「――期末テストまで残すところ一週間だが、おまえらちゃんと勉強してるだろうな」

 教卓の上でプリントを揃えながら相澤先生が言うと、前の方で何人かの肩がびくりと強張ったのが見えた。斯く言うわたしの心臓も微かに跳ねる。
 一応授業は真面目に聞いてるし、宿題もちゃんとやってるし、全く勉強していないわけではないのだけれど――一週間後?マジ?今日の日付から、事前に公開されていた期末テスト当日の日付まで指折り数えてみると、なるほど確かに間違いなく来週だ。体育祭に職場体験と、色々な意味で強烈な行事が続いたせいですっかり頭から抜け落ちていた。
 「当然知ってるだろうが、テストは筆記だけでなく演習も――」と続ける先生の言葉をぼんやり聞きつつ、やや焦りながら勉強の計画を立てる。暗記ものは何とかなるだろうし、古文や英語なら多分大丈夫、問題は数学……今日エクトプラズム先生が言ってたことにも微妙についていけてないしなあ。特に最近は別件で忙しくて勉強時間もあまり――と頭を悩ませていると、話を終えて廊下に出ようとしていた相澤先生が、閉めかけていたドアの隙間からひょいと顔を覗かせた。

「南北。昨日伝えた通りだ、遅れるなよ」
「あっ、はい」

 噂をすればとでも言うべきか、その別件・・の話だ。「明日の放課後は職員会議があるんで時間が取れん。昼休み使うぞ」と確かに昨日言われていた。
 昼休みは既に始まっている。のんびり悩んでいる時間は無さそうだ。今度こそ閉まったドアを横目に見ながら、広げていたノートや教科書を閉じてそそくさと机に仕舞い込んでいると、先程前の方の席で気まずそうに肩を揺らしていた二人――1年A組座学成績ワーストの二人、上鳴とミナちゃんが仲良く立ち上がって声を上げた。

「全く勉強してなーい!!あははは!!」
「体育祭やら職場体験やらで全く勉強してねーーー!!」
「確かに、行事続きではあったが……」

 隣の席の常闇くんがやや呆れたように呟いたものだから、上鳴同様行事でいっぱいいっぱいだったわたしも何だか情けない気持ちになってくる。いや大丈夫、まだ一週間あるから。自分に言い聞かせつつ鞄の中からお弁当の包みを引っ張り出すと、「演習試験もあるのがつれえとこだよな〜!」と妙に勝ち誇った峰田くんの声が後ろから聞こえてきた。
 言動は常にギリギリアウトな彼だけれど、あれで結構真面目で堅実な所があって、確か中間試験の順位は半分よりも上だったはずだ。わたしより良い点の数学テスト用紙を見せられてショックを受けた時のことを思い出しながら、おにぎりのアルミホイルを剥ぎ取って口に入れる。上鳴とミナちゃんを励ますデクや飯田くんたちの声を聞きながら急ぎ気味にお弁当を咀嚼していると、後ろから背中をつんと突かれた。

「おまえはどうなんだよ南北!赤点だけは絶対に取るなよ!林間合宿来いよな!」
「わたし?……何で名指し?」
「そりゃタオルの中身を――じゃない……後ろの席のよしみで心配してやってんだよ!おまえ数学苦手だって言ってたろ?」
「うん、まあ……」
「ホラ、ちょうどあっちも勉強会の話で盛り上がってるしよ……何ならオイラんで一緒に勉強でも……するかァ……?」
「うん、絶対嫌だね……」

 血眼で誘ってくる峰田くんから目を逸らしてその背後を見遣ると、八百万やおちゃんの席の周りに上鳴たちを含む何人かが集まっている。どうやら次の休日に勉強会を開く運びになったようだ。
 何ならわたしもそこに混ぜて貰えないかな、と思った所で、不意にこちらを振り返った上鳴と目が合う。わたしの顔を見て、それからわたしを通り越して後ろの方も見た上鳴は、唐突に明るい表情を作って歩み寄ってきた。

