「……大丈夫かい?」
「……だ、大丈夫です……わたしパトロール好きです」

 筋肉痛と打撲でぼろぼろの手足を引き摺りながら呟くわたしを、フライさんが苦笑いしながら見守ってくれている。
 時刻は夕方、場所は保須の街中。職場体験はあっという間に三日目に突入していた。ほぼ毎日、午前中は事務仕事見学や雑務のお手伝い、休憩を挟んでからトレーニング――という名の割と過酷な組手を終え、夕日が沈む前にパトロールに出発というのが一連の流れになっていて、出動要請がない日のフライさんも実際にこういうスケジュールで働いているらしい。

 それは良いのだけれど、問題はトレーニングの厳しさだ。現役で街を警護しているプロヒーローが相手なのだから当たり前なのかもしれないけれど、学校での訓練より数段キツく感じてしまう。優しそうな見た目に反して思いのほかスパルタなフライさんに言わせれば「今まで基礎的なトレーニングを怠ってきたツケだね」ということらしかった。ぐうの音も出ない。もっと早く筋トレ頑張っておけばよかった。お陰で毎日酷使された筋肉が悲鳴を上げっぱなしで、トレーニングが終わるとしばらくの間足やら腕やらがぷるぷる震えて動けない。
 近頃の保須市は“ヒーロー殺し”の出現に伴う厳戒態勢が敷かれていて、逆に言えばヴィランが出にくい平和な状況なものだから、わたしにとっては平穏無事なパトロールの時間がちょっとした癒しになっている有様だ。

「すまないね。フレッシュな学生相手に指導する機会なんてあまり無いもんだから、つい熱が入ってしまっていけないな」
「いえ!凄く勉強になってます、ほんと!今日は特に何か掴めた気がしてて……!」
「そうか、なら良かった。さて、今日も何事も無いと良いんだが――」

 言いながら、フライさんがすっかり暗くなってきた通りを見回す。前述の通り街の警護はかなり厳しい体制で行われていて、すれ違う通行人の中にも頻繁にヒーローの姿が見え隠れしていた。“ヒーロー殺し”の被害者は大抵人気の無い路地に一人で打ち捨てられているところを発見されるのだという。こうしてヒーロー達の巡回範囲を敢えて少し重ねることで、街の護りを厳重にすると共に、単独で襲撃される事態を避けようという試みを兼ねているのだそうだ。

「お――マニュアル!」

 フライさんが片手を上げながら口にした名前に心臓がどきりと跳ねて、疲れ切ってしょぼついていた目が一気に覚める。顔を上げると、ちょうど道の反対側から、魚のヒレのようなデザインのメットを被った優しそうなヒーローが歩いてくる所だった。

「ああ、ザ・フライ!何か久しぶりだなぁ、こうしてパトロール中に出くわすの」
「普段は飛んでいることが多いからな……おや、そちらが君のところの?」
「ああ、そうそう――天哉くん、紹介するよ。この人、近くに事務所を構えてるザ・フライ」

 マニュアルさんの後ろから現れた白い鎧が、フライさんに向かって礼儀正しく頭を下げる。天哉――飯田くんの下の名前、兼ヒーローネームだ。同じようにマニュアルさんへ紹介されたわたしが頭を下げる様子を、彼は一言も発さないまま見ていた……普段の飯田くんだったら気さくに声を掛けてきてくれただろうに。いよいよ本格的に心配になって彼の顔を伺ってみたけれど、フルフェイスの兜に包まれた頭からは何の感情も読み取れない。
 “互いの経験を吸収”という相澤先生の言葉をそのまま口実にして、ここ数日寝る前には必ず飯田くんにメッセージを送っていたのだけれど、悲しいことに毎日既読無視。朝になってから「すまない、疲れて眠ってしまっていた」と簡潔な返事が来るだけで、会話は続かない。いつもの飯田くんなら必ずその日のうちに返信をくれるし、寝てしまったとしても逆にこちらが申し訳ない気分になるほど謝り倒してきそうなものなのだけれど。

「マグネッツちゃんね。いやー、保須に雄英生が二人も居るのって何かアレだな。新鮮だな!」
「この辺りには大手が無いからな。ただまあ、今年は生徒の指名自体が偏ってたとかで――」

