――本当に、最低最悪の父親だった。





 物心ついた頃から、お母さんは毎晩のように殴られていた。
 外面だけはそれなりにいい父だった。昔はさるヒーローの相棒サイドキックを務めていたとかで、お母さんはあの人の正義感の強さに惚れたそうなのだけれど、わたしが生まれたばかりの頃にヴィランとの戦闘で脚を一本失い、いい歳こいて独立もしないまま引退に追い込まれたらしい。
 それでよっぽど打ちのめされたのか、しばらくの間荒れに荒れ、やがて義足を手に入れ、“個性”を活かして鉄工所での仕事を始めるようになってからも、夜な夜なお母さんに八つ当たりするようになっていった。

 繰り返して言うけれど、本当に外面を保つのが上手い人間で――だからこそ抑圧されたものをお母さんが一身に受け止めることになってしまったんだろうけど――奴は最初、子供わたしを殴らなかった。主婦のお母さんは傷があっても場所によってはあまり目立たないけれど、わたしは幼稚園や学校に行くから。子供におかしな痣や傷があれば目立つし、当然調査も入ってお母さんへの暴行も明るみに出てしまうだろう。あいつはそれを見越して、わたしのことは怒鳴りつけなかったし、殴らなかった。

 周りにそれとなく訴えたことはある。たまにお父さんと飲む鉄工所のおじさんや、道端で挨拶してくれた近所のおばさんにも。でも、誰に言っても取り合ってもらえない。“ヴィランに脚を奪われても懸命に生きる、ヒーローの誇りを忘れない立派な人”だから。世間にとっては、ヴィランに傷付けられた被害者・・・だから。それが納得いかなくて、悔しくて。

 あの幼馴染が子分と一緒に寄ってたかってイズをいじめるようになった時、正直に言えば彼に奴の姿を重ねることもあった。こいつは大勢の人に凄いと思われているだけで、やってることは最低だ――一応仲のいい友達で、わたしにとっては自分の家のことを忘れさせてくれる、安らぎを与えてくれる人たちのひとりだったから、それが余計に許せなかった。
 それに、まだ体の小さいわたしではお母さんを守ってあげられない。でも、イズなら――ううん、イズはわたしが守らなくちゃならないんだ。そう思った。

 でも、違う。違った。

 奴が初めて自分の“個性”を――“体の一部を赤く熱した鉄に変化させる”という“個性”を使ってお母さんをいたぶろうとした時、違うと思った。
 “守れない”じゃないよ。だってお母さんがどんなひどい目に遭ってるのか知ってるのは、この世界にわたししかいないんだ。だから、“守れない”なんて言ってる場合じゃない。
 守らなくちゃいけない・・・・・・・・・・
 お母さんを庇うように両腕を広げて立ちはだかった八歳のわたしを前にした最低野郎ちちおやは、いじめに割って入るようになってから生傷が絶えなくなったわたしの体を見て、笑った。


「なんか最近怪我ばっかりしてるし、服の下ならバレねえかなぁ?」


 それから一年弱は地獄のような日々だった。
 わたしもお母さんも頑張って我慢したけど、だんだん心も体もボロボロになっていって――何度も死を考えたと、後にお母さんは語っていた。何より一緒になって苦しめられるわたしが哀れでならなくて、一緒に死んで楽になろうかと、何度も考えたと。

 でも、光明は差した。
 決して暖かく優しいものではなく――わたし達が味わった地獄を凌駕するような、激しく苛烈な光だったけれど。












「ほんと、何でかはいまだにわからないんだけどね。お母さんとわたしが父親の暴力に苦しんでた時に、エンデヴァーが来たの。家に。突然」
「……」
「“夜分に失礼”とか言って、うちの中に入って――それでまあ色々あって、助けてくれた」

 だいぶ端折りはしたけれど、概ね事実。ある晩、いつもの“根性焼き”の最中に、突然No.2ヒーローのエンデヴァーがうちを訪問してきて、紆余曲折問答諸々の後――奴を軽くのして警察に引き渡してしまった。そのとき、お母さんを庇うのに必死だったわたしを見て、彼は言ったのだ。

