(――とにかく仲直りすべきだと思うんだよ、おまえら!)

 とは言っても、だ。

「デクが最下位」
「デクが一番」

 ほんの偶然でぴたりと重なった声は、音数こそ同じだけれどまるで正反対の意味を持っていた。思わずぱっと振り返った先で、黒いマスクの向こうから覗く真っ赤な目がわずかに見開かれていく。ひえっ。気まずさやら何やらで、反射的に視線を逸らしてぎこちなく前に向き直ったのだけれど、予想していた舌打ちは意外にも聞こえて来なかった。何にせよ「あちゃー」とでも言いたげな上鳴の顔が視界の端に見えて、わたしの口元も渋く歪む。
 事はまさに今、職場体験明け最初のヒーロー基礎学、パイプまみれの工業地帯を模した運動場γで行われる、救助レースの一組目出発前に起こっている。
 担当教師のオールマイトを要救助者に見立て、救難信号を発した彼の元へより早く辿り着くのを目的とした演習授業。第一レースに指名されたデク、瀬呂くん、ミナちゃん、飯田くん、尾白くんの五人を除く面々はモニター前に立ったり座ったりしながら観戦の構えだった。
 そんな中、「トップ予想な!俺瀬呂が一位!」という切島くんの声を皮切りに、いや飯田が、いや尾白が、いやいや芦戸が、と各々が予想を繰り出し始めたので、何気なくその流れに乗ってみた結果がこれだ。まあどちらにせよ、“デクが一位”だなんて口にした時点で鬼のように睨まれることは決まっていたのだろうけれど、よりにもよってしっかりとハモってしまったのは非常に気まずい。
 デクが一番になるかも、と思ったのはもちろん本心だ。余裕が無くてきちんと見ていたわけではなかったけれど、“ヒーロー殺し”戦での彼の動きは過去のそれとまるで違った。淡い閃光を纏いながら、あちこち駆け回ったり壁を蹴って高所へ跳んだりしていたにも拘らず骨折も無かったようだし、あの動きがいつでもできるのなら十分勝ち目はある。
 が、本心だったとはいえ、わかっているのにわざわざ口に出さなくても良かったかな、と少しばかり後悔した。嫌な動悸が治まらない。

「……火照ちゃん、もしかして爆豪ちゃんと何かあったのかしら?」
「でも爆豪くん、都心の方で職場体験してたみたいだし、会う機会とかも無かったよね……?」
「うん、まあ……別に直接何かあったわけではないというか……」

 わたしを気遣うように、両隣に寄り添ってごく小さく問いかけてきたのは梅雨ちゃんとお茶子ちゃんだった。露骨に様子がおかしいわたしを心配してくれたのだろうけれど、何と説明していいのかもわからず曖昧な生返事になってしまう。何かあったわけではない。何かされたわけでもないし、向こうに変化があったわけでもない。わたしが勝手に混乱して、勝手にどうしていいのかわからなくなっているだけだ。
 頭の中でぐるぐると渦を巻き続けているのは、先日病院の休憩所でぽつりと零されたエンデヴァーの言葉。
 そして――夕暮れ時に響き渡る乾いた音の残響と、張り上げられた拒絶の言葉だった。









 あいつは、いじめっ子のガキ大将という言葉がぴったりの子供だった。
 腕っ節はもちろん、とにかく負けん気が強い。そんなに体が大きい訳でもないあいつが、幼い頃から年上相手にも負け知らずだったのは、生まれ持った喧嘩の才能もあったけれど――なによりたぶん、絶対に負けを認めず勝つまでやる・・・・・・男だったからだ。
 そのうえ頭も良いし、何をやっても完璧にできてしまうから、同い年の子達はみんなあいつを尊敬した。順調に助長された自尊心が大きく膨れ上がって、やがて他者を見下すようになったのは当然の帰結だとも思う。見下されるのはいい気分じゃなかったけれど、わたしだってあいつのことは凄いやつだと幼心に思っていたのを覚えている。
 そんなあいつと誰よりも多くの時間を共有していたのは――もちろん光己さんママ勝さんパパは抜きにしての話だけれど、多分わたしだった。自宅より先に爆豪家に帰って晩ご飯を頂くような、半分お隣さんの家の子と言っても過言じゃない生活を送っていたのだから、これもまた当然だ。
 顔を合わせれば喧嘩三昧で、火傷とは別の生傷が絶えない日々だったけれど、わたしとしては楽しい時間だった。向こうもそう思ってくれていたらいいなと、ほんの少しそんなことも思ったりしながら、来る日も来る日も、束の間の団欒に身を委ねていた。