「――なあ切島!もしかして爆豪と勉強すんの?」
「おう!教え殺して貰えるらしいぜ!」

 わたしに用かと思いきや、彼は隣を素通りして更に教室の前の方へ足を進める。目的は爆豪あいつの席の横に立っていた切島くんのようだった。
 いつの間にか、そっちもそっちで勉強会――というか、爆豪あいつに教え殺される会を開くことになっていたらしい。流石切島くん、つれない爆豪あいつ相手に上手いこと約束を取り付けたもんだなあ、なんて思いながらおにぎりを飲み込み終えようとした、まさにその時だった。

「なら南北もそこ混ざりゃいいじゃん!名案じゃね?」
「――ゲッホ、ゴホッ」
「数学苦手なんだろ!な!」

 驚いた喉の奥で米粒が暴れた。危うく変な所に入りかけたそれを何とか収めて顔を上げると、上鳴は本気で“名案だ”と思っているのがありありとわかる眼差しでわたしを見ている。
 つい先日敢えなく突き放されたばかりで、何とか気持ちを発散してクールダウン期間に突入したところだというのに――否、上鳴には何の報告もしていないし、配慮しろというのが無理な話なのだけれど。「荒療治かよ……!」と呟いた切島くんは、震えながらお茶のペットボトルを探すわたしとご満悦の上鳴を困ったように見比べてから、真っ赤な髪の毛を軽く掻いてちらりと爆豪あいつに視線を向ける。

「んー……なあ爆豪、断る理由もねェよな?」
「……」

 諭すように呼び掛けられた爆豪あいつは、無言のまま肩越しに軽くこちらを振り返った。前のデクは席を立っているので、わたしと奴の間を阻むものは何もない。
 先日の一件以降、やはり言葉も交わさない日々が続いていたのもあって一瞬身構えたが――意外にもその目にあのひりつくような冷ややかさは無く、“不機嫌”や“嫌悪”というより、単純に“面倒くさい”という感情の色が濃いようだった。

「断る」
「えー!?何でだよケチ臭ェな、教える相手が一人から二人になったって変わんないっしょ!もしかして数学教えんの自信ねーの!?」
「あァ!?誰に向かって物言ってんだ自信満々だわボケ!」
「だったらいいじゃねェか!何やかんや上鳴の言うことも一理あるぜ?」
「……そいつに教えようとすんのはクソ無駄骨なんだよ。一人で勝手にやらせとけ」

 しつこく食い下がる上鳴や何だかんだと取り持ってくれようとする切島くんを睨みつけて、爆豪あいつはふいと前に向き直った。「なあ、やっぱ俺と勉強するか?」と背中を突いてくる峰田くんの手をやんわり払いつつ、わたしは思わずその背中に見入る。
 “無駄骨”――その言い草には覚えがあった。前にも同じようなことを爆豪あいつに言われたことがあったような気がする。いつ、どこで、どうして言われたんだったか――頭の隅に引っ掛かったそれを思い出そうとしていると、背後から峰田くんのとは別の手がわたしの肩を叩く。

「南北さん、相澤先生と何か約束があるようでしたけど……お時間は大丈夫なのですか?」
「あっ――やば!ありがと八百万やおちゃん……!」

 去り際の先生の言葉を覚えていたらしい八百万やおちゃんが気遣わしげに時計を指してくれたお陰で、わたしは我に返って慌てて席を立った。空になったお弁当の包みを鞄にねじ込んで、教室の後ろにあるロッカーから体操着の入った手提げを取り出していると、お勉強会組の中に居た瀬呂くんが訝しげに首を傾げる。

「何か最近忙しそうだよなァ、おまえ。先生と何かやってんの?」
「そのうちわかるよ」
「密会か!?」
「あのねえ……」

 どこまで本気で言ってるのかわからない峰田くんを軽く睨んでから、足早に教室の敷居を跨いで外に出る。勉強のことも爆豪あいつの問題も重要ではあるのだけれど――今は相澤先生に締め上げられないことの方がよっぽど大事だ。命と健康と午後の授業に関わる。「おい南北ー!」とまだ何か言いたげに教室の出口から顔を出す上鳴に軽く手を振って、わたしは通り掛かりの先生たちに叱られない程度の速さを保ちながら、体育館の方へと大急ぎで足を進めた。

















