フラジオレット | ナノ





※のだめカンタービレ
※峰君と千秋君が付き合ってる



















 それはうららかな春の午後。

 時計の針はとっくに一時を回っていた。大学もない、オケの練習もない、惰眠をむさぼるに最適な時間と暇を持て余していた千秋真一は前日から今日の朝寝坊を予定していた。普段からストイックな彼は、音楽のためとなれば寝る間を惜しみ、自身の技術向上のためとなればその身を削って練習に勤しんだ。しかし彼も人間、あまりにハードな毎日に耐えかねた心労を発散すべく近年、千秋は「寝溜め」という方法を見出したのだった。偶然か否かよく知った友人の名に似たその行為は、彼女そのものを表すがごとく普段の彼ならば殴り飛ばして活を入れたくなるようなものだったのだ、が。一度その至福を体験してしまえば落ちるのは早いもの、疲れた身体によく効くその処方箋が千秋の身体をベッドに縛り付けて放さない。



「ん…ぅ」



 昨夜閉め損ねたカーテンの隙間から差し込む日中の太陽が千秋のまぶたを照らす。そろそろ起きなければ、と頭ではわかっているのだ。そして太陽も俺がそうすることを望んでいるらしい。あぁでも、と心の中で呟いて、千秋は窓とは反対の方向に向かって寝返りをうった。
 こんなに暖かい布団から出られるわけがない。春とは雖もまだ三月、気温で言えば二十度を上回らない日だってあるような寒い日が続いていたこのごろ。冬のそれより酷くはないものの、やはりベッドを降りた時の震えを感じるのは些か億劫だった。まぶたを射していた光を避ければそこは暖かくてやわらかい、それになんとも言えぬ甘い匂いが…ん、甘い匂い?

 おかしい。どうしてこんなホットケーキみたいな匂いがするんだ。俺はシャンプーをバターの香りに替えた覚えはない。おかしい。ベッドが狭い。匂いは真横から漂っているような気がする。そんな、アホな。

 一通り可能性を否定してからも、ようやく、千秋は諦めたかのようにその重い瞼を開いた。



「あ、起きた?」



 真っ先に飛び込んできたのは金色。その金色はとてもいい笑顔で千秋を見つめていた。

 千秋は自分で自分の表情が引きつっていくのを感じた。先ほどまでの穏やかな至福はどこへやら、眠気すら吹っ飛んで今はただ現状に納得できないでいた。ごく当たり前のように千秋の横で布団にもぐりこんでいた峰は、ごく当たり前のように千秋に腕枕をして、さらにごく当たり前のように朝の挨拶をしてきた。なんという悲劇だろうか。千秋は頭を抱えたくなった。



「お前…どうやって…」
「玄関からだけど?」
「いや…だから、鍵は」
「高橋が持ってた」
「たかはっ…!?」



 あまりの心的動揺に思わず布団を蹴り上げてがばりと身を起こせば、甘い匂いが遠ざかり冷たい空気が首を撫でる。しかし、その後千秋が目を瞬かせその身体を震わせたのは、季節を裏切った寒波が彼の部屋を襲ったからなどという理由だけではなかった。



「なっ、おま、服は!!」
「え?あー、さっきシロップこぼしちゃって」



 洗濯機の中、と言いあっけらかんと笑う峰はジーパンもTシャツも脱ぎ捨ててトランクス一枚で千秋の隣に寝ていたのだった。片や器用にも驚愕の声を上げると同時に布団を奪い去り身を隠すようにして布団にす巻き状態になっていた千秋は、嘘をつくのが限りなく下手なタイプである峰の言葉にひとまず安堵の溜息を漏らす。さらに視界に入れておくにはあんまりな格好の峰のために、不承不承ではありながら自分の衣服の中から峰が着れそうなものを探し出そうと、とりあえず手の内の布団を投げてよこしたのだった。



