「ねえ」
「……」
「ねえってば」
「……」
「聞こえてる?」
「……」
「あの……」
「……」
「……ねえちょっと!!」

 一生懸命呼び掛けているっていうのに、「うるせェ」や「黙れ」のような罵声すら返ってこない。教室前の廊下からずっとこの調子だ。鞄を肩からぶら下げ沈黙を貫き通しながら歩く爆豪あいつは、こちらを振り返ろうとする素振りさえ見せないまま、さっさと昇降口から外へ出て行ってしまう。
 慌てて靴箱から取り出した外履きを引っ掛けながら、わたし何かしたっけ?と記憶を掘り起こしたが、今日のヒーロー基礎学で気まずいハーモニーを奏でてしまった以外には何も思いつかない。そもそも本日の接点らしい接点はそれっぽっちで、考えてみれば碌に会話もしていない筈だった。なのに、爆豪あいつの様子が明らかにおかしいというか――冷たさの度合いが普段と全く違うのだ。
 話しかけても構わず無視される、くらいならまだいつも通りの話なのだけれど、常ならふとした拍子にぶつかることも少なくないはずの視線が、どんなに意識して合わせようとしても掠りもしない。しつこく声を掛けても睨みつけてさえこないものだから、徹底的にわたしを視界に入れてやらないという意志さえ感じる。纏う空気もどこかぴりついていて、もしやとんでもなく虫の居所が悪い時に声を掛けてしまったのでは?と、自分の間の悪さを少し呪った。
 朝から上鳴に背を押され、更に梅雨ちゃんから気の利いたアドバイスも受けてちょっぴり勇気を貰い、それが萎びてしまわないうちにと自分を奮い立たせて頑張ったつもりだったのだけれど――夕陽の中に遠ざかっていく背中を見ながら、日を改めようかという考えが過って、慌ててかぶりを振る。いや駄目だ、今行かないときっとずるずる先延ばしになって、また良かれと思った上鳴にせっつかれる羽目になってしまう。思考と裏腹に鉛のように重くなっていく足を引きずって、橙色の地面に落ちて伸びる長い影の後をめげずにせっせと追った。

「あの、ちょっと」
「……」
「話が……」
「……」
「……、ば……爆豪ってば」

 周囲には同じく下校中の人影も、やや疎らではあるが一応あった。まさか自分が話しかけられていることに気付いてないってことは……流石にないよね……とは思いつつ、一瞬どう呼んだものか迷った挙句、当たり障りのない呼称を口にしてみる。そういえば再会して以来、本人に向かって直接名前で呼び掛けたのは初めてかもしれないと、いまいち言い慣れない音を口にしながらぼんやり思った。
 すると、淡々と進んでいた爆豪あいつの足が一瞬何かに引っ掛かったように止まりかけ――たかと思うと、ますます大股足早になって動き出す。やっぱりわかってて無視してやがるな。取りつく島もないその態度にうぐ、と息も言葉も詰まらせたわたしの脳裏で、「思ったことを言うのよ」と梅雨ちゃんが微笑んだ。頑張れ。頑張れわたし。少し足を早めて無理やり隣に並び、前方を睨みつけたままの不機嫌そうな横顔を見上げながら息を吸い込んだ。

「――あのさ、わたし、何かした?」
「……」
「何に怒ってんのさ」

 手始めにまず今思うことを口に出してみたけれど、やはり爆豪あいつはこちらに目もくれず歩き続ける。一旦口を噤んで返事を待って見たものの、奴の唇は真一文字に引き結ばれたまま動かない。少しの間沈黙が流れた。
 何かに酷く腹を立てているのか、とにかく機嫌が悪いということは伝わってくるのだけれど、如何せん視線も言葉も無いノーヒント状態だ。何が原因かなんてわかりっこない。せめてわかれば謝りようも――いや、相手の性格的に謝ってどうにかなるという保証もないけれど、とにかく話の取っ掛かり程度にはなる筈なのに。
 もう無理だ、こんなの。完全に途方に暮れてしまって、諦めにも似た感情が広がるのと同時に、全身に僅かに走っていた緊張が脱力感に取って代わる。緩んだ唇から溜息と一緒になって溢れ落ちたのは、半分独り言のような、行き場のない愚痴のようなものだった。