 わたしにとっては、そのひと時が心の支えだったのだ。
 目の前で振るわれる暴力に怯えていた頃も。血を分けたクソ野郎ちちおやとの関係がすっかり焼け爛れて、体に傷を負うようになってからも。なんの血の繋がりもない夫妻から与えられた優しさと、一貫して傲慢で尊大で無遠慮ながらも、何だかんだと構ってくれる幼馴染の存在が、何よりわたしを安心させてくれた。その晩の地獄に耐えるだけの勇気をくれた。
 彼らのことが、大好きだった。

 ――それがどうしてあんなことになってしまったのか、実を言うと今でもよくわからない。
 小学三年生の夏、夕暮れ時の公園で勃発した、人生最大の大喧嘩。原因なんて全く思い出せなくて、もしかするといつものようにほんの些細なことが切っ掛けだったのかもしれなかった。ただ、頬を打った鋭い痛みと、焼けるような胸元の熱さを感じたとき――ああ、終わってしまったんだと、ぼんやり考えたのを覚えている。わたしの大好きだった温もりは、勇気の源は、きっともう手に入らない。予感にも似たそれを裏付けるのは、耳にこびり付いて離れない言葉の残響。

「――気持ちわるいんだよッ!」

 馬鹿、とか、弱いくせに、とか、そんないつもの罵り文句とは比べものにならないような、強い感情を孕んだ一言だった。
 いつからそんな風に思っていたんだろう。いいや――言わないだけでずっとそうだったのかもしれない。ずっとわたしのこと嫌いだったのかな。わからない。でもある意味納得だ。みんなを見下しているあいつが、わたしみたいな普通の“個性”しか無い女子を下に見て、軽蔑しないはずがないもの。
 それなりに衝撃ショックを受けてしまって、動揺してぐちゃぐちゃと取り留めのない思考を繰り返す頭の中を、不意に世界一大嫌いな男の顔が掠めていく。いつだったか、泣いているお母さんを安心させたくて「大丈夫」と笑ったわたしの襟首を掴んだあいつが、耳元でぼそりと吐き捨てた言葉。

(――泣きも喚きもしねェでへらへら笑いやがって、我が子ながら薄気味悪いガキだよ)

 うるさい。
 誰が。誰のせいで。

 目の前がちかちか点滅するような錯覚を覚えて、肉の痛みとは別に、燃えるような激情が胸の内を焼いた。顔を上げた先、目の前で吊り上っている瞳の赤が――いつもわたしのかわいい幼馴染をいたぶって笑う奴の目が、焼けた鉄の色と重なって。
 悲しみより、絶望より、憎しみがまさった。思いっ切り振りかぶった手は、相手の頬を打つ前に受け止められてしまったけれど、負けじと淡い色の髪を引っ掴むと、脛に容赦のない蹴りが飛んでくる。

 通り掛かったイズが泣きながら大人を呼んでくるまで、互いに碌な言葉も交わさないまま、揉みくちゃの殴り合いは続いた。
 突然現れた一人のヒーローが最低のクソ親父をひょいと締め上げて、わたしとお母さんを地獄の日々から解放してくれたのは――ちょうど、その晩のことだった。