「…なんで来たんだ」
「いやー、なんかホットケーキ食いたくなってさ」
「ホットケーキぃ?」



 何言ってるんだお前は、という副音声が聞こえてきそうなほどの渋面で千秋は振り向く。日は高いといえどもまだ午前中、しかも他人の家に無断で上り込んだうえその理由が「ホットケーキが食いたかったから」。千秋の家が副業としてホットケーキ屋を営んでいるのならばまったく迷惑な客だと溜息をつくのだろうが、もちろん彼は副業を始めた覚えもなければ、朝の十時半に峰に朝食を提供してやる覚えもなかった。
 そのあまりにも強くしかめられた千秋の顔に苦笑する峰だったが、その後少し拗ねたように口を尖らして、逆にこう言った。



「だって、ずりぃじゃん。のだめだって千秋の手料理食べたことあるっていうのに」



 恋人の俺がないなんて。
 ちらりと、ジト目で見やればぐっと答えに詰まる千秋。先ほど下着一枚で横に寝ている峰を見て千秋が保身に走ったのにはこういったワケがあったのだ。
 二人が恋人同士と呼ばれる関係になってしばらくたったというのにもかかわらず、二人の間には緊張感というのか、何やら言葉に表すには微妙な“距離感”というものが存在していた。実を言うと、千秋はまだ一度しか峰を自宅に招いたことがなかったのだ。その恋人らしからぬ行動の後ろめたさもあってか、千秋は何か言い淀んでは話題を逸らそうと手元の洋服ダンスを漁りながらつぶやく。



「だ…大体、お前なんで人ん家の洗濯機に勝手に洗濯物突っ込んでんだよ」
「頼むー、洗っといてよ」
「そしてその服をお前に届ける俺はなんだ!クリーニング屋か!?」



 やっといつもの調子に戻れそうだと、突っ込みを終えた千秋はひとまず胸をなでおろしたのだった、が。



「置いといたらいいだろ」
「は、」



 峰の返答に一瞬理解が追い付かずはぁ?と真の抜けた声を上げようとした千秋はいつの間にか背後に立っていた気配に息を詰める。ぐるりと身体を半回転させてその姿を確認すると同時に腰に手が回って身動きが取れなくなった。先ほどのことを有耶無耶にしたことを怒っているのだろうかと、恐る恐る見上げた先の峰の顔は、照れたような真剣な顔だった。



「千秋の家に、置いといたらいい」



 そしたら俺がまた取りに来るのを口実に、千秋に会いに来れる。



 そう言うと、峰は驚く千秋を引き寄せてゆるく抱きしめた。普段の活発な彼からは想像もできない優しいその動きに千秋は顔に熱が集まるのを感じる。
わなわなとふるえる両手で何とか峰の肩を掴むと、千秋は力いっぱいその身体を押し返した。



「のわっ?!」



 勢い余ってしりもちをつく峰。おかげで絡んでいた腕は解けてしまって、突き放されたショックに峰は情けない顔をする。突き飛ばされてショックだったということもあるが、一世一代の大告白にも似たあの決め台詞をあっさりと拒絶されてしまったことが峰には何よりも衝撃だった。ほんとは千秋、俺と付き合うのも嫌なの?そう、峰が呟こうとしたとき。



「ほら、早く行くぞ」
「へ?」
「へ?じゃねーよ」



 見上げればそこに佇むのは真赤な顔をして手を差し伸べる千秋で。ぱちくりと丸い目を瞬かせているうちも、千秋の顔は赤くなるばかり。お互い硬直した時間がいくらか過ぎ、あーもう!、と声を上げ、しびれを切らした千秋は、少し、口ごもりながらこういった。



「食べたいんだろ、ホットケーキ」



 作ってやるから、手伝え。



 そうして差し出された手に峰が満面の笑みで飛びつくまで、そう時間はかからなかった。

















(千秋――っ!!好きだ――っ!!!)
(っ、んなこと叫ぶな馬鹿峰!!!)

























甘い匂いに絆されて






……………………

すごく懐かしいものも発掘。
ちなみに峰君からホットケーキのにおいがしたのは材料を一通り千秋の家のキッチンに広げていたからです。










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