガールが、いつの間にか椅子をくるりと回してこちらを向いていた。“あんたたち”と言いながらも、その目はじっとわたしの顔だけを見つめているように思えて――隣のデクも同じように感じたのか、戸惑い気味にわたしと彼女の顔を見比べている。
 リカバリーガールはおもむろに椅子を下りると、白衣のポケットから取り出した何かをわたしに向かって差し出した。

「もうどうしていいかわからないって顔さね。試験前から余計なことに頭使い過ぎると疲れるよ……ほれ、ハリボーお食べ」
「あっ……ど、どうも」

 軽く握り込まれたしわしわの手の下に自分の掌を差し出すと、クマの形をした小さなグミが一つ落ちてきた。
 余計なことかはさておき、確かに試験開始から今の今まで、頭の中が悩みごとで埋め尽くされていっぱいいっぱいだった。言われた通り口に放り込むと、マスカットの爽やかな香りがふんわり広がっていく。

「アンタはヒーローの卵・・・・・・なんだろ?」
「は……、はい……?」
「だったら、先が見えなくて苦しいときでも、変に悩み過ぎる必要は無いよ。思い出すのはたったひとつだけでいいのさ」

 甘味で少し柔らかくほぐれた頭の中に、穏やかな声がすっと染み込んだ。
 “たったひとつだけでいい”。
 その言葉の意味を考え始めるより早く、煌々と燃え盛る火炎が脳裏を過ぎる。見上げるほどに大きな背中。わたしの心に火を灯してくれた――原点オリジン
 わたしが思い浮かべた風景を察したように、リカバリーガールは目尻の皺を深めて小さく笑った。

「迷ったときはそこに立ち戻れば、自分のすべきことが自ずと見えてくる。ここぞというときに、あと一歩前に進む勇気をくれる。原点ってのはそういうもんさね」

 ――守りたいものを守れる、強いヒーローになりたい。
 最初の気持ちが、灰から掘り起こされた埋み火のように心を温めていく。そうだ、わたしは強いヒーローになりたいんだ。早くクソ親父ちちおやのことを綺麗さっぱり消化して、守りたいもの全てを守れるヒーローに。今目の前にいる爆豪あいつとさえまともに向き合えないんじゃ、忌まわしい過去を清算するなんて到底できるはずがない。ここで頑張らないと、わたしはいつまで経っても弱いわたしのままだ。
 それに。

(――礼なら隣家の少年に言え。友人なんだろう)

 あの言葉が本当だとしたら――わたし、まだ“ありがとう”も言えてない。

「――っ、よし!」
「うわっ……どうした南北くん!?」
「リカバリーさん、ありがとうございます!」
「私ゃ具体的なことは何も言ってないよ」
「ほたるちゃん……?」

 両頬をべちべち叩いて気合いを入れると、突然のことに驚いたらしい飯田くんがぎょっとして悲鳴を上げた。リカバリーガールにお礼を言って振り向くと、困惑に揺れるデクの丸い目と視線がかち合う。胸の中に残っている緊張を深呼吸と共に吐き出して、わたしは真っ直ぐにその目を見つめながら口を開いた。

「――わたし、やっぱり爆豪あいつと話しに行ってくる」
「えっ!?で、でも……!!」
「とりあえずわたしとデクの意見、頑張って伝えてくるから。もしわたしが全然話聞いてもらえなくて駄目だったら、その時はあんたもお願い」
「……!」
「いろいろ怖いけどさ、……頑張ろ。ここで躓くわけにはいかないじゃん」

 わたしにも、幼馴染の二人にも、それぞれの原点りゆうがあって、それぞれの憧れを追っている。だからこそ、どんなにバラバラだったとしても、今だけは一つになる努力をしなくちゃいけない――と、思う。
 ぐっと拳を握り締め、デクの返事を待たずに出口へ歩き出――そうとしたのだけれど、一歩踏み出した途端柔らかな手に腕を引っ張られた。首だけ振り返ると、真剣な面持ちのお茶子ちゃんがわたしの手を強く、それでいて優しく包み込んでいる。

「火照ちゃんなら大丈夫!頑張れ!」

 言い切ると、お茶子ちゃんは眩しいほどの笑顔を浮かべてわたしの背中をとんと押してくれた。それに続いて、「そうとも、きっと大丈夫!頑張れ!!」「頑張ってね」と飯田くんや梅雨ちゃん――わたしと爆豪あいつの不仲を案じてくれていたみんなの声が飛んでくる。あまり状況がよく分かっていないらしい八百万やおちゃんまで「応援していますわ」と声を掛けてくれたものだから、何だか可笑しくて頬が緩んだ。最後に、やや躊躇いがちなデクの声が背中に降りかかる。

「……大丈夫?」
「……話してくるだけだってば、大丈夫・・・。じゃ、行ってくるから!」

 儀式・・の言葉を口にしながら歩き出したわたしの脳裏で、また上鳴が呟いた。
 “ずっとこのまんまでいいの?”
 あの時は情けない声で“わかんない”なんて答えてしまったけれど、今ならはっきりと口に出して言える。

「――いいわけ、ないよ」

 誰に届くわけでもない言葉は、自動ドアの開閉音に紛れて消えていく。一度静かに目を閉じて、再び目蓋の裏に浮かんだ橙色の炎に勇気を貰いながら、わたしは外へ通じる廊下を急ぎ足で歩き出した。

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