フラジオレット | ナノ







「うわあぁぁぁァァ!!!」



 ひっくり返った悲鳴が聞こえて、路地裏から一人の男が躍り出た。もつれる足の不規則なステップがまさに不恰好な踊りのようで、チンピラのような風貌をした男の様は酷く滑稽だった。全力で己の恐怖を振り払わんと、男は言葉として意味を成していないただの叫び声を上げる。
 しかし、その声はちょうど男が飛び出してきた路地裏から伸ばされた手によって一時休止する。赤く染まった長い指が逃げる男の首根っこを掴むと、そのまま彼の身体を路地裏へと引き戻してしまったのだ。瞬時に状況を把握した男は絶望をその表情に貼り付け、再び叫んだ。だがそれもすぐに途切れてしまった。



 あれからしばらくして、男が消えた路地裏からは別の男がふらふらと出てきていた。拳とカッターシャツの袖口を赤く染め、ゆっくりと歩みを進める。バーテン服を纏った金髪の男――平和島静雄は胸ポケットからサングラスを取り出すと、その形状が少し湾曲してしまっているのもお構い無しに彼の虚ろな瞳に被せた。青みがかったそのフィルターの向こうでは、虚ろな瞳は物憂げにも悲しげにも見える。しかし平和島静雄は何も語らず、ただぼんやりと池袋の街をさまよっていた。
 交差点に差し掛かったところで、妙なイントネーションで彼を呼ぶ声がした。



「オー、シズオー、久しぶりネー」



 静雄が首だけ向けると、少し先の街灯の前に板前の格好をした黒人がにこやかな顔をしながら立っている。どこかちぐはぐな出で立ちをしている彼に、「サイモン、」と静雄は小さく呟いた。そのどこか力ない声を聞くと、サイモンはその笑顔を引っ込め、首をかしげて俯く静雄の顔を覗きこむような素振りをした。



「元気ないネー、腹減ったカ?」
「違ぇよ」
「コレ、出前途中ネ。大丈夫、お客さん、入ってた数知らぬが仏ヨー。大トロあるヨ?」
「いらねぇって」



 真顔で投げかけられた冗談のような提案を右手ひとつで制止する。それを見ると同時にサイモンは眉間にしわを寄せた。

 カラン、音がして、宅配用の寿司容器のふたが落ちる。急に右手首を掴まれて、静雄は少しだけ目を見開いてサイモンを見上げた。



「シズオ、喧嘩、よくないネ」



 静雄は掲げられた自分の血のこびりついた右手越しに見たことのない表情をしているサイモンを眺めていた。酷く真剣で、逸らしがたいその視線に射抜かれて、静雄はどうしようもなくただ困惑した表情でサイモンを見つめる。
 ふいに、サイモンの表情が緩んだかと思うと、ふわりと身体が浮き上がる感覚がした。実際静雄の身体は浮き上がったわけではなく、少し上に引き上げられただけだった。引き上げられて、抱きしめられていた。サイモンの腕の中に。



「サイモ、」
「大丈夫」



 名前を呼べば遮られ、抱きしめる腕に力がこめられる。静雄は何も言わないのに、ただひたすら、大丈夫、大丈夫と耳元で繰り返していた。その声を聞きながら次第に目頭が熱くなって、静雄はサイモンの背中に腕を回すと、肩口に顔をうずめて気付かれないようにこっそりと泣いた。









 しばらく泣いてから、落ち着いた静雄が「サイモン、苦しい」と訴えると、彼はあっさりとその腕を放した。見上げれば優しい表情で微笑むサイモンがいて、静雄は少しだけ安心する。一般的に長身の部類に入る静雄は、誰かを見上げることも、誰かの腕に包まれることも、酷く遠いようなことに感じていた。だから、少しだけ、甘えてもいいと思わせてくれる彼がいて、安心したのだ。



