フラジオレット | ナノ



「、っ」
「静雄?」



 ガタリ、椅子を倒して床にうずくまってしまった静雄にトムは駆け寄った。何の前触れも無く、急に胸を押さえて苦しみだした静雄は、ヒューヒューとおかしな音を立てながら真っ青な顔をしている。



「おい、静雄」



 事務所の床に突っ伏して、薄く唇を開いては酸素を求める。トムはそんな静雄の背中に手を置いていたが、尋常ではない苦しみ方をしている静雄を見て、それが気休めにしかならないことを悟った。トムは立ち上がる。

 電話。救急車。



 くい。



 そう思って出した左足を引っぱられた。トムが視線を下げると、静雄の指先がスラックスの裾を掴んでいる。しかし、当の静雄は息も絶え絶えで、掴んだのは無意識だったようだ。
 トムはため息をつくと、もう一度座り込み、床に俯いている静雄を起こして腕の中に抱いた。まるで子供をあやすようにその背中を撫で、時々小さく叩いてやる。静雄は相も変わらず細く乾いた息をしていた。

 言葉も無いまましばらくして、ようやくあの乾いた風きり音が止んだ。



「大丈夫か?」



 回したその腕は解かないままで、トムは静雄の耳元で視線を右に寄せてそう聞いた。右耳のすぐ脇から直に伝わった声に、静雄は少しだけ肩を揺らす。それから胸を押さえたそのままの体制で、遠慮がちにトムの肩にうずめていた顔を上げた。



「・・・はい、」
「そっか」



 なら良かった、呟かれた声は次第に離れていった。背中に置かれていた両腕はすり抜けて、それに従いトムは立ち上がる。つられて、静雄はトムを見上げる。トムは小さく微笑んでいた。



「ほら」



 伸ばされた手は気遣うように静雄の腕を取り、ゆっくりと彼の身体を引き上げる。未だ上手く身体を支えることができない静雄は一歩よろけた。途端、近くなる距離。目前に迫る顔。
 ひゅ、と乾いた吐息が再度漏れた。それにトムは眉根を寄せる。



「無理すんな。水、持ってくるから」



 あの細い息が身体の具合から来るものではなく、精神的ソレから発生したものだということにトムは気付かない。再び距離は離れ、トムの背中は事務所の隅に設置された冷蔵庫へと足を進める。胸に当てていた右手を自身の左腕に滑らせて、静雄は何も言えずに立ち尽くしていた。






 触れられた部分が熱い。
 声を聞いた右耳が痛い。



 近づいた距離に、息が詰まる。






 気付けば、ほんのり薄紅に染まった顔の前に、一本のペットボトルが差し出されていた。向こう側ではピンボケしたトムが困ったような表情で笑っている。



「ありがとう、ございます」



 受け取って、ふたをひねって、でもそれを口に運べないまま静雄は戸惑っていた。



「静雄、」



 呼ばれて、静雄は慌てて顔を上げる。
 直後、唇に触れたのは短いキス。





「無理すんなよ」





 空いた右手は静雄の頭に乗せられ、ゆっくりと撫でる。トムは優しい瞳のまま笑っていた。それを見て、心臓の萎縮と共にペットボトルを握りつぶしそうになるのを必死で堪えながら、静雄は赤い顔のまま俯いた。口元には不器用な笑みを携えて。
 静雄の様子に今度は安堵のため息を吐いて、トムは時計に眼をやった。



「次の回収は俺一人で行って来るから、お前は事務所で休んでろ、な」



 静雄は急に顔を上げて、でも、と抗議の言葉を紡ごうとする。しかし、未だ優しく自分の頭を撫でている上司の掌と、彼のまっすぐなやわらかい視線に、口を閉じるしかなかった。静雄はもう一度俯いて、「はい」と少し不満気に声を漏らした。


 「じゃあ、」と一言残して、トムは事務所を出て行ってしまった。残された静雄は、見送りの体制のまま、その場を動けないでいた。
 つ、と指で唇に触れる。余韻は確かにそこにあって、あぁ重症だ、と呟くまでも無く静雄はその胸に手を寄せる。心臓は速くて、うるさくて、どうしようもないほどに鼓動を全身に伝えていた。もう、呼吸は正常に戻ったはずなのに。





「トム、さん」






 気管支がまた、ひゅ、と乾いた音を立てて鳴った。






















(この痺れを癒してほしいのに、)





















喉元過ぎれど痺れは残る





100425

……………………
どきどき静雄と優しいトムさん。ちなみに静雄の呼吸の理由は臨也に何か盛られたとか、そんな感じかと。その件を書こうと思ったら長すぎたので、割愛(笑)


「喉元を過ぎれど痺れは残る」
お題配布元:シュロ










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