「――んじゃ、今日は俺相手に立ち回りの練習するか」
「えっと……昨日までみたいな、先生を捕まえるやつとは違うんですか?」
「俺に捕まらないように俺を捕まえる練習だ。こいつ・・・はある程度リーチがある分、対近接型なら小難しく考えなくても比較的楽に立ち回れるが……自分と同じ、或いはそれ以上の射程がある敵だとまた勝手が違う。とりあえず、まずは同レンジ相手に感覚を掴め」
「はい……!」

 する、と首周りの武器をほどいた相澤先生の前で、わたしも腰を浅く落として構えを取る。手には、先生が普段から肌身離さず身につけているものと全く同じ、包帯のような形状の捕縛武器――お願いして貸し出してもらった、曰く“予備”のものらしい。
 ここ数日の間、わたしが放課後や空き時間、ひいては勉強時間を削っていたのは、こうして相澤先生直々に“捕縛布”の扱い方を指導してもらうためだった。

 最初は、ここまで先生の手を煩わせるつもりも無かったのだけれど。
 「先生のそれって、似たようなのをサポートアイテム申請しても大丈夫ですかね?」と聞きに行ったのが数日前。実を言うとそれは結構以前――遡るならUSJ襲撃事件の直後辺りから、薄っすらとではあるが考えていたことだった。
 わたしの“個性”にはリーチ・・・が足りない。例えば相手に磁力を付与したい時、離れた場所から地面伝いに“個性”を伸ばして捕まえることもできないわけではないし、今までは何ならそれでも十分なんじゃないかと甘く考えていたのだけれど――無駄に範囲が広がって効果が薄まりやすくなるし、展開中には隙も生じるし、かといって相手に直接掌で触れようとするのは多大なリスクを伴うものなのだと、“ヒーロー殺し”戦で文字通り痛感した訳で。どうしたものかと考えた時、自然と頭に浮かんだのは、USJで脳無や死柄木と相対した時のことだった。
 あの時、咄嗟にではあったけれど、わたしは相澤先生の捕縛武器を使って遠くから奴らに磁力を付与したのだ。これだ、と思った。あれを使えば距離を詰め過ぎずにピンポイントで“個性”を使えるし、戦闘においても徒手空拳で突っ込んでいくよりは色々な状況に対応できる。なんなら“熱”の方も活かしやすくなるかもしれない、まさに一石三鳥。
 問われた先生は一瞬妙な顔をしたのだけれど、それらの理由を掻い摘んで説明するとすぐに納得してくれたようで、「まあ問題無いだろうよ、別に権利持ってる訳でもないし」とあっさり頷いてくれた。そのまま武器の使い方についてあれやこれやと質問しまくった結果、「……口で説明するより、体に叩き込んだ方が合理的だな」と望外の申し出を頂き、今日に至るというわけだ。「いい見本にもなるだろ」とか何とか不思議なことも言われたのだけれど、その辺の詳細は未だ不明――というか、先生の割とスパルタな指導についていくのに必死で、余計なことを考えている余裕もない。

 けれど、お陰様でこの短期間の間に使い方の基本は何となくわかった。当然先生の体捌きには到底及ばないし、実戦レベルとも言えないかもしれないけれど――とりあえず、出来るところまでやるしかない。

「始めるぞ」
「お願いします!」

 早速飛んできた硬い布を躱して走る。パンチやナイフと違って“捕まえる”ための攻撃だからか、体は固まることなくすんなりと動いてくれていた。今日までの訓練の中で、逃げの上手さについては先生からもお墨付きを貰っているほどだ。無論「その反応をあらゆる状況で出せよ」と叱られもしたのだけれど。

