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 気が付いた時にはもう手遅れだった。どうしようもない感情をぶつけることも出来ないまま日々を重ねていくことに限界を感じていた。しかし、この感情の境界線を越えてしまったら、それこそ全てが終わってしまう。そう高尾和成は分かっていた。だからこそ「後戻り」という選択肢は端から無いのである。脳内では、けたたましく警報が鳴り響いていた。

***

 放課後の教室は人気が少ない。その理由は極めて簡単で、気だるい授業の後には自由な放課後が待っているというのに、自分から残ろうとする者はそういないからだ。それにまだ一年生なのだから、居残りが必要な程するべきこともそうそう無い。従って、当然の事であった。高尾も例外ではない。普段ならすぐ部活に向かってしまう所だが、今週はテスト期間だからと、部活は自主練習のみである。先輩方は進路のことやらあって、今日は出ないと事前に聞いていたものだから、焦ることもなくゆっくり過ごしていられるわけなのである。練習したい気持ちは山々だが、たまにはぼうっと過ごしていたいと思うのだ。端から勉強は眼中になかった。
 三十分も経てば、教室は二人きりの空間となっていた。
 高尾はその間、立ち尽くしたまま、まるで獲物を狙う鷹のように鋭い眼差しで一点を見つめ続けていた。目線の先では、狙われていることに気付かぬ獲物――緑間真太郎が眠りこけていた。
「真ちゃん、」
 緑間の髪をさっと撫で、高尾は呟いた。
 こんなにも無防備な緑間を見るのは初めてだった。放課後になっても教室の机で突っ伏したまま寝ているなんてべたなことを、まさかあの緑間が。思わず吹き出してしまいそうになる。高校生らしいと言えばらしいのだが、いつもなら逆の立場なのに。なんて考えを巡らせつつ、緑間の一つ前の席に腰掛ける。既に変な気でも起こしてしまいそうだった。なんと好都合なのだろうか。逆に憎たらしくも思えてくる。
 そんな高尾の葛藤を知るはずもない緑間は、よっぽど疲れていたのだろう、すやすやと眠ったままである。
「全く…いつまで寝てんの」
 文句を垂れながらため息をつく。
 しかし、静かに寝息をたてる彼を、高尾は美しいと思った。あくまでも純粋に、である。腕の隙間から僅かに見える横顔は、きっと今まで誰にも見せたことはないだろう。そうであってほしかった。普段の気難しい雰囲気は抜けて見え、固く閉じられた瞼からは、相変わらず長い睫毛がすらりと伸びている。高尾は思わず息を飲んだ。
「……真ちゃーん」
 肩を揺すりながら再度呼び掛ける。が、どうも深い眠りについているらしく、一向に起きる気配はない。ただ、先程より少し体勢が崩れ、横顔が完全にさらけ出される形となった。年頃の学生のわりには目立った荒れは無く、妙に綺麗な肌、柔らかそうな唇――日常的に傍にいてもまじまじと見ることはなかったものが今、高尾の目の前にある。焦ってか、異様に喉が渇いている。時計の秒針と呼応するように胸が高鳴る。
 徐々に茜に染まる空が、まるで高尾を煽るかのように、二人を色めかしく包み込んでいく。
 警報は一向に鳴り止まない。それどころか増しているようにも感じる。それも全て脳内だけの話なのだが、高尾に選択が迫られていることに変わりはない。我慢の限界はもうすぐ側まで迫っていた。

***

 高尾が決意を行動に移すまでに、そう時間はかからなかった。衝動にまかせるままに、緑間へ顔を近づける。ああ、やっぱり綺麗だ、食べてしまいたいくらいに。ぼんやりと頭に浮かぶのはそんなことばかりで、やはり自分はまともではなかったのだと再認識した。
 高尾は、背徳を感じつつ、硝子細工に触れるように、そっと緑間の頬に唇を落とした。
 それはたった数秒の事だった。ただ、その瞬間、これまで積み上げてきた何かが崩壊を始める音が聞こえたような気がした。

***

 緑間が起きたのは、事から五分もしないうちだった。高尾は寝惚け眼で軽く寝癖のついた前髪を気にする緑間を見て安堵した。
 いつの間にか陽は落ち、辺りはすっかり暗くなっていた。
「高尾……何故起こさなかった」
「だって真ちゃん、気持ち良さそうに寝てるんだもん。無理やり起こしちゃ可哀想だと思ってさ」
「余計なお世話なのだよ」
 眼鏡をくい、と掛け直す仕草をした緑間の表情はややご機嫌斜めといったところか。いくらポーカーフェイスに見せかけても、微妙な表情の変化を高尾は見逃さない。緑間を背ににやりと笑みを浮かべつつ、鞄に手をかける。
「まあいい。それにしてもお前は今まで何をしていたのだよ」
 机上の整理をしながら緑間は問いを発した。
 高尾は返事に詰まった。何となく放たれた無垢な言葉は、今の高尾にとってそれほど良心にぐさりと突き刺さるものだった。無論、先程まで変な気を起こしていたなんて、言える訳がない。
「なにも、してないよ。……それじゃ、先に行ってるから!」
 精一杯の答えを吐き出し、そのまま逃げるように教室を出る。廊下は灯り一つ無く、二人がいた教室だけが眩い光を発していた。
 高尾は、ドア越しに不思議そうに見つめてくる緑間にいつも通りの笑顔を向けて、暗がりの廊下を走り出した。



警報
title:×××


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