「なんなのもう……思ってること、口に出して言ってくれなきゃわかんないって――」

 瞬間、襟首を強い力で掴み上げられて、喉から「ひゅッ」と変な音が出た。散々視線を合わせようとしても捕まえられなかった赤い瞳が、今は目と鼻の先でわたしの顔を睨めつけている。
 何だか入学したての頃にも似たような状況を体験したことがあるような気がするけれど、あの時の激情的な様子とは違って乱暴に揺さぶられることはなく、ただひりつくような鋭い怒りだけがその視線から伝わってくる。突然のことに目を白黒させるわたしの目の前で、固く結ばれていた唇が、不機嫌な形はそのままにゆっくりと動き出した。

「てめェが、俺に腹ん中見せたためしがあったかよ」
「……へ、」
「テメエでやりもしねェことを俺に要求すんな……ムカつくんだよ、クソ」

 それだけ言うと、襟を掴んでいた手はあっさりと離れて、再びわたしに背を向けた爆豪あいつは今度こそ振り返ることなく遠ざかっていった。暫し呆然とその背中を見守っていたわたしの胸中に、じわじわと名状しがたい感情が広がっていく。あまり良いものではなかった。例えて言うなら、ちょうど今勉強を始めようとしていたところだったのに、「ちょっと、ダラダラしてないで勉強でもしなさいよ!」とお母さんに叱りつけられた時のような――いや、例えるまでもなくまさにそれだ。今、たった今。

「(い――いま……、やろうとしてたじゃんかぁ……!!)」

 まさに今、本音で話し合いたくてわたしなりに頑張ってたっていうのに、そんなににべもなく突き放さなくたって良いじゃんか。地団駄したくなる気持ちをぐっと堪えて拳を握った頃には、校門の向こうへ進んでいった背中も完全に見えなくなって、少し前までわたしの様子をちらちらと伺っていた周りの生徒たちも各々の帰路に戻っていた。はー、はぁー、もう。なんなんだよもう。結局何に怒ってたのかもわからないし、わたしは一体どうしたら良いのさ。

「――南北くん?」

 もやついた思いを抱えたまま、もう奴の影も形も見えない校門の向こうを恨みがましく睨み据えていると、背後からよく知った声に呼び止められた。きっと名状しがたい感情のせいで不細工に歪んでいるであろう顔を精一杯整えながら振り返ると、ちょうど昇降口から出てきた所らしい飯田くんが訝しげに目を瞬かせている。

「どうしたんだ、そんな所に突っ立って。朝も道端にしゃがみ込んでいたし……今日の君、やはり少し変だぞ」
「いや、うん……ごめん、ちょっと今……めっちゃモヤモヤしてて」
「爆豪くんと何かあったのか?」

 読心さながらの指摘に思わず身を強張らせながら「なんで?」と問うと、「一緒に教室を出る所を見ていたからな」とシンプルな返答があった。確かに一緒――というか、わたしが無視されながら爆豪あいつにくっ付いて外に出た時、教室の中にはまだ何人か残っていたような気がする。なんだ、とわたしは納得したが、飯田くんの話はまだ続いた。

「それに君たちが出た後、教室で麗日くんが心配していてね」
「お茶子ちゃんが?」
「今日一日、君の様子がおかしかったのをずっと気に掛けていたらしい。そうしたら上鳴くんが、“あいつが悩んでる時は大体爆豪のせいだぜ”とか何とか言っていたので……てっきりそうなのかと」

 何だそのざっくりにも程がある適当な説明は。適当どころかもはや嘘に片足を突っ込んでいるレベルだ。他の原因でも悩むことくらいあるっての……と、脳裏に浮かぶチャラついた笑顔に内心文句を垂れまくったのだけれど――悔しいことに、今回の場合はまさにその通りなので何とも言えない。押し黙ったわたしの渋い顔が面白かったのか、飯田くんは微かに笑った後、校門へ伸びる道の先をぴっと指差した。