 他愛ない世間話を始めた二人を横目に、そろりと飯田くんの方へ寄る。彼はその場に立ったまま、近くに見える路地裏をきょろきょろと見回すばかりで、わたしの方を見もしない。或いはしつこく連絡を取って来るわたしに対して、後ろめたさだとか気まずさだとか、そういったものを感じていたりしてのこの態度だろうか。薄々拒絶されているような気はするけれど、諦めずにそっと声を掛けてみる。

「どう、そっちの事務所。上手くやってる?」
「……ああ、問題ない。昨日は返信できずに申し訳なかった」
「ううん、それはいいんだけどさ……」
「――ああ、やばいやばい。そろそろ行こうか、天哉くん」

 淡々とした声音で謝る彼にわたしが話を切り出そうとしたその時、慌てた様子のマニュアルさんが駆け寄ってきた。彼はぎょっとして口籠るわたしと相変わらず路地裏の様子を伺っている飯田くんを見比べて、少し困ったような、憂いを帯びたような微笑を浮かべる。

「話し中に悪いね。でもそろそろ行かないと、お互いに担当区域全部回れなくなっちゃうよ」
「あっ、いえ……こちらこそすみません、仕事中なのに」
「うん――さあ、今度は天哉くんに先行して貰おうか!そろそろ保須にも慣れてきた頃だろ?」
「……はい」

 促された飯田くんが静かに頷いて、白い装甲姿が黙々と歩き出す。みるみるうちに遠ざかっていくその背を不安な気持ちで見送っていたわたしの肩を、同じく歩き出したマニュアルさんの手が優しく叩いた。

「天哉くんのことは見ておくから。君も職場体験、しっかり頑張って」
「あ……、」
「――マグネッツくん、我々も行こう。パトロールは日が落ちてからが本番だ」

 颯爽と去る背中を呆然と見守るわたしの肩を今度はフライさんが軽く叩いて、後ろ髪を引かれる思いで踵を返す。何だか無性に悔しかった。
 何かしたい、何かしようとあんなに強く思っていたはずなのに、結局わたしは何も出来てないじゃないか。いつも元気で溌剌としていた筈の飯田くんの声が、今は恐ろしく冷淡で無感動だった。様子がおかしいのは明らかなのに、今こうして近くにいるのはわたしなのに、彼が抱えている重荷に爪の先を触れることさえ許してもらえない。一体どうすればいいんだろう。どうすれば――。

「――!何だ!?」

 ぐるぐる悩みながら足を進めていたわたしの耳に、大きな爆発音とフライさんの声が飛び込んできた。慌てて顔を上げて振り向くと、ここからそう遠くない位置でもうもうと立ち上る煙と炎が目に入る。周囲の通行人たちもどよめきながら黒煙を見上げ、中にはスマホで動画を撮っている人もちらほら見受けられた。フライさんが険しい顔でわたしの方を振り返る。

「どうやら事件のようだ――急行するぞ、行けるな!?」
「はい!」

 走り出したフライさんを追ってわたしも地面を蹴った。往来は俄かに混乱に包まれて、爆発元の方角から走って逃げて来る人の姿もある。大勢のヒーローが警戒に当たっている今の保須で事件が起こるなんて。疑問は湧くけれど、人為的にせよ事故にせよあの規模の爆発なら怪我人もいるだろう。初めて肌で経験する本職ヒーローの仕事――絶対貴重な経験になるはずだ。
 微かな緊張と高揚を覚えながら走るわたし達の前方に、先程すれ違う形で別れたマニュアルさんの後ろ姿が見える。彼も爆発音を聞きつけて慌てて走り出したようだった……が、何だろう。
 何か。何か、強烈な違和感が――、

「――、」

 思わず息を飲んだ。
 人混みの中でも一際よく目立つはずの、飯田くんの白アーマー姿がどこにもない。

「(走って先行したのかも……いやでも、ヴィランがいるかも知れない事件現場に、マニュアルさんが一人で行かせたりするわけ――)」

 内心酷く焦りながら走る最中、不意に歩道脇に点在するか細い路地の存在が視界の隅にちらつく。そうだ、飯田くんはずっと路地裏を見つめていた。ひたすら注意深く、じっと何かを探すように。身体中に嫌な汗が浮かぶのを感じた。まさか、そんな訳がない。目の前で謎の爆発事件が起こってしまったこのタイミングで、そんな訳が。
 足はフライさんの後を必死に追いかけながら、左手に見える細い路地達を祈るような思いで盗み見る。いない。いない、いない。そうして四本目の細い路地の横を通りがかったその時。