「昼休みも残り少ない。短期決戦で行く」

 言いながら先生が再度布を放ったので、反発を使ってすれ違うように跳――ぼうとしたのだけれど、床に触れても“個性”の光が出ない。あっ、と顔を上げたわたしの視界に赤く揺らめく双眸が映った。
 そりゃそうだよなあ。歯噛みしつつも両手で細い帯を広げ、低く落とした姿勢はそのままに懐へ飛び込んで、相手の足を払うように武器を引く。

「そうだな、俺相手には捕まらん内に距離を詰めきるのがひとつ有効な手」
「――っ!」
「イコールおまえにとっても距離を詰められ過ぎるのは不味いってことだ、覚えとけ。あといい加減こっち・・・も避けられるようになれよ」

 足元を引っ掛けようとした布は見切っていたと言わんばかりにひょいと飛んで躱され、次いで振り返れば視界の端に黒い肘が見えて――ぽかんとそれを眺めていたわたしの側頭部に、ごつんと鈍い衝撃が走った。
 しまった。多少の手加減はしてもらえたようだけれど、例のごとくモロに貰って痛みに息を詰めるわたしの目の前に、もう一度先生の肘鉄が飛んでくる。同じ手を二度と使ってくるということは、“今度は対処しろ”という無言の課題提示だ。
 歯を食いしばって両足の力を抜き、保須で受けたフライさんとの組み手を思い出す。避けきれないなら、受けて流す。短く持った布をピンと両手で張って迫り来る肘の骨を受け止めると、無精髭に覆われた口元がにやりと弧を描いた。

「避けられないなら、せめて攻撃を見た瞬間にそれが出るようにしとけ――そら、次はどうする?」
「……っ、こうします!」

 多分そろそろ・・・・の筈だ。
 肘を押し返し、すかさず跳び退りながら右手で布を投げる。先生の腕を狙って放ったそれは、巻きつく前に反対の手で握り止められてしまったが、同時にぶわりと持ち上がっていた先生の髪の毛が下がって、落ちた瞼が赤く光っていた両目を覆い隠した。
 ――今だ。捕縛布を持つ右手に力を込めて、先生の手元まで一気に赤い光を走らせる。じり、と掌に焼けるような痛みが走るのと同時に、先生は瞬きを終えた目を見開いて、掴んでいたわたしの捕縛布を反射的に手放した。その隙を突いて、今度は左手側から別の布を先生の胴体目掛けて放つ。

「捉え――」
「おっと」
「あ!?」

 いける、と思ったのだけれど、先生は胴に巻きつこうとする捕縛布の間をひょいと跳び上がって抜け出してしまう。忍者じみた身の軽さに思わず声を上げて驚くわたしの横に着地した先生は、すれ違いざまに引っ掛けた布でわたしの体をあっさりと床の上に引き倒した。何とか受け身を取って頭を守ったわたしを、再度赤く光った瞳が上から見下ろす。

「はいストップ、そこまで」
「……っ、はあ、……もしかしていけるかなと、思ったんですけど……!」
「そう簡単には捕まってやらないよ――とはいえ、発想はまあまあ悪くない。おまえ、最初からそういう・・・・使い方を想定して捕縛布こいつに目を着けたのか?」
「はい、まあ……」

 頷くと、先生は目薬を差した両目を瞬かせながら少し考えるような素振そぶりを見せた。わたしはわたしで小さく安堵の息を吐く。思った通り――この捕縛武器には、“熱”が通るようだ。
 先生の布は、極めれば自由自在にコントロールできるほど軽く柔軟にも拘らず、異形型や増強型の“個性”でも簡単には引き千切れないほどの硬さがある。その秘密は繊維に織り込まれた特殊合金・・・・なのだと、確か入学当日の“個性”把握テストの時に言っていた。これを上手く利用できれば、手近に金属の類が無いような状況でも“熱”の“個性”をダイレクトにぶつけることができるし、サポート科と相談して素材を工夫すれば、もっと色々なことができるようになるかもしれない。

