「――……、――!」

 早朝、気持ちよく晴れた空の下を走っていると、スズメの鳴き声に混じって何か声のようなものが耳に入った。微かに響いてくるその声は、遠くから誰かに大声で呼び掛けているような雰囲気だ。
 河川敷とはいえ一応街中、普段ならばどこかからそんな声が聞こえてきても気に留めることは無いのだけれど――何となく気になったのは、その声にどことなく聞き覚えがあるような気がしたからだった。

「――火照ー!!」
「……!?」

 どこで聞いたんだったか、ぼんやり考えながら走っていると、突然その声がわたしの名前を呼んだ。ぎょっとして辺りに視線を巡らせると、河川敷沿いに伸びる道の遥か前方、まだかなり遠い位置に人影が見える。勢いよく走ってくるその影はみるみるうちにこちらに迫ってきて、背格好や顔形もだんだんはっきり見え始めた。見覚えのある丸坊主、袖を捲り上げたジャージ姿。あれは――、

「――イナサ!?」
「火照ー!おはよッス!」
「はあ!?え、いや……何でいんの!?」

 思わず足を止めて大声で問うと、人気のない河川敷に特大声の挨拶を轟かせたイナサは、わたしの目の前で立ち止まり、いつもの笑顔にほんのりと照れ臭さを滲ませて答える。

「会いに来た!」
「会い……!?」
「週末校外学習に出る関係でな、今週は平日に休みがずれ込んでるんだ!」
「だからこんなとこまで!?朝っぱらから!?」

 休みなんで友達の家に遊びに来た!くらいの軽さで言ってくれてはいるが、イナサが合格したのは西の方にある名門、士傑高校のヒーロー科。寮制なのか実家からの通いなのかは知らないけれど、どちらににせよ今もそっちの方に住んでいるはず。この春から雄英高校への通学に無理ない範囲へ越してきたわたしたち一家の住まいとは、幾分距離に隔たりがあるはずだった。
 わたしの言いたいことが伝わったのか、イナサは「というのはまあ半分冗談で!」と笑う。

「こっちにバアちゃん家があるって話、したことなかったか?」
「そう言われてみれば聞いたような……」

 昨年度の終わり、卒業間近の春。
 父の転勤先とわたしの進学先が偶然そう遠くない場所に重なり、来年度からその辺に引っ越すことになったという話をしたとき、そういえばイナサからそんな言葉を聞いたような気がする。向こうにジイちゃんバアちゃんや親戚の一部が住んでるから、盆か正月くらいには会う機会もあるかもしれないとかなんとか。
 イナサの祖父母も彼の名門ヒーロー科への進学を大層楽しみにしていて、合格した暁には是非とも折を見て制服姿を見せて欲しい、などと言われていたそうで。前日夜から泊まりでおばあさんの家に遊びに来ていたイナサは、そんな中でも日課の走り込みに欠かさず励んでいたようだった。



 イナサとは、小学三年生のときに引っ越した先の学校で、同じクラスの隣の席になったのが初めての出会いだった。お互い“大きくなったら雄英高校のヒーロー科に入る”という同じ目標を掲げていたので、それがきっかけでよくつるむようになって。家がたまたまご近所さんだったのもあって学校以外でもよく遊ぶ仲、わたしにとっては第三の幼馴染という感じだ。唯一合わないのは好きなヒーローの趣味くらいだろう。エンデヴァー、かっこいいのにね。
 休憩も兼ねて河川敷の草むらに並んで腰掛けると、彼は汗で濡れた坊主頭をタオルで拭いながら感心したようにわたしを見た。

「しかしまあ、どっかでちらっとでも会えたらとは思ってたんだが、まさかこんな早い時間に出くわすとは思ってなかった!……あの火照が走り込みとはな!」
「まあ、ちょっとね。イナサは今でも走って……まあそりゃそっか、ヒーロー科入ったんだもんなあ」
「おまえも頑張れ、体づくりは基本だぞ!」
「……そだね」

 イナサは中学生の頃からよく走っているのを見かけていた。ヒーロー志望のくせに走り込みや体力づくりがそんなに好きじゃないわたしは「真似できんわ……」なんて思いながら眺めていたものだが、今日は特別だ。
 つい一昨日にあんなことが――ヴィラン連合による襲撃があって、いろんなことを考えさせられて、おまけに帰り道では爆豪あいつによくわからないことをたくさん言われて。気付けばいつもより二時間も早く目が覚めてしまっていて、何だかじっとしてもいられなくて――まあ、それでようやく走り始めた程度のアレなのだけれど。
 膝を抱えて曖昧に頷くわたしの様子を少しの間黙って見ていたイナサは、不意に珍しく真面目な顔で口を開く。