「俺、さ、止まれなかったんだ」



 どうせなら全部吐き出してしまおう、未だ赤い袖口でその涙を拭うと、静雄は照れくさそうに俯いてから口を開いた。



「あいつらが気絶してからも、俺は止まらなかった」



 思い出すほどに苦笑しか出ない。静雄は俯いたまま、またもこぼれそうになる涙を堪えていた。



 路地裏のチンピラたちが地にひれ伏しその意識を飛ばしてからも、見慣れないフードの男の上でマウントポジションを取りながら、静雄は力なくその拳を振り下ろし続けていた。力なく、といえども、雑草を抜く動作と変わりないその動きで道路標識を引っこ抜く彼の力ない拳は、男の頬を腫れさせ、唇を切り、前歯を折るくらいには十分な力がこめられていた。いつまで続いたのかわからない。ただ骨と骨がぶつかる鈍い音が鼓膜に染み込んだ頃、静雄の腕は疲れ果ててようやくその動作を止めた。見下ろせば見るも無残に変形した男の顔がそこにあって、それを酷く冷静な頭で見つめながら、静雄はふらふらと立ち上がり、血なまぐさい路地裏を後にしたのだった。



 あの時、自分は何も考えていなかった。ただ本能が告げたのだ、"殴れ"、と。そうしなければお前が傷つくのだ、と。大型トラックにはねられても立ち上がることの出来る自分が、どんな傷を怖がるのだろう、と嘲笑にも似た表情が静雄の顔に浮かぶ。



「怖ぇな、なんか」



 自分がわからなくなってしまうのが、本能が思考を裏切るのが、たまらなく怖かった。ぎゅう、と、白くなるまでその拳を握り締める。袖に、皮膚に、爪の間にこびりついた真っ赤なそれを消し去ろうとするかのように。


 ぽん。


 急に、頭にかかる重力が増える。見上げれば、優しい顔をしたままの彼が大きな手のひらを痛む金髪に滑らせていた。俗に言う、撫でられている状態。






「大丈夫ヨ、私、シズオ止める。池袋、安全。嬉しハズかし一石二鳥ネ」






 ニコリ、人当たりの良い表情で笑われれば、緩む表情。



「ふ、なんだそれ」



 今までの真剣な空気にもかかわらず、サイモンの表情と妙な日本語が全てを台無しにしていた。それがなんだかおかしくて、静雄は思わず噴出してしまう。笑い出した静雄の頭を撫でながら「大丈夫」とサイモンは繰り返した。不思議なことに、妙なイントネーションで何度も告げられる"大丈夫"という言葉を聞くだけで、張り詰めていた表情は緩みきってしまう。悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、彼の存在は大きい。
ひとしきり笑い、静雄は再び落ち着いた頭で、そういえば、と思い出す。



「サイモン、出前いいのか?」
「オー!出前!」



 指差せば忘れていた、と言うように脇に置かれていた出前の容器を持ち上げる。珍しく慌てるサイモンにまた笑って、「じゃあな、」と別れを告げようと手を上げた。ら、



「超特急ネ!」
「え、うわっ!」



 上げた右腕を引き寄せられ、あっさりと左肩に担がれた。腰の辺りを支点に肩の上に乗せられ、思わず両手で彼の背中にしがみつく。焦り赤面する静雄を他所にサイモンは歩みを進めていた。



「おいサイモン、俺は寿司じゃねぇぞ!」
「次のお客さん、お医者さん。シズオおまけに診てもらうヨー。サービスサービス」
「はぁ?!」



 サービスするのはサイモンの方であって客である相手に検診を期待するのはお門違いなんじゃないかオイ。
 静雄は、鼻歌交じりに大股で歩くサイモンに抗議の言葉を投げかけたが、自分は肩の上で、いくら暴れようとも彼の太い腕に押さえつけられてしまえば逃げるすべなどない。



 静雄は仕方ないというように深い溜息を吐くと、落とされないようにサイモンの服を強く握った。






 そのまま運ばれた届け先で顔馴染みの闇医者に肩の上から挨拶する羽目になった静雄は、またいっそう赤面することになったのだった。




























(やぁ、楽しそうだね)
(見んじゃねぇぇェェ!!)






















解ける心はその腕で





100601

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初のサイシズどきどき!
サイシズはもうあの身長差がおいしいですよね…シズちゃんより大きいキャラなんて希少ですから(笑)悠々と静雄さんを担ぎ上げるサイモン、惚れます^^
というか、まさかの新羅オチですすみません(笑)


>>刹那さん
シリアス→ほのぼのな感じでまとめてみましたが…り、リクエストに副えているでしょうか…!お持ち帰り自由ですので、煮るなり焼くなりお好きなようにどうぞ!
リクエストありがとうございました!










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