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照美と晴矢



「急に絵が描きたくなってさ」
真新しいパレットと絵筆、それから水彩絵具と画用紙を抱えた照美がノックもなしに俺の部屋を訪ねてきたのは、ある日曜日の午後だった。こいつの好奇心にまみれた睛はあまり好きではない。一度その睛に見つめられれば、とたんに厄介ごとに巻き込まれると知っているからだ。照美はせっかくの休日だというのに真っ赤なユニフォームを堅苦しく着こなしている。そこには一切の乱れがなく、まさか今日は練習日だっただろうかと考えさせられてしまった。俺はポテトチップスを機械的に口元へ運んでいた手を止めて、突然の訪問者をしぶしぶ出迎えた。サワークリームオニオン味は最近のお気に入りである。
「ねえ晴矢、絵を教えて」
「なんで俺なんだよ」
「きみは絵が上手いって聞いたんだ」
風介だな、たぶん。いや、あいつ以外にあり得ない。だいたい絵が上手いってのは餓鬼の頃の話だろう。そう思いながらも、俺は今日という日の運の悪さを黙って受け入れた。宇宙人をやっていた頃に比べたら俺もかなりおとなになったと思う。
勝手知ったるというやつか、照美は俺の意見も聞かずに水を汲んだり新聞紙を広げたりしている。週に何度も押し掛けてくるだけあって、主である俺よりもこの家を効率よく使う方法をわかっているらしい。絵筆とユニフォームというちぐはぐな格好で忙しく動きまわる照美を、俺は不思議な気持ちで見ている。「暇なら鉛筆を削ってくれるかい」……暇なのは事実だったので、玩具のような色の鉛筆削りをおとなしく受け取った。がりがりと安っぽい音がする。それからあらわれた芯は笑ってしまうくらいに不恰好で、少なからず落胆した。黒鉛が一方向に寄ってしまっている。そういえば、俺は昔から鉛筆をきれいに削るのだけは大の苦手だったのだ。
「下書きは好きにしてもいいよね」
しかしそんなことはまるで意に介さず、照美は汚い鉛筆を俺の手からひったくる。俺が言うのも妙だがそんなに適当でいいのか。そのまま画用紙を広げた手元を見、俺はそれを制した。こいつは本当に絵のことを何も知らないらしい。
「紙、逆。描くのはこっちだっての」
「……そんなことが決まっているの」
「ざらざらしてる方に絵具が馴染みやすいように出来てんだよ」
案の定照美はきょとんとしている。かと思うと今度は弧をえがく唇に笑みをうかべた。
「よかった。ちゃんと教えてくれそうで」
「まだ教えるなんて言ってねえぞ」
それはどうかなあ。そうつぶやいて、長い睫毛を伏せた照美がもう一度鉛筆を握る。ぼろぼろに尖った芯が自由な線を描いていく。俺はその軌跡から目が離せないでいる。そして次には、これを塗りつぶす色が見てみたいと思った。冗談じゃない。
「この絵は晴矢にあげるよ」
汚れひとつないパレットに濃厚な赤が遠慮なく吐き出される。画用紙に踊る線たちが宇宙のようだと思った。どこか寂しくて、なのに限りがない。
「僕はあまり言葉を知らないから、こうした方が伝わると思ったんだ」
すき。その言葉とともにやさしく握られた手を払う方法は知らないけれど、絵の描き方なら知っている。だから俺は返事のかわりに宇宙へそっと色をのせた。やわらかい太陽の色だった。つながったところからふたりの色が滲み出ていく。本当にこれが照美の心だというのならば、俺はきっとこいつから離れられない。

ああ、引きよせられる。


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