 一人薄暗い路地裏の闇の中へ消えていく、白い鎧の姿を――この目に捉えてしまった。

「――っ、フライさん!!」

 ブレーキを踏みながら叫んだのだけれど、逃げ惑う人々の声に紛れて彼の耳には届かなかったようだった。当然、更にその先を行くマニュアルさんにも聞こえている筈がない。わたしだけだ。わたしだけが、独り離れていく彼の姿に気付いてしまった。
 迷わなかった訳ではない。どんどん先へ走って行ってしまうフライさんの後ろ姿と、もう誰の姿も見えなくなってしまった路地裏の暗がりを見比べて、思わずその場に立ち止まった。どんな事情があれど、この非常時に職場体験先のヒーローの元から勝手に離れるなんて、後でこってり叱られてしまうに決まっている。

 でも、行かなきゃ。

 “見てる”って、約束したんだ。引き止めるって決めたんだ。
 「ごめんなさい」と呟いて爪先をくるりと回し、真っ暗な小路の中へ足を踏み入れる。程なくしてわたしは知った。飯田くんがどうしてこの仄暗い道の中に飛び込んで行ったのか。彼の燻んだ両の瞳が、その時何を捉えていたのかを。




















 足元で喚く子供を見下ろしながら、“ヒーロー殺しステイン”は溜息を吐いた。最初はなから期待していた訳ではなかったが、こうも予想通りの愚言を並べ立てられると辟易してしまう。

「何を言ったってお前は――兄を傷つけた犯罪者だ!!」

 泣きながら宣うその少年は、少し前にステインが手にかけたヒーロー――インゲニウムの弟なのだという。が、彼に憧れてヒーローを志したというこの少年は、私怨に囚われヒーローの本分を忘れ去っていた。贋物にせものだ。このような輩がヒーローの在りようを歪め腐らせる。その前に粛清し、正さねばならない。
 血だらけで足蹴にされている少年は既にステインの“個性”で身動ぐことさえ叶わず、ただ激情に振り回された戯言を喉から迸らせることしかできないまな板の上の鯉。――さて、仕事を済ますとしよう。少年の腕から引き抜いた刃毀れだらけの刀を持ち上げた。
 ――その時。

「――その足、どけろッ!」

 少女の声がした。同時に遠く、路地の向こうの暗がりで何か赤い光が爆ぜる。ステインがそちらに目をやると、ヒーロースーツに身を包んだ少女が一人、弾丸のように一直線の軌道で突っ込んでくる所だった。

「遅い」

 一般的には速い部類だろうが、それでもまだステインには及ばない。おまけにわざわざ張り上げた声がその存在を簡単に気取らせた。無造作にぶら下げていた片手で背中側に差したナイフを引き抜き、容易く迎撃する――はずだった・・・・・
 少女が微かに強張った顔でにやりと笑って、その手に持っていた細長い物――路地裏に転がっていた古臭い竹箒の柄を横薙ぎに振るう。すると少女の腹目掛けて突き出していたはずのナイフの軌道が、見えない何かに吸い寄せられるようにくんと曲がって阻まれた。予想外の出来事に緩んだステインの手からナイフが離れ、その刃を吸付けた竹が微かに赤く光る。

「どけろって――言ってんでしょ!!」

 吠えながら、少女はそのまま箒の柄の先をステインの鳩尾に叩き込む。それ自体は大した威力では無いが、隙を生じさせるには十分だった。ステインが息を詰まらせた一瞬の間隙を突いて、少女の右掌が血色の悪い頬を思い切り打つ。乾いた気持ちいい音が響くのと同時に、ステインの体に赤色の光が走り――次の瞬間、少女と彼の間に強い“反発”が生じて、