「駅までだろ?一緒にどうだい」
「……あれ、そういやイ――デクは?お茶子ちゃんも一緒じゃないの?」
「今日は二人ともそれぞれ用事があるらしくてな、別々に帰ることになったんだ。何故モヤモヤしているのかはわからないが、俺でよければ話も聞くぞ」

 友だちだろ、と飯田くんがいつもの変な動きでわたしの前に手を出した。ぴんと伸びた指先と彼の顔を思わず見比べると、眼鏡の奥の四角い目が頼もしく微笑んでいるのが見える。
 何だか恵まれているなと、不意に思った。職場体験が明け、学校に戻ってきてまだ一日目だっていうのに、今日だけで色んな人がわたしの背を押そうとしてくれる。多分、みんなに何か変化があった訳じゃない。わたしが気付いていなかっただけで、差し伸べられた手はずっとそこにあった。どうして取ってみようと思わなかったんだろう。心底不思議に思いながら、わたしはぐっと顔を顰めて、「聞いてよー」という愚痴めいた言葉を皮切りに、腹の中のモヤモヤを目一杯吐き出した。

















「うん……確かに、虫の居所は良くなかっただろうな」

 駅までの道をのんびり行く最中さなか、“爆豪あいつにこっ酷く無視されたので理由を聞いたら逆に怒られた”というわたしの話を一通り聞いた飯田くんは、気まずそうな面持ちでそう呟いた。何やら知っていそうな口ぶりに首を傾げると、彼は少しだけ躊躇うように目を伏せて唸った後、しゅぱしゅぱと手を動かしながら語り出す。

「いや、実はヒーロー基礎学の後、着替え中にふとした事から爆豪くんと轟くんが口論になってね。後から緑谷くんも加わっていたが」
「轟くん……と、口論?え、なんで?」
「俺にも事情はさっぱりなんだが……察するに南北くん、君に関わる話のようだったぞ」
「はあ……?」
「修羅場だの、痴話喧嘩がどうだのとちょっとした騒ぎになって――ん?そういえば……君、以前轟くんの自宅に泊まったとかいう話があったな!あの時は言いそびれてしまったが、婚前の女子が男子の家に宿泊するなど言語道断だ!仮に交際するのだとしてもきちんとした手順を踏んで、まずは互いのご両親にお伺いを立てるところから……」
「真面目か!!しかも違うから!!」

 記憶を辿ったついでに何かのスイッチが入ってしまったのか、暴走機関車の如き勢いで清い男女交際の何たるかを滔々と語り始めた飯田くんを慌てて制止する。「交際している訳では?」「ないです」ともう色んな人相手にして回った否定を再度口にすると、彼はあっさりと納得してくれたようだった。
 これ、もし轟くんの方にも似たような質問が行ってたりしたら申し訳ないな。「は?」以外に言うこと無いだろうし――と、ちょっとした不安に襲われつつ息を吐いた所で、「だったら尚更宿泊なんてものは避けなくちゃならんだろう!」と危うく第二波が始まりかけてひやりとしたが、「ね!それより爆豪あいつ!どうしたらいいと思う!?」と必死に話を戻すと、飯田くんは指で顎をさすりながら真剣に考えてくれた。

「その場合、向こうが折れるまで辛抱強く話しかけ続けるか、ほとぼりが冷めて聞く耳持つ気になるのを待つしかないだろうな」
「まあそうなるよねえ……」
「急いては事を仕損じるというし、君も爆豪くんが絡むと冷静さを欠くきらいがあるだろ。ここは焦らず、一度落ち着いて待ってみてはどうだい」
「…………そんなに欠いてる?」
「さっきだってもの凄く渋い顔をしてたじゃないか」

