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とりとめのない小品

確かなものを失った男の話

 額を畳に擦り付けて土下座する姫川の後頭部を見下ろす。あの姫川が。無様にも這いつくばって。この俺に。許しを請うている。

 はは。
 なんだこれ。

 あの姫川が。とても無様だ。

「頼む」

 清廉潔白。質実剛健。不撓不屈。彼をおいてこれ程までに四文字熟語が似合う高校生はいない。その姫川が、その培ってきたモノを捻じ曲げてうずくまっているのだ。これが笑わずにいられようか。

「不問に。なかった事にしてくれ。次の大会、先輩方は最後なんだ」

 ほら、これだ。生き方は捻じ曲げても、芯は捻じ曲がらない。そもそも姫川には咎もなければ責もない。

「あいつらがしでかした事に対しては、改めて詫びを入れる。だからどうか」

 どうも今朝、ウチの一年と姫川の学校の一年がやらかしたらしい。畳の上での実力差はない筈だが、喧嘩慣れした不良高の生徒と、真面目だけが取り柄の進学校の生徒。どちらが優勢だったかは火を見るよりも明らかで、情けなくも一方的にやられたと、その怪我の具合が物語っていた。
 どちらが先に仕掛けたか。事実は知れないが、一方的な暴力の証拠と予てからの社会の信用が姫川を突き動かした。

「まあ。……それで構わねえよ」

 ウチだって騒ぎ立てるのは好ましくない。
 ゆっくりと面をあげた姫川と目が合う。瞳の光はどこも損なわれていない。そう、姫川は何も変わらず、姫川なんだろう。

「しかし、お前も大変だね」

 いくら主将とは言え随分と損な役回りだ。

「せっかく来たんだ、乱取りくらいは付き合って行けよ」

 肩を叩いて誘えばホッとしたように笑う姫川の口元に白い歯がこぼれた。

 用意してやった道着に着替えた姫川が俺の前で礼をして構える。忽ちの内に姫川の気配が張り詰め圧倒される。悔しいが格の違いを見せ付けられる瞬間だ。
 柔道家の厳格な祖父に躾けられた姫川は出会った当時から子供らしからぬ子供で、事あるごとに俺の自尊心を傷つける存在だった。

 それも今日までの事。

 姫川の背後に始めの合図を送れば、三人がかりでその巨躯を羽交い締めにする。突然の事に驚く姫川は然程の抵抗もなく畳に引き倒された。

「!? 何なんだ?」
「願いを聞き入れたんだ、まさかただでだとは思うまい」
「!」

 姫川が締めていた帯を引き抜いて、その手首をしっかりと戒める。四つん這いにさせれば、顔を持ち上げて背後の俺を見やる様がなんとも傑作で笑いが込み上げてきた。

「乱取りだよ、姫川。寝技、得意だろう?」
「何を……」
「ほら、みんな相手をして欲しいってさ。稽古、つけてやってくれよ。な?」

 いい格好だな。全く。
 あの姫川が。跪いて。許しを請うんだ。この俺に。

 白濁にまみれ。目元を腫らし。ぐちゃぐちゃの顔で。あの姫川が。

 はは。
 なんだこれ。

 これが笑わずにいられようか。


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