「ぐっ――!?」
「――っう!」

 宙を舞って後方へ吹き飛んだステインは空中で素早く体を捻り、少年から数メートル程離れた位置に降り立つ。逆に少女の方は派手によろめいて倒れ、半ば地面に体を擦り付ける形で少年のすぐ側にその体を投げ出した。
 少年――飯田は、自分の傍に勢いよく倒れこんできた少女の姿に目を疑った。ここ最近、恐らく優しさ故に気を遣ってよく連絡を寄越してきていた少女。“関わるな”と、暗に冷たく突き放したはずの同級生が、何故か今自分の横で、武器と呼ぶには余りに頼りない竹箒を手に戦おうとしている。擦りむいた膝を軽く払いながら立ち上がる彼女に、飯田は震える声を絞り出して言った。

「何、してるんだ……まさか僕を追ってきたのか……!?」
「飯田くん、今走れる?」
「い、いや……斬り付けられてから体が動かない。恐らく奴の“個性”で――」
「そっか。ごめん、ちょっと借りるよ」

 飯田の言葉に耳を貸す気は無いとでも言わんばかりに、少女は目の前のヴィランを睨みつけたまま振り返らずに短く問うた。首を振ることさえままならない飯田が狼狽えながら答えると、少女は――南北は突然、倒れて動けない飯田の片腕を軽く持ち上げ、真っ白な装甲を外して手に取った。呆気に取られる同級生の視線を背中に受けながら、苦い顔で辺りを見回す。
 血だらけで地に伏す同級生と、彼を踏みつけながら刀を持ち上げる“ヒーロー殺し”の姿を見て思わず飛び出してしまったが、当然状況はよろしくない。飯田は動けず、通路の奥にはもう一人、手負いのプロヒーローらしき人物が力なく座り込んでいるのが見えた。恐らく彼も“ヒーロー殺し”にやられたのだろう。
 守らなければならない怪我人が二人、黙って追ってきてしまった以上応援も望めず、相手は過去幾人ものプロヒーローを葬ってきた手練れの犯罪者――自分が相手取るにはあまりに荷が重いということは、重々理解していた。

「また、子供……何をしにきた。そいつは私欲に呑まれ、ヒーローの誇りを失った贋物にせものだ。粛清を邪魔立てするなら容赦はしない」
「……体の力抜く……ふくらはぎだけ溜めて……意識は手に――」

 刀の先を向けながらステインが問うたが、少女は白いアーマーを自分の腕に嵌め込みながら、何やら独り言をぶつぶつと呟くばかり――会話に応じるつもりは無いらしい。またか・・・。ステインは閉口した。語り合う気がないのならば、言葉を交わす価値もない。
 さっさと始末をつけるべくステインが地面を蹴って飛びかかると、南北は緊張した面持ちでそれを迎え撃った。今日の午後のトレーニングの内容を何度も頭で反芻する。

(――しかし驚いた。本当に凄い動体視力だな、反射神経も悪くない)

 三日間訓練を共にしたザ・フライ。手合わせの中で南北の持つ潜在的な能力をしっかりと汲み取ってくれた。攻撃が見えているのに、対応するだけの反射神経も備わっているはずなのに、どうしても動けないのだと漏らした南北に、彼が掛けた言葉。

(避けられないのなら――受けるのはどうだい?先ずは余計な力を抜いて、必要な部位にだけ意識を集中させるといい)

 ステインは刀を手に勢いよく詰め寄ったが、ぎりぎり少女が間合いに入るかどうかの所で、突如見えない弾力の壁に阻まれるような感覚を覚えた。あと一歩踏み出そうとする足が何かに強く弾かれる。少女の体と自分の間に迸る赤い閃光に気付いて、先程も同じ光を切っ掛けとして謎の力に思い切り吹き飛ばされたことを思い出した。
 そういう“個性”か――だが、全く近寄れないという訳ではない。勢いをつけて飛び込めば、弾き返される前に間合いには入る。
 一歩退き、改めてしっかりと地面を蹴り出して迫ってきたステインに向かって、少女は先程と同じようにナイフが張り付いたままの竹箒を振った。再度武器を吸付けて奪おうという算段かもしれないが――甘い。くい、と剣先を吸い寄せる力に抗わず、ステインは刃毀れだらけの刀を素早く横に凪いだ。古びた竹の柄はあっさりと両断され、目を見開いた少女の体目掛けて、即座に切り返した刃が逆袈裟に襲いかかる。
 ――が、