「……使えるもんを使ってく姿勢は良いが、まず自傷前提の策は褒められたもんじゃない。今の状況ならもっと合理的な手がいくらでもあっただろ」

 内心わくわくしながら今後の事を考え始めていると、相澤先生は不意にしゃがみ込んでわたしの掌をつんと突いた。そこまで高温にはしなかったのだけれど、軽く火傷を負った右掌は赤くなってじんじんと熱を持っている。ぴりりと走った痛みに「ひっ」と声を上げると、先生は若干呆れたように目を伏せて立ち上がった。

「おまえの課題はその妙な自己犠牲――非合理的判断癖の矯正。あとは“個性”のコントロールだな」
「……あの、わたしの戦い方って、その……そんなにダメダメですか?」

 “自己犠牲はヒーローの大前提”――そういった旨の言葉を、入試の合格通知に同封されていた映像の中で、救助レスキューポイントの説明をする際にオールマイトが口にしていたのを思い出す。誰かを救けるためには体を張らなければならないこともあるし、ヒーローにはそれを実行する勇気が時には必要なはずだ。口答えというよりは、純粋に質問の意図を込めて恐々尋ねてみると、先生は充血した目をじとりと細めて言った。

「自分の身を犠牲にするのは最終手段・・・・だ。おまえは優先順位がおかしいんだよ、まず最初に体を張ろうとする癖がついてる」
「……は、はい」
「その右手も無茶して他人を庇った結果だってな。ちゃんと教訓にしろよ――“極力無傷で”、“生きて守る”術を身につけられない限り、プロヒーローなんてのは夢のまた夢だぞ」

 おっしゃる通りです。保須での件も把握済みらしい先生からの厳しい言葉に、先程打った痛みで丸まっていた背筋が思わず伸びる。
 あの場で一緒に戦った三人はもちろん、離れたところにいるイナサや、上鳴をはじめとした同級生のみんなにも散々心配を掛けてしまっているのだ。本当に強いヒーローになるためには、誰かを不安な気持ちにさせる事なく、自分の身も他人の身も危うげなく守れるくらいにならなくちゃいけない。そのためにも、こうして新たな武器を手に取ることを決めたのだから。

 頑張らなきゃ。火傷していない方の手を握り込み、決意も新たに顔を上げる――と、正面に立つ先生の背後、体育館の入り口の方に人影が見えた。
 やや遠目だが、衣替えで半袖になった男子の制服に、逆立っている割に柔らかそうなすみれ色の髪。酷く見覚えのあるその姿に「え」と声を漏らすと、わたしの視線に気付いた先生がぽりぽりと目元を掻きながら言った。

「ああ……そういや伝えてなかったか。彼は見学だよ」
「け、見学……!?」

 目を丸くして立ち上がるわたしを他所よそに、先生は振り返って小さく手招きをする。呼ばれた彼はこちらへ歩み寄り、先生に軽く会釈をしてから、目をぱちくりさせるわたしとは対照的に落ち着き払った様子で口を開いた。

「……顔合わせるのは久しぶりだな」

 彼の言う通り、クラスも違うしわたしは職場体験に出ていたしで、面と向かって言葉を交わす機会はあまりなかった。それこそ体育祭ぶりくらいの対面に呆けていると、隈に縁取られた目が少し可笑しそうに笑みを象る。
 騎馬戦で知り合って以来、ちょくちょく連絡だけは取り合っていた心操くんが――今、何故かわたしの目の前に立っていた。どういうことですか、と視線で問うと、先生は彼の横に立って平然と説明してくれる。

「……一応言っとくが、他言無用で頼むよ。体育祭での成績リザルトを鑑みて、心操くんのヒーロー科編入を検討する話が少し前から出てる」
「……え!?ええ!?」
「まだ先の話ではあるんだが――転科には当然試験を通ってもらう必要があるんで、いずれはそれに備えて実技指導も受けなきゃならない。そこにちょうどいいタイミングでおまえが来たんで、訓練の雰囲気を見せるためにもちょこっと見学してもらってたわけだ」
「勉強になりました。……ヒーロー科の授業や訓練を見られる機会なんて、普通科の俺には滅多に無いので」

