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瀬方と皇



マキが空を飛ぶことが出来るというのは、俺たちにとっての希望に似たなにかだった。彼女が空を舞う姿は、言ってみれば俺たちがそれぞれに思い描く夢をまとめてかたちにしたようだったのだ。勿論、このことを大人に知られてはいけない。見つかれば何をされるか分からないからだ。ではマキ自身が大人になったらどうなるのかと訊くと、マキは悲しそうに膝を抱える。きっとマキ本人にも分からないのだろうと思う。空を飛べない俺にだって、大人になるということは未知のかたまりなのだ。
「ねえマキ、凧が電線に引っ掛かっちゃったの」
「屋根の雪を降ろしてほしいんだが」
「あそこの風船、取ってくれる?じゃないと愛が泣き止まないのよ」
慢性的な人手不足のおひさま園で、彼女はよく働いた。マキのもとへ舞い込んでくる仕事は様々で、けれど子どもたちにしてみれば大事件ばかりだったように思う。平生からひとよりかなり我が儘な面があるマキはしかし、彼女にしか出来ない仕事は決して厭わなかった。



「もういい加減にしろよ」
「ああもう、話し掛けないでよ!また一からやり直しじゃない」
そして夜になると決まってマキは誰よりも高い場所へ行く。そこできらめく数えきれないほどの星を根気強く数えているのだ。それを見守ってやるのが数少ない俺の役目であり日課だった。
不器用というか要領が悪いというか、とにかくすべての星を数えるなんてマキには無理だ。そもそも星は耐えまなく動き続けてているのだから。それでも数えることをやめないマキの表情は、いつも空を飛んでいるときに見せるものとは違い曇りきっていた。
「マキ、大人になんてなりたくない」
ふわりと俺の隣へ降り立って、彼女は肩の力を抜く。星空の下でしか見せないその儚げな横顔がとても綺麗だということは俺だけの秘密だ。
「大人のマキなんて想像がつかないの」
「心配しなくても、おまえはずっとちんちくりんのままだろ」
「なにそれ、ひっどーい!だから隆ちゃんはもてないんだよ!」
そう言うマキの瞳は大きく揺れている。彼女を不安にさせるものの正体が見えなくて、だから俺は黙ってマキにキスをした。その間も、マキの気丈な肢体は強張ったままだったけれど。
俺のやさしさや体温で、彼女の底知れない不安が消えない理由は知っている。大気に浮かぶマキを地上から見上げることしか出来ない俺の、なんと惨めなことか。だから愛も届かない。



ある冬の日の夜だった。俺はマキが今日も星を数えに行ったと聞き、慌てて外へ出た。おかしい。彼女は毎週土曜日だけは好きなバラエティー番組があるからと出かけるのを一時間遅らせるのに。
いつもの丘へたどり着いて、ようやく後ろ姿が見えた。珍しく地に足がついている。息を切らしながら駆け寄った。
「おい、」
「いや、さわらないで」
その声はほとんど悲鳴であった。触れようとしたマキの背中は、がたがたと震えている。俺の身体は反射的に一切の動きを止めた。
「ねえ、マキ、飛べなくなっちゃった」
「………マキ?」
「どうしてだと思う?」
大きな翡翠が俺を縋るように睨む。飛べない?マキが、飛べなくなった?驚きのあまり声も出なかった。なんとか彼女を落ち着かせようと差し出した手は震えを隠せないままむなしく垂れ下がる。だってそれは、俺たちの希望だったのに。あんなにも近くに感じていたうつくしい夜空が、唐突に真っ黒の化け物へ姿を変えた。
「でもね、理由なら、たぶんわかるの」
化け物を背後に、マキが泣きながら笑う。俺はなぜだか背筋が凍った。
「マキね、お腹に赤ちゃんがいるの。大好きなひとの赤ちゃん」
手のひらに爪が食い込む。
「わかる?セックスしたの。嫌じゃなかったよ。むしろ気持ち良かったと思う。でも、それが悪かったみたい。気が付いたらもう、飛べなくなってた」
マキが笑う。マキが泣く。俺はいまどんな顔をしているのだろう。子どもの俺が見ていたうねる世界のなかでも空を舞う彼女だけはいつも鮮明で、けれどそれさえも確かなことではなくなっていく。
「マキ、わからないの。マキはおとななの?マキはこれで幸せなの?ねえ、隆ちゃん」
俺は返事をしなかった。したくなかった。空を飛ぶことができるできないの話ではなく、彼女を愛していたから。新しいいのちを宿し母となる彼女に、それでもまだ純粋と希望を求めていた。途方もなく好きだった。
「幸せになりたかったの」
星たちが化け物のもつ無数の目になっていく。マキはもうそれを数えない。


/百番星忘れた

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