「……ねえ、梅雨ちゃんはさ。友達と喧嘩したことってある?」

 授業(結局デクは途中で足を踏み外して残念な結果に終わってしまった)終わりの更衣室。いつものようにすっぽり被ったラップタオルの下でもぞもぞと衣類を脱ぎながら、隣で着替えている梅雨ちゃんにひっそりと声を掛ける。入学当時は「いや何それ!!」とミナちゃんや耳郎じろちゃんに激しく突っ込まれたものだが、最近ではもうすっかり慣れられてしまったようで、プールでひと泳ぎした後の小学生のような着替え風景を気にする人は皆無だった。
 ロッカー内の制服に手を伸ばしていた梅雨ちゃんは、「ケロ……」と口元に指を当て、記憶を手繰るように視線を斜め上へ持ち上げて言った。

「……ええ、そうね。あまり多くはないけれど、喧嘩したことはもちろんあるわ」
「だよねえ……」
「火照ちゃん、もしかして爆豪ちゃんと喧嘩してしまったの?」

 私、思ったことをなんでも言っちゃうの。と、梅雨ちゃんは首を傾げる。やっぱりお見通しか、と言葉を詰まらせたけれど、まさかその喧嘩が六年も前の出来事だとは流石の梅雨ちゃんでも思うまい。洗いざらい言ってしまうのも憚られるような気がして、どうしたものかと逡巡した後――結局わたしは、返事を曖昧にぼかしたまま、ふんわりと事情を話してみることを選んだ。“わかんねェなら相談しろよ”という、上鳴の言葉を思い出したからだった。

「いや――き、昨日観た……えっと、洋ドラの話なんだけどさ。主人公と何年も前に大喧嘩した友達が居てね」
「ケロ」
「殴り合いのひっどい喧嘩で、もう埋まらないような決定的な溝ができちゃって……その後一度も口利かずに別れちゃうの。でも実は、喧嘩したその日の夜に、喧嘩相手が主人公の大ピンチを救けてたんだよ。こっそりと」
「素敵な展開だわ」
「そ、そうかな……えっとそれで、主人公は何年も経ってからそのことを知っちゃって、未だに険悪な仲の相手とどんな風に接したらいいのか、すごく悩んでて……それで――、」

 話しながらちらりと梅雨ちゃんの顔を伺い見ると、円らな黒い瞳がじっとわたしの目を見据えていて、何もかも見透かされていそうなその深みに思わず息を呑んだ。ああ、我ながら下手っぴな嘘だなあ!それでも何とか話を結ぼうと、必死に脳みそを働かせて言い訳を絞り出す。

「来週どうなるんだろうって気になっちゃってさ!もし梅雨ちゃんが主人公なら、こんな時どんな風に考えるのかなって……」
「ケロ……そうね」

 梅雨ちゃんは、蛙っぽさの影響なのか、他の女子達に比べると表情の変化が乏しい。読み取れないという意味では顔が見えない葉隠ちゃんが圧倒的なはずなのだけれど、彼女は何故か感情表現が派手なので、それ以上に分かりにくい時さえあった。今こうして考える素振りを見せている姿からも、彼女がわたしの微妙な例え話をどう思っているのかはよく分からない。固唾を飲んで見守っていると、梅雨ちゃんはボディスーツのファスナーを下ろしながら言った。

「私、表情の変化がとても分かりにくいのよ」
「へ!?」
「自分で思っているよりずっと、考えや気持ちが顔に出ていないみたいなの」

 思考を読まれたような話の切り出し方にびくつくわたしを置いて、梅雨ちゃんは着々と着替えを進めながら話を続ける。確かに相変わらず表情は乏しいのだけれど、その声音はどこか柔らかな優しさを感じさせた。