 淡々と会話する二人の顔を見比べながら、先生の説明をゆっくりと咀嚼すると、胸の中にじわじわと喜びが広がっていった。
 “俺はこんな“個性”のおかげでスタートから遅れちまったよ”――体育祭、トーナメント第一試合でデク相手に吐露されていた彼の言葉を思い出す。わかりやすく戦闘向きの“個性”では無かったために、対ロボットの入試で一度はふるいに掛けられてしまった心操くんだけれど、あそこまで勝ち上がった彼の実力と熱意が、見事に道を拓いてみせたのだ。思わず火傷も忘れたまま、興奮に任せて心操くんの両肩へ手を置いた。

「おめでと!うわー本当おめでと!すごい!」
「……喜ぶなよ。俺はやっと、四月時点の・・・・・あんたらと同じラインに立つチャンスを貰っただけなんだから」

 突然のことに目を丸くして身を強張らせた心操くんの体をゆさゆさ揺すって喜ぶと、彼はあくまで険しい顔をしてわたしの右手をやんわりと払う。相変わらず現実をしっかり見据えているというか、ストイックで油断しない性格のようだった。わたしなら絶対有頂天になってしまう――というか、現に他人ひとのことでさえこんなに浮かれてしまっているのに。
 と、一人で沸き立つわたしを現実に引き戻すように、相澤先生の咳払いが聞こえた。はっとして手を離したわたしから逃げるように、心操くんがさり気なく半歩下がる。

「時間もないんで南北おまえに話を戻すが――“個性”のコントロールの方は既に林間合宿での特訓内容に組み込まれているから、そっちで頑張れよ」
「えっと、コントロールというのは具体的に……?」
「さっきのアレだが、例えば自分の手を焼かず、俺の手の周囲にだけ熱を送り込めればまあ上出来だった訳だ。温度調整や磁力の出力も込みで、合宿ではそういう伸び代を模索させる予定――、……ところでおまえ、勉強の方は大丈夫なんだろうな」

 控えめに挙手して質問すると、先生は丁寧に説明してくれたのだけれど――不意に言葉を切って、眉を顰めながら思い出したように呟いた。ぎくり、と肩を揺らしたわたしの様子を見て、黒い髪の隙間から覗いていた目が呆れ気味に伏せられる。

「今日の一限終わりにエクトプラズム先生からタレコミがあったぞ。“授業中、突然飼イ主カラ異国語デ語リカケラレタ子犬ノヨウナ顔ヲスルコトガ増エタ”って」
「何ですかその例え!?」
「事前に伝えてある通り、期末で赤点を取った者は合宿不参加で補習地獄だからな。明日から試験まで訓練は無しにするから、放課後使ってきちんと勉強……」
「えっ――いや待ってください!期末までに少しでも物にしておきたいんです!もうちょっとだけでもお願いします!」

 勉強は確かにしないとまずいけれど、期末には内容が不透明な実技試験もあるのだ。そっちの対策も可能な限りギリギリまで熟しておきたい。必死の思いで食い下がると、先生は試すような視線をじっとわたしに向けた。

「……勉強は?」
「自己責任でなんとかします!」
「言ったな?」
「はい!」
「――じゃあ、今週いっぱいは遠慮なく扱かせてもらおうか。一朝一夕に扱えるモンでもないが、期末の実技に活かしたいって言うんなら今みたいな付け焼き刃じゃ話にならん。厳しくいくぞ」
「……は、はい!」

 にやりと持ち上がった口角を見て、一瞬「あっ……」と後悔にも似た気持ちが胸を掠めていったが、ぎりぎりまで稽古を付けてもらえるのは願っても無いことだ。姿勢を正して返事をしたのと同時に、昼休みの終わりを告げる予鈴が響き渡る。「それ、一応冷やしてからばあさんに診てもらえよ」とわたしの手を指してから立ち去りかけた先生は、ふと思い出したように足を止めてわたしに向き直った。