「――っ!」
「――ほぅ、反応するか!」

 少女は自分の腕を出して刀を受け止めた。少年の腕から拝借した軽く硬い鎧が、毀れてはいるがよく斬れるその刃を辛くも防ぐ。思わずにたりと笑ったステインは、そこで異変に気付いた。少女が刀を振り払うように腕を開くと、刃がそれにつられてぐいと動く。箒だけではない。少女の体にも、触れた刃物が吸いつけられて離れない。

「(やった――やった、受けれた!!)」

 内心飛び跳ねて喜びながら、一瞬生じた隙を見逃さず、南北は素早く身を屈めて地面に触れようとした。素早い相手ではあるが、反発を活かしてギリギリの間合いを保ちつつ、隙を見て地面に縫い付けてしまえば勝機はある――が、一瞬の隙を二度も突かせてくれるほど、“ヒーロー殺し”も甘くはない。屈み込んだ南北の腹に力強く振り上げられた鉄の靴がめり込み、爪先の鋭利な棘が柔らかな腹の皮膚を破った。

「――あ゛ぁっ!!」

 悲鳴を上げながら、反発も相まって大分後方へ飛んでいく少女を一瞥し、ステインは靴先を拭った指を口に含んだ。瞬間南北の体を悪寒のようなものが襲い、仰向けに転がされた体がぴくりとも動かなくなってしまう。唯一動かせる目を大きく見開いたまま、全身に噴き出す冷たい汗を感じて固まる少女を見下ろして、ステインはぽつりと漏らした。

「悪くはない――が、弱過ぎる。おまえはまだ口先・・の域を出ないな」
「……っ、げほッ」
「――やめろ……!彼女を……彼女をそれ以上傷付けるな!」

 いまだ力なく地面に伏せたままの飯田が、少女の元へ静かに歩み寄るステインに向けて絞り出すように言った。動かない手足がぶるぶると震える。善意から自分を追ってきた少女が、自分たちを守るためただ一人殺人者に立ち向かい、すぐそこで血を流しながら咳き込んでいる。何もかもが耐え難かった。
 全部余計なお世話・・・・・・なのだ。頼んでもいないし、これは己が果たさねばならない使命だと感じたからこそ一人で奴を追ったというのに。そんな自分をわざわざ追ってきて傷付いた彼女も、躊躇いもなく彼女をも斬って捨てようとする兄のかたきも、何一つ成せないまま無様に這いつくばっている自分自身も、何もかもが耐え難くて、許せない。
 涙を流しながら睨み上げる飯田の顔を、ステインは冷ややかな目で見下ろした。

「知己が傷付いた途端にそれか。あそこで死にかけているヒーローには目もくれなかった男が」
「……っ!!」
「悔いるがいい、インゲニウム・・・・・・。私怨で動いたおまえを救けに来たがために、この小娘は死ぬ」
「くそ、やめろ……やめろ!」
「おまえの愚かさがこいつを殺――」

 その時、俯せる少年を見下ろし淡々と事実を突きつけようとしたステインの横っ腹に、何か大きなものが勢いよくぶつかった。本当に全く予期しなかった襲撃と、身に受けた衝撃の強さ以上に大きく吹き飛ぶ体。すぐにあの少女の仕業だとわかったが――おかしい。
 息を詰まらせながらステインが見下ろした先、脇腹に頭突きする形で突っ込んで来ているのは紛れもなく少女の体。だが、少女の血液型が何だったとしても、先程血を舐め取られたばかりの彼女が動けるはずがないのだ。イレギュラーに動揺しつつ、ステインは受け身を取ってすぐさま追撃に備えようとした――が、そこで気付いた。

「(違う――こいつはまだ動けない・・・・)」

 頭突きでステインを吹き飛ばした少女の体は、ぴくりとも動かないままどさりと地面に落下し、うつ伏せになった彼女の喉から「うぐ」と潰れたような声が漏れる。まだ“個性”が効いているのは明らかだった。
 目の前で起こったその事態を、飯田はその両目でしっかりと捉えていた。動けないまま仰向けに転がっていたはずの南北が、床に赤い光が迸るのと同時に吹き飛んだ。彼女の“個性”を知っている飯田は、彼女が何をしたのかすぐに理解できた。
 指一本たりとて動かせないその状況で、彼女は地面についていた右掌を使った・・・のだ。自由の効かない己の体を弾にして、“ヒーロー殺し”に向かって撃ち出すために。