「だから、たまに喧嘩をしてしまった時は、思っていることをそのまま話すわ」
「……思ってること?」
「そう。喧嘩の流れで酷いことを言ってしまったら、どうしてそんな気持ちになってしまったのか、今はどう思っているのか、これからどうしたいのか――お互いの気持ちをちゃんと伝え合うのよ。そうすると、表情が分からなくても、きちんと通じ合えるの」
「……、」
「だから、私が主人公ならきっとそうするわ。どう言っていいのかわからないこともあるかもしれないけど……でも、どんな場合でもきっと相手の気持ちを知りたいと思うし、教えて欲しいって直接伝えるはずよ」

 参考になったかしら、と首を傾げた梅雨ちゃんの顔は、微かに微笑んでいるようにも見えた。
 確かに――言われてみればそれは、表情が分かりにくい梅雨ちゃんみたいな子じゃなくたって、人付き合いにおける基本中の基本だ。自分の気持ちを伝えて、相手の気持ちを知る。違う人間同士である以上、互いを理解するにはそれしかない。
 ただ、言葉にすると簡単なように聞こえるそれが、意外と難しくなってしまう時もある。ちょうど少し前、これから自分がどうしたいのかいまいちよくわかっていなかったわたしのような奴がそれだ。でも、梅雨ちゃんの言葉の中で、すとんと落ちてきたものが一つある。

 “相手の気持ちを知りたい”。
 たぶん――たぶんだけれど、今のわたしが心の奥底で望んでいることの一つは、それだ。

 わたしのことを“気持ち悪い”と吐き捨てたあいつが、そもそもわたしの父親のことなんて何も知らなかったはずのあいつが、ちょうどその晩、どうやらわたしの救けになるような何かをしていたらしいという事実。めちゃくちゃに混乱したり動揺したりしてしまうのは、わからないからだ。どうしてそんなことをしたのか、今のあいつはどんな気持ちでわたしを睨んだり罵ったりしているのか――“心底嫌悪されているから”の一言で納得できてしまっていたそれが、突然根元から揺らいで分からなくなったから。
 解消するには知るしかない。あいつが今何を思っているのか――そして、あの日何を思っていたのかを。
 少しだけ心の靄が晴れたような気がする。轟くんに昔の話をした時も思ったけれど、誰かに悩みを聞いてもらうのって、案外悪くないもんだなあ。頬を緩めながら、梅雨ちゃんに向かって「ありが……」と口を開きかけた、その時だった。

「――オイラのリトルミネタはもう立派なバンザイ行為なんだよォォ!!」

 近くの壁向こうから耳を疑うようなフレーズが聞こえたような気がして、思わず身を強張らせた。抑え気味ではあったが間違いなく峰田くんの声だ。同じくその音を拾ったのか、耳郎じろちゃんが眉根を寄せながら自分の側の壁にジャックを伸ばして聞き耳を立てる。

「八百万のヤオヨロッパイ!!芦戸の腰つき!!南北のむっちり太もも!!葉隠の浮かぶ下着!!麗日のうららかボディに蛙吹の意外おっぱァアアア」

 立て続けに聞こえてきたギリギリアウトの言葉の羅列はやはり峰田くんのものだ。他にこんな内容を白昼堂々発声する奴なんか居ない。はっとして視線を巡らせた先、ちょうどボディスーツを下ろして下着姿のままだった梅雨ちゃんの正面に、小さく口を開けた壁穴が見える。
 マジか。アホか。「耳郎じろちゃんそこ!」と指差しながら、咄嗟にタオルに包まれた格好のまま梅雨ちゃんを庇うように滑り込むと、盛り上がっていた峰田くんの声が「アアアァァ……アァ?」と訝しげに上がった後、惨めな断末魔が壁の向こうに響き渡った。