「……“熱”を使った戦法、あれは実際良かったよ。俺の場合は“個性”を消した相手とフラットな状態でやり合うのが主だが、おまえの“個性”はまた勝手が違う」
「はい」
「同じような武器を使うにしても、スタイルまで徹頭徹尾真似る必要はない。捕縛布こいつとおまえの“個性”でしかできないやり方を今後も探っていけ」
「……はい!」
「熱意はそこそこ買ってる。……座学で赤点取ったら承知しないからな」
「は、……はい……」

 珍しく真っ直ぐに褒められたような気がしてふわついた心が、直後に刺された釘で萎んでいった。言いたいことを言って満足したのか、先生はすたすたと体育館の出口へ歩いて行く。
 わたし達も急がないと、十分後には午後の授業が始まってしまう。顔を上げると心操くんと目が合った。

「早く着替えて来いよ」
「え?あ、うん――いや、待ってなくて良いんだよ?普通科遠いし早く行かないと……」
「いいから。せめて冷やす所までは見届けないと……あんた、もう忘れてそうだし」

 じろ、と呆れたような彼の視線が射抜いたのは、さっき喜びのあまり心操くんの肩を掴んで揺すったわたしの右手だった。
 思わず誤魔化しの愛想笑いが浮かぶ。確かに、冷やせと言われたばかりだというのにもう忘れかけてしまっていた。“買ってる”という先生の言葉が嬉しかったのもあるけれど、火傷にはどうも慣れきってしまっていて、この程度の軽いものだと頓着する気も起きないというか――とはいえ目の前の心操くんは、本気でわたしが傷を冷やすのを見届けるまで帰らないつもりのようだ。「ごめん!」と謝りながら慌てて更衣室に飛び込み、可能な限りの速度で体操服から制服に着替える。

「――数学、わからないとこあるなら教えようか」

 その後、最寄りの水道で掌を冷やしている最中に、隣でそれを眺めていた心操くんがぽつりと呟いた。突然の申し出に目を丸くして固まると、彼は「エクトプラズム先生って数学……だよな?」と首を傾げる。

「座学なら普通科と内容変わらないでしょ。数学は多少自信あるし、あんたさえ良ければ週末にでも」
「え、えっと……いいの、本当に?」
「見学させてもらったお礼」

 そのお礼はわたしより相澤先生が受け取るべきな気がするけれど――心操くんはそれきり無言で、わたしの答えを待つようにじっとこちらを見ている。今のところ週末には予定も入っていないし、上鳴が勝手に提案した“教え殺される会乱入作戦”も爆豪あいつにはっきりと断られてしまったので、嬉しい申し出ではあった。
 断る理由もないし、体育祭ぶりに心操くんとゆっくり話すのもいいかもしれない。冷えて濡れた手をハンカチで拭いながら「わたしも英語と古文ならわかるよ」と答えると、「……じゃあ古文、よろしく」と短い返事が返ってくる。詳しい日時や場所は後でLINEでも、と話がまとまったところで、彼はやや急ぎ足に普通科の教室の方へ立ち去って行った。

 遠ざかっていく背中を見送りながら、ふと教室での会話を思い出す。そういや、“無駄骨”って、結局なんのことだったんだっけな。もうちょっとで思い出せそうだったのに。考え込んだ一瞬、目の前でぷんすかと不機嫌を爆発させる小学生くらいの爆豪かっちゃんの姿が脳裏をちらついたような気がしたのだけれど――。
 その時、廊下に鳴り響いた本鈴の音ではっと我に返った。確か午後一番の授業はヒーロー情報学、担当は引き続き相澤先生。事情を把握しているとはいえ、あの人が必要以上の遅刻を許容してくれるとは思えない。結局わたしは、頭の隅に引っ掛かっていた記憶をまたも振り切って、保健室への道のりを静かに走り出したのだった。

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