「な……っ、なんてことを……!」
「……っ、飯田くんはちょっと、黙ってて。文句なら……、救け終わってから聞くからさ……」
「っふざけるな!君がそこまでする義理は――」
「――何がおまえをそこまで突き動かす?」

 会話を遮り、ステインは静かに、試すように問うた。それまでまるで耳を貸す素振りもなかった少女は、少年とステインにしつこく絡まれた事で我慢の限界に達したのだろうか、苛立たしげに口を開く。

「わかってるよ、無謀だって……わたしじゃ救けらんないかもって。飯田くんに“余計なお世話だ”って思われてんのも、ちゃんとわかってんだよ……」
「だったら――!」
「でもさぁ!!」

 頬を地面につけたまま、少女が目の前に立つステインを睨め付けた。その瞳からは様々な感情が見て取れる。最初からずっと恐怖がちらついていた。恐らく単身独断で“ヒーロー殺し”を追って来たのだろう少年に対する怒りも、悲しみも。そして今、新たにその目に宿るのは、ある種の狂気にも似た――苛烈で無謀で、独り善がりな覚悟。

君を・・守りたいって思っちゃったんだもん!守りたいものを全部守れるヒーローになるんだ、わたし!だから、ほんとのほんとに動けなくなる・・・・・・まで――厭がられても嫌われても、絶対君を見捨てない!!」

 ――ああ。
 涙で歪んだ視界の中、血だらけで吠える彼女の姿を見て、少年は自分の理解の浅さを思い知った。
 基本的に、優しい人だと思っていた。明るくて根が善良で、友達付き合いもそこそこ広く、周囲の様子にもよく気を配っているように見える。爆豪かれが絡むと口が悪くなることも度々あったが、それも愛嬌。疑いようもなく、ヒーローを目指す者としての一つの模範、正義感を携えた人間なのだと思っていたのだ。
 だが、違う。彼女を衝き動かしているそれは――、

「――とんだエゴ・・の塊だな。身勝手で、傲慢……だが、その信念は悪くない」
「どうでもいいけどあんた……ほんとお喋りね」

 喉を鳴らして笑うステインに、少女が口角を歪に吊り上げて応える。瞬間、力なく地に伏せた彼女の左の手元から、青い光がステイン目掛けて一直線に迸った。今までに見た少女の“個性”は弾く力と吸い寄せる力――恐らくは“磁力”。全身に刃物を携行するステインにとっては非常に煩わしい存在。

「……少し惜しいが、動けなくなってもらおうか」

 飛び退って光を躱したステインは手に持った刀を、次いで素早く抜いたナイフと共に頭上へ放った。磁力の“個性”が及ばぬ高さへ飛んでいったそれらは、放物線を描いて少女の真上に降り注ぐ。

「南北くん!」
「ちっ――」

 堪らず叫んだ少年と、舌打ちを漏らす少女。左の掌は地面に触れているが、右は運悪く突き損ねた。もう反発は使えない。
 それでも長年の癖が抜け切らず、瞼も閉じずに上空から落ちてくる無数の刃を睨みつけていた彼女の目に――淡い閃光が映った。

「――SMAAAAASHスマァァァァッシュ!!」

 少女にとって少年にとっても、聞き馴染みのあるよく知った声。音もなく現れ、落下する刀とナイフの刃を一気に蹴り飛ばして払った彼は、そのまま真っ直ぐにステインの懐へ飛び込んで拳を振り抜く。
 頬に強烈な一撃を貰ったステインの体が傾いで吹き飛んだ。着地したヒーロースーツの少年は、背後で倒れる級友達を庇うように片手を広げて身構える。

「ビンゴだ――救けにきたよ、二人とも!」

 呆然とその背中を眺めながら、少女はまた昔のことを思い出す。高校に入学してからというもの、もう何度も思い出している光景。
 泥と傷に塗れて、自分の後ろでしゃくり上げている小さな男の子。その面影がだんだんと朧げになって上手く思い起こせなくなってきていることに、少女はその時になってようやく気付いたのだった。

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