「“君はきっと強くなる”――って。なんでそんなこと言われちゃったのかも全然わからないんだけど、思ったんだよね、それで」

 炎を纏い、わたしにとってはこの世の全ての“悪”の象徴だった男を、いとも容易く下した背中。大きな、大きな背中を見て、わたしは思ったのだ。
 ああ――これだけの力がある存在になれれば、これからもずっとお母さんを、イズを、わたしの大好きな人たちを守っていけるのかもしれない。
 ヒーローになりたい・・・・・・・・・、と。

「もう周りに頼れなくて、真っ暗で毎日息が詰まりそうで、一生このままなのかなって思ってさえいたのに――なんだか、一気に火が点いたような気がしてね。救われたんだよ」
「……でも結局……親父がうちでやったことは、お前の父親がやってたことと大差ねえ」
「……そうかもね。それは正直ちとショックだ」

 事情も理由も、そこにあった信念や感情もまるで違うけれど、わたしの家と轟くんの家には重なるところが多少ある。明確な差はただ、それに目的があったかどうかという点と、それが正義の名の下に暴かれたかどうかという点だけ。わたしを救ってくれたあの人も、裏では家族にあの父親と似たような――いや、わたし的には“似て非なる”だと思うのだけれど、とにかくそういう行いをしていたのかと思うと――うん、ちょっとどころじゃなく普通にショックだった。
 ――でも。

「それでも、わたしが憧れたヒーローの姿は、あの日のエンデヴァーだから」

 うまく言えないけど、理屈じゃないんだ。
 わたしの原点オリジン。網膜に焼き付いた橙色の光。
 あの炎がわたしの夢。わたしの希望。
 きっとこの先何があっても――エンデヴァーがどんなに酷い人だったかを轟くんに滔々と語られて、どんなにその内容に失望したとしても――きっとそれだけは変わらない。忘れられる日なんて、一生来ないだろう。

 轟くんはまた沈黙した。わたしも一通り喋りたいことは喋ってしまったので、満足して口を閉ざす。とても静かな夜で、庭から聞こえる虫の声だけが耳に心地よく響いた。

「……やっぱ、まだわかんねえ」

 ぼそりと呟かれた声は、いつも通りの冷静な声音だった。ちらりと隣を盗み見ると、轟くんは自分の左手を、確かめるように何度も握ったり開いたりして――再び少しの沈黙の後、俯き加減で前に向けられたままだったその顔が、突然こっちを向いた。

「――わかんねえけど、わかった」
「……無理してわかんなくていいんだよ?」
「無理なんかするかよ。親父のことは赦さねえけど……なりてえもんがある、そういうおまえの気持ちならわかる」
「そっか。……轟くんは、何になりたいの?」

 問うと、彼は少し迷うように視線を横へ流した後、今度は自分の右手を胸の辺りに押し当てて、言った。

「――それを明日、確かめに行ってくる」

 何のことかは分からなかったけれど、その目にしっかりとした決意が宿っていることも、その瞳が体育祭中の余裕の無いそれとは全然違って見えるということも、わたしには何だか喜ばしいことのように思えて、思わず笑った。轟くんは不思議そうに二、三瞬きを繰り返した後、小さく息を吐いて立ち上がる。

「そろそろ寝る。いつもならもうとっくに寝てる時間で……ねみぃ」
「そうなの!?ごめん、長話につき合わせちゃった」
「お互い様だろ」

 じゃ、と短く告げて、轟くんの背中が縁側の向こうへみるみるうちに消えていく。というか轟くんの部屋はこの辺にあるわけじゃなかったのか。彼の背中が完全に見えなくなってしまったあたりで、わたしも大人しく部屋へ引っ込んだ。ふかふかの羽毛布団に潜り込んで、天井の木目を数えているうちに、段々と瞼が重くなってくる。

 エンデヴァーはわたしの原点オリジンだ。
 でも、果たしてわたしは――そこからちゃんと前に・・進めているんだろうか。

 光明が見えて、それで世界が変わったと思っていた。なりたいものを見つけて、靄が晴れたと思っていたけれど。

 でもわたしが負けたのは――忘れられていなかったからだ。
 心のどこかにまだ、あのクソ野郎の記憶を飼い続けていたからだ。
 ああ、

「(悔しいなあ……)」

 その夜は夢を見た。
 泣いているお母さんと、同じく泣きじゃくっているイズを抱きしめて、わたしも一緒に泣いている夢だった。

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