「ありがと響香ちゃん、火照ちゃん」
「なんて卑劣……!!すぐに塞いでしまいましょう!!」

 何故か微妙に沈んだ顔の耳郎じろちゃんが、穴に挿していたジャックを引き抜いて無言で下がる。向こう側から覗こうとしていた峰田くんは、彼女の心音の餌食になったようだった。同情の念はさっぱり湧かない。
 ぷりぷり怒る八百万やおちゃんが“創造”で穴を塞ぐ間にみんなでそそくさと着替えを済ませたのだけれど、空気がぴりついていて何となく落ち着かないひと時だった。いつもより手早く制服を着込んだみんなと一緒に廊下に出ると、まだ男子更衣室の方から揉めるような話し声がほんのり聞こえてくる。普段は当然男子の方が早く着替え終わって教室の方に歩いていくのが見えるのに、珍しいこともあったものだ。

「峰田くんへの制裁かな」
「あいつは何言っても無駄そうだけど!」
「少しは悔いて欲しいよね!」

 怒り心頭のミナちゃんと葉隠ちゃんに挟まれて廊下を歩く。ああ、せっかく梅雨ちゃんと話してちょっぴり晴れやかな気持ちになってたっていうのに、色々と吹き飛んでしまった。ほんと最低だな、峰田くん……男子更衣室のドアノブを睨みつけてから、怒りのせいかいつもより早足で歩いて行ってしまう女子たちの後を、わたしも慌てて追いかけた。
















「何なんだよアレはよォ!!」

 耳郎のジャックで目を突き刺されたうえ、思い切り心音を流し込まれた筈の峰田の復活は思いの外早かった。丈夫な奴だなと、我関せずで着替えていた轟は淡白な感想を抱く。少し前まで壁の下で痙攣していた峰田は、がばりと起き上がるなり盛大に不満の声を上げた。

「アホか!?チアの時も思ったけど南北はアホなのか!?ホントに花の女子高生なのかァ!?」
「もうお前黙って着替えとけよ」
「いい加減にした方がいいぞ……」
「つか何、南北見えたの?マジ?」

 呆れ顔の瀬呂と砂藤がシャツを羽織りながら窘めたが、そこにひょいと軽い調子で乗っかったのは上鳴だった。女好きとはいえ、少なくとも峰田ほど明け透けには見えない彼だったが、こうも騒ぎ立てられると気になってしまったらしい。僅かに高揚した面持ちで顔を出した上鳴の言葉を聞いた峰田は、待ってましたと言わんばかりに両手を振り回して怒りを爆発させた。

「あいつ女子更衣室でタオル巻いてたぞ!!オイラも小学生の頃は市民プールで使ってました〜みたいなヤツ!!何でだよ!!意味わかんねーよォ!!」
「……ああ」

 ぽろ、と声が漏れたのは納得したからだった。轟の脳裏にいつか暗がりで見かけた傷跡の数々が浮かぶ。峰田の言う通り、体育祭のチア衣装も一人だけ頑なに拒んでいたようだし、本人が隠したがっているのも知っていた。女子の着替え事情を詮索するような趣味はないので考えたこともなかったが、どうやら更衣室でも上手く隠してやっているらしい。
 あたかも着替えの様子を見たことがあるかのような(無論見たことがあるわけではない)そのさまに、周囲の「えっ」とでも言いたげな視線が一斉に集まったのだが、当の轟は一人で得心してしまったので、それにも気付かぬままネクタイを結び始める。その赤い布が、突然強い力でぐいと横に引かれた。不意の衝撃によろめいた轟が顔を上げると、掴み上げられた布地に負けず劣らず鮮烈な赤を宿した目が、不快を露わにして彼を睨みつけていた。

「てめェ、知ってんのか」

 低く唸るような問いだった。自分相手に怒鳴り散らして来ないのは珍しい――などと考えながらも、轟は僅かに眉を寄せて、引かれたままのネクタイを引っ張り返す。乱暴に首の向きを変えられて平然としていられるほど温厚なたちではない。拮抗した状態で自然と睨み合う形になると、爆豪は無言を肯定と取ったのか、益々苛立ちを深めながら手元に力を込めた。

