「
ワンドロ」
冗談
第21回お題
『居眠り』
『冗談』
『ベッドの上で』
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目の前に隣人の顔があった。間近のそれに焦点が合うと同時に、あんまり嬉しそうに俺に笑いかけるもんだから、俺も何だか嬉しくなって。隙間から白い歯が溢れる唇をペロリとひと舐めしてやった。途端に驚いて目を丸くさせたお前……それから、舌の感触……。
ここは、どこだ。
途端に覚醒した脳みそが一斉に情報を処理しだす。
ここは……俺の部屋、だ。八畳一間の社員寮。何故か煌々と蛍光灯に照らされている。部屋の突き当たりに置いたベッドの上。直ぐ横にかかっている遮光カーテンの隙間はまだ真っ暗。何時だ? 朝の気配はない。ああ、十二時か。十二時……。
平日だ。普段通り仕事を終えて、帰宅して、 飯と風呂を済ませて、寝た。ちょっとむしゃくしゃすることがあったから、風呂上がりに缶ビールを2本開けた。明日の仕事に響かない程度、ってのが自分の程度を表しているようで、余計にむしゃくしゃして。ベッドに上がり、凭れ掛かった壁が火照った頬にひやりと気持ち良かったんだっけ。
……俺は今、何をした?
……というか、
「なんでお前がいる」
俺の部屋だ。
「これ」
「返せ」
「え、やだー、貸しといてよ」
以前渡したままになっていた鍵を見せられるが、そんなことじゃ騙されない。
「どこから入って来た」
「え?」
「チェーンも掛けた」
「掛け忘れたんじゃない?」
「間違いなく掛けたな。変なのが入り込まないように念入りに」
昨日に引き続き、今日も隣の電気がつかない。俺の部屋の呼び鈴もならない。俺の名を呼ぶ間抜けな声もしない。
大方、今頃は誰かのベッドに潜り込んでいるのだろう。それならそれでいい。ただの隣人でしかない俺の部屋に泊まりに来るのよりずっと自然だ。
そうイライラしながらチェーンを掛けたんだ。間違いなんてあるはずがない。
「うんとね、ここのU字じゃん?」
「あん?」
「あれさー。輪ゴムで空いちゃうんだよ」
気をつけてね? と笑いながら指鉄砲から輪ゴムを飛ばす男に頭を抱えた。
「ベッドで居眠りなんて器用なことするよね」
「は?」
「横になればいいのに」
言われて気づく。壁に凭れてそのまま落ちていたらしい。短時間だったおかげか、体に痛むところがないのは幸いか。
「壁紙の跡ー」
とはいえ、この男に感謝を述べることはないだろう。うしし、と笑う男にわざと冷たい視線を送る。俺の頬にめり込ませてくる指を関節の反対側に曲げてやれば、男が悶絶した。
「痛いよー。堪忍して」
「はっ」
「うわーん、かっこいい! 何その笑い方! はっ、ってちょーイケメンなんですけど!」
「馬鹿にしてるだろ? それ」
時間も気にせずギャーギャー騒ぐ隣人を置いて、短い廊下に歩みを進める。
「輪ゴム探しておけよ」
暗い廊下。ぺかっと冷蔵庫の扉を引き剥がして、発光ダイオードの光を浴びながら五百パックの牛乳を口に含む。まだ酔いが残っているらしく、口の中が気持ちが悪い。
「ねーねー壁に寄り掛かって何してたの?」
「は?」
「ナニ?」
素直に床に這いつくばりながら、男がニヤニヤと俺を見上げる。
「馬鹿?」
「えー、恥ずかしがる年でもないじゃん!」
「ティッシュでも探す?」
「そんなん、俺が変態みたい!」
ムンクの叫びの真似をして見せる隣人を無視して、洗面所から歯ブラシを取り出す。廊下の壁にもたれて、部屋の中をぼんやりと眺める。モショモショと口を満たすあぶくのミントが爽やかだ。
四つん這いの隣人の尻。ジーンズだ。今日はあれで寝るつもりなのか。いや、今から自室に帰るのかもしれない。そもそも、隣に住んでるのに、俺の部屋に泊まるのがおかしいんだから。
「あの壁さ」
「ん?」
ジーンズの尻が床にペタンと下された。輪ゴムをつまみ上げて見せた男がにっこり笑う。
「あの向こう、俺の部屋だよね」
「んー」
「盗み聞きでもしてたの?」
「っな!?」
口から泡が溢れて、寝巻きに白いシミを作る。
盗み聞き? 何を?
そもそも部屋に誰もいないのに何を盗み聞くというのか。
目を白黒とさせる俺に、男がカラカラと笑った。
「冗談だって! ブハッ。焦りすぎ! っはは! ほら、口漱いで来たら?」
促されて洗面所に引っ込んだ俺の背中に、男の声が追い打ちをかける。
「今日も泊めてよ、お代はさっきのキスでいいだろ」
「っげほっ…っく」
「なんなら一緒に寝ちゃう? サービスするよ」
「……ばっか!」
あははと笑う男に顔を見られなくて良かったと思う。隠しようもなく真っ赤な、この鏡の中の顔を。
「冗談だって!」
「悪質だ」
バシャバシャと顔を洗う。
本当に、男のこういうところが大嫌いだ。