「しかし、大丈夫だとは聞いていたが……おまえが五体満足みたいで安心した!ネットニュースで見たよ、一昨日の事件」
「わたしは……生徒わたしたちはそりゃ、守ってもらったからね。……命懸けでさ」
「……そっか」

 相澤先生は全身大怪我、意識不明の重体だった。治療の甲斐あって一応命に別状はないということだけれど、骨折の影響で目に後遺症が残る可能性があるらしい。13号先生もボロボロになりながら最後まで戦ってくれていたし――オールマイトもそうだ。まずは無事でよかったと周りの人は言うけれど――1年A組のみんなの中にも、何とか事が収束して安心こそすれど、手放しで“よかった”と思える人なんて一人も居ないことだろう。
 しかしイナサは、拳を握り込みながら思いっきりこう言った。

「こんなこと言うと、おまえ達にとってはかなり不謹慎かもだけど――俺は正直羨ましい!」
「……、」
「俺達の歳でそんな修羅場を潜るなんてなかなかない!経験は強さ!!お互いヒーロー科に入ってまだ一月足らずだけど、俺は早速経験で遅れを取ってしまったわけだ――うん!悔しい!!」
「……だよねえ、へこんでばっかもいられない……経験は活かさなきゃ」
「だから走ってたんだろ?」

 ん?と首を傾げるイナサの、微妙に何を考えてるんだかわからない笑顔を見ていると、何だか元気が出てきた。そうだ。無力なのはわかった。悔しさもいっぱい感じた。だったら後は行動あるのみ。よし。
 拳を握り、勢いをつけて立ち上がって、こちらを見上げるイナサに向かって右手を差し出す。
 わたしなりの、決意表明のつもりで。

「わたしも走る。あんたに追い越されないように」
「速さには結構自信あるぞ」
「瞬発力はわたしの方が上っしょ」
「言うなあ!」

 わたしの手を取り立ち上がったイナサと、拳を合わせて笑い合った。思えばいつもこうやって励まし合ってきた気がするけれど、通う学校が変わってもこうして仲良くできるのはありがたいことだなと、ふと思った。

「――あっ」
「なんだ?」
「ちょっとさ、あんま時間は取らないから……頼みごとしてもいいかな?」
「俺にできる事なら!」

 ズボンについた草を払いながら、はっと脳裏に蘇ったのは先日の暴言だった。もっと強くなりたいと望む以上、いつか必ず克服しなければならないだろう、わたしの悪い癖・・・。イナサは快く頷いてくれたので、遠慮なく。

「じゃあさ、こう、グーの拳で」
「うん?」
「わたしを殴るつもりで振り抜いてほしいんだけど!」

 ズバリ直球で頼み込むと、イナサは一瞬キョトンとゴリゴリの四白眼を瞬かせ、顔の横まで持ち上げた自分の拳と、わたしの顔を見比べて――ニカッと笑った。

「――任せろ!!」


















「どどどどどどどーしたんそれ!?」

 教室前で遭遇したお茶子ちゃんが、驚きのあまりガタガタ振動しながらわたしの顔を指差す。その後ろで、一緒に登校してきたらしい飯田くんとイズもあんぐりと口を開いて固まっている。騒ぎを聞きつけたのか、開きっぱなしの教室のドアから切島くんと砂藤くんがひょこりと顔を出し、二人揃って「うおっ」と顔を青くした。気まずいというか、恥ずかしいというか、居たたまれさに負けて愛想笑いしながら歩き出したわたしの背中にイズの声がかかる。

「ほたるちゃ……じゃな、えっと南北さん、えっ、ええ!?それ一昨日の!?」
「いや違うだろう!先日の段階ではあんな傷などなかったぞ……!?」
「じゃあどうしたん!?コケた!?」
「まあそんな感じかな……?」
「……」