「なんで舐めプ野郎なんぞが知ってんだ」

 何のことを指しているのかはすぐに分かった。恐らく彼女が隠している傷の話だけではない。“誰にも言ったことがない”と前置きして語られた筈の過去を、どういうわけか目の前の少年も知っているらしかった。彼らが幼馴染だという情報以外何も知らない轟は、素直にそれを口にする。

「教えられたから知ってるだけだ。……俺からすりゃ、おまえが知ってることの方が不思議なんだけどな」
「あァ……!?」
「ちょっ……急にどうしたおめェら!落ち着けって!」
「うるせェ!!黙ってろ切島ァ!!」

 轟の対応まで喧嘩腰に見えたらしい切島が止めに入ったが、並々ならぬ形相の爆豪に一喝されて僅かにたじろぐ。声もなく怯んだ口田の横で、脱ぎかけのコスチュームを掴んだままの障子と青山が「これは……もしやあれか」「……修羅場☆」などと呟いた。相対する本人たちの認識とは微妙に違う形でその場を解釈した面々は、気圧され半分、興味半分で揉め事の行方を見守ろうとする。そんな中、一人だけ――制服のシャツの袖に腕を突っ込んだまま固まっていた緑谷が、緊張に強張った喉をごくりと鳴らしてから、意を決したように声を発した。

「と――友達だから、だろ」
「……緑谷?」
「ぼ、僕には事情とかよくわかんないし、ただの推測なんだけど……ほたるちゃんが轟くんを……友達を頼って何かを打ち明けたってことなんじゃないのかな。それってそんなにいけないこ」

 緑谷が言い切る前に、轟のネクタイをきつく掴んでいた手が驚くほどあっさりと離れていった。次いで響き渡った派手な音。言葉を切って呆然と竦んだ緑谷の顔の横、ちょうど真後ろにあったロッカーの扉に、一瞬で歩み寄った爆豪の拳が叩き込まれた音だった。痛そうだな。誰もが唖然として見守る中、やや場違いな感想を抱きながら、轟は緩んでしまったネクタイを結び直す。

「知らねェなら黙っとけや……なァ、デク・・よぉ」

 固まったまま冷や汗を流す緑谷をきつく睨み据えて、爆豪は再度唸った。

「何があったか知らねェが、お人形・・・は卒業か?だから何だってんだ……あんま調子乗ってっとブッ殺すぞ」
「――っき、君がそんな調子だから、いつまで経ってもほたるちゃんと仲直りできないんじゃないか……!」
「あァ!?誰が――」
「――いい加減にしたまえ!何だかよく分からないが、こんな所で突然喧嘩を始めるんじゃない!」
「そうだぜ爆豪、落ち着けって!アレだ、モタモタしてっと次の授業間に合わねェぞ!」

 爆豪が緑谷に掴みかかろうとした所で、耐えかねた飯田と切島が間に割って入る。引き剥がされた爆豪は盛大な舌打ちを溢すと、ベンチに置かれていた自分のジャケットを引っ掴み、更衣室のドアを乱暴に開け放った。そのまま振り返らず立ち去る彼の背を「おい!?」と引き留めながら、切島も慌てて着替えを済ませて追い掛ける。二人が消えた後の更衣室は暫し沈黙に包まれていたが、やがて上鳴が詰まらせていた息を解き放った音が静寂を破った。

「ぷはッ――何だ今の!修羅場か!?つか轟やっぱおめェそういう感じ!?」
「そういう感じって……どういう感じだ」
「南北のこと好きなん!?」
「は?」
「よく今の流れでそんな茶々入れられるよなぁ……爆豪、凄い剣幕だったのに」
「軋轢」

 今ひとつ噛み合わない上鳴と轟のやり取りに呆れ顔の尾白が口を挟み、常闇も制服のネクタイを手に取りながら呟いた。
 まるで当事者のように扱われているが、爆豪が何故突然激昂したのか、そもそも彼と話題に上った彼女の関係さえ殆ど知らない轟は、どちらかといえば話に置いていかれた側だ。釈然としない様子の上鳴から視線を逸らし、何か訳を知っていそうな緑谷の方へ向き直って、難しい顔をしたまま着替えを進めている彼の肩を叩く。

