フラジオレット | ナノ







 ガチャリ。



「お疲れ、旦那」
「…いたんですか」
「そりゃぁもうずっと」



 ハチ公のごとく待機してましたよ、と笑みを向ければ厳しい眉間にいっそうのしわが寄る。それから四木は目蓋を下げるとあてつけのように深く、深く溜息をついてから扉を閉めた。

 扉の開く音と同時に掛けた声にまともな返答を期待していたわけではないのだが、そうもあからさまにがっかり、というか呆れたような表情をされると、こちらも苦笑いをするしかない。四木も知っているはずなのだ、赤林が彼を好いているということを。しかし四木が、好かれている相手にこうも、つかず離れず、生殺しのような距離感を保って冷静に対応することの出来る人間だと、赤林は知らなかった。だからこうして苦労しているのだと、溜息の代わりに笑みを貼り付けて四木を自身の座っているソファへと迎えた。もちろん彼はそれにも眉をひそめたのだが。



「思ったより大事になっちゃったみたいですねぇ」
「下っ端の下っ端ともあろう連中がここまでやらかしてくれるとは、私も思いませんでしたよ」
「旦那が予想できなかったならきっと誰も予想できませんでしたよ」
「今回は特に、あの情報屋が絡んでいたようですしね」
「情報屋」



 名前を思い出そうとして、やめた。今ここでうっかり彼の名前を呟こうものなら四木は心中に収めた怒りのふたを開けさらに機嫌を悪くすることだろう。瞬時にそう思った。

 今回の件では四木も赤林も、組中の人間が苦労をした。話を揉み消すためにあちこち走り回ったり、証拠人を捕まえては椅子に縛り付けて全てを吐き出させる。普段少ないこまごまとした作業も数倍に膨れ上がり、組の中でも重要な位置についている者達は下への指示と自分の立ち回りに追われほとんど夜も眠れない日々が続いていた。密かに横目でうかがえば、普段から健康体には見えそうにない四木の骨ばった体躯がいっそう白くペールがかっているように見えた。



「あちらさんとは話がついたんでしょう?これで、収まりますかね」
「残念ながら、今回ばかりは世間様が見逃してはくれないようですよ」



 苦々しく首を横に振りながら四木は隣のソファに立てかけてあった鞄を掴み、その中から分厚い資料のようなものを取り出してさらに苦い顔をした。覗き込んだ先には、一部の間では有名なゴシップ誌のコピー。信憑性にかけると笑われていたその雑誌が粟楠会のスキャンダルをかぎつけたのだから、組の関係者としてはなんとも肝を冷やす思いであった。おそらくこのスクープをモノにしたライターは今頃暗い部屋に一人きり、膝を抱えてぶるぶる震えているのだろうが。



「世知辛いねぇ」
「まったく、生き辛い世の中になったものです」



 そう言って手元の資料をめくりその小さな文字に目を落としつつ細く息を吐く四木の声音はいつになく平坦だったが、赤林はその生白い横顔が心底疲れていると告げているような気がしていた。今回の件で誰より走り回ったのだろう、そう思った赤林は彼が生き辛いとこぼした言葉に多義を感じてしまい、少しだけ胸の詰まる思いをする。苦しむのは少ないほうがいい、特に旦那はなおさら。赤林は腰を浮かせ、ソファの左端に座っていた四木との間合いを詰めた。



「赤林さん?」
「まぁ、世間がどんなに生き辛くても、旦那が生きてる限りおいちゃんは死んだりしないけどね」






 一秒でも長く旦那の傍にいないと、人生もったいないでしょ?






 かしげた首で四木と目線をあわせにこりと微笑めば相変わらずの仏頂面。四木は細い指先を折って分厚い紙の束を机上へと放り投げると、改めてその鋭い視線で赤林を捉えた。



「あんたバカですか」
「ひどい!!」



 恐ろしいまでの無表情で言い放たれたその言葉に赤林は間髪入れず声を上げた。騒がしい人だ、と四木は呟いてジト目で赤林を見たが、当の本人の耳にはあまり入っておらず俯いてなにやらぶつぶつと零している。ハチ公よろしく待ってたのに、バカは冷たすぎやしませんか、旦那。そう思って俯いたまま(目を見るのははばかられる、なんといっても怖いから)不満のひとつでも投げつけてやろうかと思案をめぐらせていると、急に、四木が声を上げた。



「赤林さん」
「……はい、」



 なんでしょう、とすねたようにちらりとだけそちらを見れば、すい、と鮮やかな手つきでサングラスを奪われる。あ、と声を上げると同時に四木はその左親指で赤林の目元をさすっていた。赤林は少しばつの悪そうな顔をして、隈をこしらえた目元を逸らそうと左斜め下を向き、黙り込む。ふ、と、目の前で空気が揺れる感覚がする。四木が息を吸い込んだのだろうか。目はあわせられないが気になっていると、彼の声が聞こえた。






「飼い犬に早死にされても困りますからね、私も長生きするとしましょうか」






 思わず顔を上げれば、今日はじめて見る彼の緩んだ笑顔。「お疲れ様です、赤林さん」と最高級のねぎらいと微笑を頂戴した赤林は、コレが夢ではないことを祈りながらいとしい彼の身体に腕を回し笑みを返した。近づく距離にまどろむ目蓋を叱咤しながら、好きです旦那、とだけ告げて返事も聞かないうちにその真赤な唇に噛み付いていた。






















(こんなどうしようもない日常を、あなたと生きていたいんです)






















life with you





101125

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つ、ついに赤四木に手を出してしまった…。四木さんも赤林さんも別人で申し訳ない。

組の関係で(折原が影で糸引っ張ってるのでなんとも複雑な)大きな事件が起きて、疲れてるお二人さん。四木さんってもっとクールなイメージなんですが…うん。










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