 飯田くんやお茶子ちゃんにも席の近くまで追いかけてられてしまって、あまりの恥ずかしさにさっさと会話を切り上げようと適当に返事をすると、後ろから小さな溜息が聞こえた。思わず自分の顔面ど真ん中、鼻のところにどでかいガーゼが貼り付けてあるのを忘れて振り返ろうとすると、その前に後ろから溜息の主――ちょうど登校してきたらしい轟くんに追い越された。右側の黒い目は斜め下の足元辺りを見下ろしたまま、ぽつりと呟かれた言葉は、

「磁力の反発で空中歩くような体幹の奴が、その辺の地面で転んで鼻ぶつけるわけねえだろ」

 それだけ言うと、轟くんはすたすたと自分の席へ向かっていく。流石の名推理だ。「轟が会話に入るって珍しくね?」「それだけ看過できぬ綻びだったと言うこと」「ツッコミどころってか?」という瀬呂くんと常闇くんの会話をちらりと耳に入れつつ、痛いところを突かれて思わず口の辺りを指で覆いながら自分の席の椅子を引くと、すかさずお茶子ちゃんの顔が机の上に滑り込んできて、わたしの方まで驚いて若干尻が浮いた。

「ヒッ!?」
「じゃあどうしたん!?誰かにっ……殴られたりしたん!?」
「まっ……まあ……」
「なんで!?」
「それは恥ずかしいので言いたくない」
「はず!?」
「ほんと、ちょっとした事故だから……」

 前の席に勢いよく着席したイズも血相を変えて色々と聞いてくるのだけれど――訓練のつもりで、自分から頼んで友達に殴ってもらって、本当に全然避けられなくて顔面に気持ちいいパンチが入ってしまったとは流石に言いにくい。間抜けすぎて恥ずかしい。ちなみにイナサは「ごめん!!まさか微動だにしないとは思わなかった!!ホントごめんな!!」といつもの笑顔でめちゃくちゃ謝ってくれた。

「――うるせえクソナード!丸顔!!」
「丸顔!?」
「(あんたが一番うるさいんだけど……)」

 今度は二つ前の席、意外にもわたし達より早く登校していたらしい爆豪あいつの怒鳴り声だ。不名誉感のあるあだ名にショックを隠せないお茶子ちゃんと一緒に体を伸ばして前を覗くと、機嫌悪そうに頬杖をついて窓の方を向いていた横顔から、表情とぴったり一致で不機嫌全開の声が溢れてきた。

「どこのどいつに何で殴られたとしても……避けねェそいつがわりんだよ」

 今回の場合――いや、どんな場合でもある意味正論、まったくもっておっしゃる通りの言い分に思わず黙る。くそ、言い返す余地が全くない。だってイナサのパンチも一応、見えていた・・・・・
 指摘されてから何度も何度も考えたのだけれど、実際に癖というのを自覚した上で試してみて、少しわかった。ちゃんと見えて、目で追えていたのに、拳を前にすると何も考えなくても足に力が入って、腰を落としてどっしり身構えてしまうのだ。どうしてそんな癖がついたのか、言われた瞬間は全くわからないと思っていたが――そうじゃない。
 心当たりは、ある・・。胸の辺りの古傷がぞわりと疼いたような気がして、制服の布地を掴んだ。

「(だったらなおさら――克服しないと駄目だ)」

 もう忘れたと思っていた、厭な記憶の話だ。過去の出来事として風化させようとしていた最低最悪の出来事たちだ。
 絶対に――乗り越えたい、
 拳を握り、心の中で決意を新たにしたわたしの前で、お茶子ちゃんとイズが戸惑ったように顔を見合わせていたが、スピーカーから予鈴が響くと「お大事に……!」とそれぞれ自分の席で荷物を片付け始めた。わたしも鞄の中身を取り出しながら、イズの頭の向こうに見えるツンツン髪をちらりと見やる。あいつに気付いて貰えなかったら多分もっともっと自覚が遅れて、進歩も――まだ気付いただけで一歩も進んでないのにおかしいかもしれないけれど、進歩も遅れていたと思う。無性に悔しさが沸き起こってきて、包帯でぐるぐる巻きの相澤先生が教室にやって来るまで、胸の中のぐちゃぐちゃもやもやを溜息と一緒に吐き出すのに大忙しだった。

 そんな決意も悩みも巻き込むように、大きな大きなうねりが巻き起ころうとしている。

 ――雄英体育祭。かつてのオリンピックに代わると言われるスポーツの祭典が、着々と近づいて来ているのだった。

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