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∴年齢操作



昔、あたしはフルートが吹けた。自分から習いたいとねだった訳でなく、当時あたしのパパがカンリョウってやつだったから。偉いひとの子供は何だって出来なくちゃいけないっていう見えない決まりが、この国にはある。子供のあたしにはそれがよおく解っていたのだ。パパは嫌ならやめたっていいんだよって優しく言ってくれたけれど、昔から意地っ張りだったあたしはいつもやけくそになってその提案を断っていた。確かにフルートは性に合わない楽器ではあった。でも、ぴかぴかと誇らしげな銀色を放つそれを今さら真っ暗な物置に閉じ込めるなんてどうしても出来なかったから。結局あたしはそれからすぐにサッカーと出会って、すっかりのめり込んでしまう訳なんだけれど。
「……懐かしいなあ」
革のケースを静かに開けると、覚えのある古いにおいが鼻をついた。部屋中に散らばるアルバムやサッカーボール、スパイクなんかを掻き分けて何とか作ったスペースに無理矢理座り込む。久しぶりに感じた金属独特の冷たさには少し驚いたけれど、この重さも、色も、温度も、キィも、何一つ変わってなんかない。触れてすぐに馴染んでしまったあたし自身の指がそれを証明している。ああ、一番最初に習った曲は何だったっけ。
「―――塔子さん、そろそろ荷物まとまりそう?」
は、と振り返る。散らかった部屋を見渡してまだまだみたいだねと苦笑した金色の彼のもとへ、たくさんのがらくた達につまずくのも構わず駆け寄った。
「なあ照美、これ!今整理してたら出てきたんだ」
フルートを突き出すとすぐに、照美の表情がふわりと崩れる。そのほほえみが眩しくてあたしは思わず曖昧な笑顔を返してしまった。中学生のときも他の友達に比べて大人びてはいたけれど、照美はその頃よりももっと成熟した顔つきになった。実を言うとあたしはこういう甘い表情を見るのにはまだまだ慣れない。何だか胸の奥がむずむずしていたたまれなくなるからだ。そして大人になった照美はほんの少し、パパに似ている。それはあたしが生まれてから一番最初に好きになった異性。そう考えれば考えるほど、あたしは子供の頃に戻っていくみたいだ。甘えて、甘やかされて、いつだって優しい愛に包まれていたあの頃に。おかしいと思う、あたしはもう立派な大人なのに。
「今でも吹けるのかい?」
「うーん…習ってたのなんて随分昔の話だし、それは難しいかもな。でも、また習ってみたいかも」
「それがいいよ。新しい家の近くに楽器屋さんがあったし」
目を細めてこれからのことを話す照美は女の人みたいに綺麗で、けれど今のあたしにはしっかりと頼りがいのある男性に見えた。あたし自身が一緒に生きていくと決めたひと。
「じゃあ、これはフルートを吹くのに邪魔だったかな」
「え?」
その言葉の意味を訊こうとすると、ひやりと薬指に固い感触。ちょうどフルートにも似ているそれに目を瞠った。サイズが、あたしの指に吸い付いているんじゃないかと思うくらいにぴったり。しばらくびっくりして動けずにいたけれど「左手の薬指」が意図するところに気が付いた途端、あたしはしがみつくみたいにして照美の身体を抱き締めていた。楽器が危ないよと言って照美があたしの手を取る。銀色に反射したそのなかに、泣きながらフルートを吹く幼いあたしが見えた。けれど今指輪に映るのは紛れもなく現在のあたし。少し低めの体温を感じながら、あたしは過去に向かってほほえんだ。

「あたしがちゃんと吹けるようになったらさ、一番に聞いてくれよな」
今あたしは彼と一緒に満ち足りた幸せへと還っていく。足早に通り過ぎた青春を生きるうちに忘れてしまった家族の温かさを、もう一度感じに行くのだ。あたしも照美もその愛を知っているから。そしてあたしの身体と心は今日、パパではない男性のものになる。ねえパパ、パパには昔のあたしをまるごと預けておくよ。だからそのまま抱いていてあげて。フルートが上手になったらきっと会いにいくからさ。



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