「喧嘩なんかしてたのか、あいつら」
「え?」
「仲直りがどうとか言ってただろ」
「うん、まあ……何年も前の話なんだけどね。お互い謝ってないし、いまだにちょっとギクシャクしてるみたいで……」
「……もしかして俺ら、爆豪と南北の痴話喧嘩のとばっちり食らっただけなんじゃねェの?」

 瀬呂は冗談めかして笑ったが、気まずそうに押し黙った緑谷の顔には“あながち間違いでもない”と書いてあるようにも見える。彼女の方は緑谷ばかり気にしているような印象があったが、意外にも強い因縁は爆豪の方にあったらしい――或いはそれこそが、自分が知らされるまでに至れなかった彼女の傷のひとつなのだろうかと、轟は思った。
 彼女が自分の過去を明かしたのは、どこか似た境遇を持つ轟が問うたから、きっとただそれだけのことだ。何よりあの時、父親との確執を断固として持ち続けていた轟とは違って、彼女はもう間もなく過去を振り切ろうとしている所だった。幼い日に受けた酷い仕打ちの数々を割り切り、ずっと見据えていた“なりたいもの”の姿に向かって歩き出そうとしている――少なくとも、轟にはそう見えていた。
 言うなれば、塞がって久しい古傷を見せてもらっただけ。だからこそ、幼馴染の彼とは訳が違う筈だろうと思う。彼女が受けた仕打ちを既に知っているというのなら尚更、轟が昔話を聞かされたからといって、あんな風に妬みにも似た怒りをぶつけられなければならない謂れはない。
 彼女が痛みの最中さなかにあったまさにその時、彼は側にいて、同じ生きた時の流れの中を過ごしていた筈なのだから――そこまで考えて、轟はふと思い至った。……ああ、

「だからか」
「……どうかした?」
「いや……あいつ、おまえと違ってお節介焼くタイプじゃねえからな」

 首を傾げる緑谷の横で、轟はまた一人納得する。目の前の緑谷は、轟が抱え込んだものをほじくり出してでも救けようとしてくるような、典型的なお節介焼き人間だが――爆豪は違う。対緑谷となれば例外かもしれないが、基本矢鱈に他人へ干渉するような真似はしない。それに、今でも妙に意地っ張りで無理をしがちな彼女が、当時家の外でどんな風に振る舞っていたかも想像に難くなかった。片や無闇に他を侵さず、片や滅多に自を見せない幼馴染同士。

 もしかすると――何も聞かされなかった・・・・・・・・・・ことこそが、同じ時の中を過ごしていた筈の彼の自尊心に、一際大きな傷を残していったのかもしれない。

「……なあなあ轟、さっきの知ってるとか知らねェとかって何の話?」
「南北のプライバシーだ、あんま詮索すんな。どうしても知りてえなら本人に聞け」
「ちぇ」

 先程から何かと食いついてくる上鳴をいなし、ジャケットの袖に腕を通しながら、轟はつい先程の授業、第一レース開始前の出来事を思い出していた。
 気まずそうに前を向いた南北の後ろで、心底驚いたように目を丸くして立ち尽くしていた爆豪。彼と緑谷との間にある確執は周知の事実だが、緑谷と南北の間にもまた何かの変化があったことを、轟と飯田は知っている。それこそ自分とて、そんな幼馴染同士の込み入った事情に好き好んで首を突っ込むようなお節介焼きではない訳だが――ひとつ溝が埋まった結果別の溝が深まっている現状が少しばかり気の毒に思えて、轟は緑谷の背に向かって小さく呟いた。

「……頑張れよ」
「……?うん?」

 いつものように不器用な手つきでネクタイを結びながら、轟の心中を知る由もない緑谷は、不思議そうに目を瞬かせるばかりだった。

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