 それを言われると何も反論できない――いや、そもそも認めざるを得ないことだ。爆豪あいつが絡むとひどい動揺や混乱に襲われてしまうのだと、ここ最近ずっと悩んでいたのは他でもないわたし自身なのだから。
 でも、飯田くんから見ても露骨に分かるほどに心乱されているのかと思うと、気まずいというか、恥ずかしいというか。そわそわと落ち着かない心をしかめっ面で誤魔化していると、飯田くんは道の先、家々の間に沈みゆく夕日を眺めながら穏やかに言った。

「だが、君はそれでいいんだと思う」
「……?」
「実を言うと俺は、保須での一件があるまで、君のことを誤解していたよ」
「というと……」
「君は取り立てて尖ったところのない、ごく普通に気の良い笑顔の女子だと思っていたんだが、実際は――言葉は悪いが、俺の想像を遥かに超えて我儘で、正直言って独り善がりな所があって、人の話をあまり聞かなくて、痩せ我慢しがちで短気で強引で、意地っ張りで無茶で無謀で……」
「――えっ、なんて?」

 突然飯田くんの口から飛び出してきた悪口の嵐に呆気に取られつつ、わたしは思わず口元を引きつらせながら聞き返してしまった。けれども、曰くわたしの本性らしいそれらを指折り数えて羅列した彼は、少しの悪意も見えない澄んだ目でわたしに笑いかける。

「だからきっと、渋い顔をしている時の君が――爆豪くんの前に立っている時の南北くんこそが、ある意味では本来の姿に近いのかもと思ってしまうんだ。……いや、これも俺の勝手な想像に過ぎないが」

 気を悪くしたならすまない、と飯田くんは唐突に神妙な顔で口を閉ざした。人について散々言っておきながら急に畏ったりする辺り、つくづく性根が真面目な人だ。顔色を伺うようにちらりとこちらへ目を向けた彼に、怒ってないよの意を込めて首を横に振る。

「……確かに、そうだったよ」

 思い浮かんだのは現在いまではなく、遠い遠い過去のこと。
 まだ幼かったあの頃、ただ一つ心の底から楽しいと思えていたのは、優しいおじさんとおばさんの眼差しを受けながら、あいつの側で笑っていられる時間だけだった。喧嘩もしたし、たくさん叱られたりもしたけれど、あの家にいる間のわたしは、他の何にも囚われることのない、紛れもなく本当のわたしだったのに。
 今日の出来事を鑑みるに、あいつにはそうは見えていなかったらしい。一度だって本当のわたしを見せたことなんかないのだと、そう思われているようだった。
 ――くそ。遺憾だ。

「――はぁぁぁ、何かまたむしゃくしゃしてきた……!飯田くん、コンビニ寄ろコンビニ!」
「なに?」
「もーやってらんない!甘いもの食べて発散する!」
「買い食いは行儀が悪いし、甘味の食べ過ぎは体に良くない!夕食も入らなくなってしまうぞ……!」
「あーあー知らない!わたしは我儘で人の話聞かなくて強引な女ですー!」

 最寄りのコンビニへ歩き出したわたしを真面目くさった顔で引き止めようとした飯田くんに向かって、意趣返しも込めて一息で喚く。彼は一瞬ぽかんと口を半開きにしたまま呆けた後、小さく声を上げて笑った。

「ははっ――仕方ない、乗りかかった船だ。今日だけは気が済むまで付き合おう!」

 何だかんだ乗ってくれた飯田くんと並んで、コンビニへ続く横断歩道をずんずん渡る。いつかきっと、このモヤモヤやむしゃくしゃも纏めて、余すところなく爆豪あいつに伝えてやるとして――今日のところは取り敢えず、親切な委員長のお言葉に甘えて思い切り発散してしまうとしよう。
 蟠る感情を努めて振り払おうとするわたしの思いとは裏腹に、いつの間にか西陽を隠すようにして厚い雨雲が屋根の合間から顔を覗かせている。黒ずんだその塊を見ていると、ますます胸の辺りが重苦しくなったような気がして――発散の瞬間まで堪えきれなかった憂鬱が、吐息になって初夏の曇り空に溶けていった。

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