体が知らないあいだに傾いていて、足が次第にもつれてくる。
左側に傾いていたらしく、右側を歩いていたはずがいつの間にか左側をとぼとぼと歩いていた。

聞かなかったことに、しよう。
そう考えてふらふらと家路についていたものの、大方あの写真関連のことで、桜、というのはあの中の誰かであろう、と脳内での推測が止まらなかった。
関わりないと分かってはいるのに、思考が止まらない。
考えれば考えるほど、あの瞬間感じた深くて暗い何かが絡み付いてくるようで、また頭痛がした。

やめよう。
余計な考えは。
ふつうに、ふつうに、明日、間桐先生に渡そう、お礼。


「…あ、め」

ぽつり、と予想通りに降り始めた雨は、段々に音が強くなり、アスファルトの色を変えた。
独特のにおいも強くなり、そろそろ傘を差そうかと思ったものの、リュックの中に折りたたみ傘は入っていないようだった。

は、あ。
ため息のような短い息が溢れて、歩こうとしたものの、水を吸ったローファーがやけに重く感じてきて、足が動かない。
踏み出せない。
ゆらり、と体のバランスが取れなくなって、そのまま濡れている地面に両膝をつく。
びしゃ、と嫌な音がして、じわりじわりとハイソックスが地面の水分を含んでいった。


ふと、このまま、消えてしまうのではないかと、小さく思った。


「、名字、さん?」


強い雨音の向こう側で、戸惑っているような声が、名前を呼ぶ。
顔を上げると、頭上に赤い傘が差されていて、下から覗き込んでみると、見知らぬ長身の男性が、訝しげにこちらを見ていた。

全く、知らない人、だ。
きっと、日本人、ではない。
紫がかった黒の長髪に、ディルムッドさんに勝るとも劣らない端正な顔立ち、すらりとした長身。
見覚えの無い男性をまじまじと見ているとその男性も困ったようにこちらを見ていた。


「…名字、名前、さん?」
「…は、い」

「私は、カリヤの、間桐雁夜の知り合いです。フランス、と言えば、伝わりますか?」

あ、と息を飲むと、こちらです、と腕を掴まれ、近くの公園にある屋根付きのベンチへ向かう。
全身ずぶ濡れのままベンチに座り、男性が貸してくれたタオルで体を拭かせてもらった。

沈黙を貫き通したまま体を拭いていると、男性が買ってきてくれたらしい缶の温かいココアを渡され、飲むよう促される。

言われた通り一口飲んでみると、喉から伝わる仄かな温かさは冷えきった体を少しだけ温めた。


「甘いものは時に、乱れた精神を正してくれることがあります」

私は頑として何も答えなかったが、別に、精神が乱れているわけではない、と小さく思う。
少し、驚いただけで、嫌な予感が当たってしまっただけだ。

セイバーの件もそうだ。
私は口を挟む立場ではない。
そうでなければ、双方、私がむやみに思考を張り巡らせるような事象でもないのだ。

只、頭から貼り付いてなかなか剥がれようとしないあの一言だけが、気掛かりでならなかった。


「カリヤが、」

次第に冷めてきたココアを握り締めながら前方にある雨に打たれている公園の遊具をぼんやり見つめていると、不意に、隣に立っている男性が口を開く。

ゆっくり見上げると、その人はなんとも言えない困惑したような小さな笑みを浮かべた。

「…カリヤが、貴女の話をするようになってから、よく笑うようになった気がするのです」
「……、あの人、よく、笑わないん、ですか?」

「いえ、外面的なものでなく、内面的な変化だと。あのように、普通に笑うカリヤをとても久しく見たような気がします」

呆然とした。
喜べばよいのか、または根負けして口を開いたことを後悔すればよいのか、いまいち分からない。

そもそも、私の中の間桐先生は、あの時、赤を嫌いと語った際の笑顔以外は、とても柔らかく笑顔を浮かべる人だと思っていた。

「貴女のお陰ではないかと、少なからず私は思いますよ」
「……、」

「立ち入った理由を貴女から聞くつもりはありませんが、どうか、これからもカリヤのことを気にかけてもらえませんか」

薄く微笑みながら告げられ、どうしようもない脱力感に苛まれながら、もう一度その人に向き直る。


「…少し、驚いた、だけで、どうということは、なかったんです」

「そうですか」

落ち着いた声音で返されて、ぎゅ、と缶を握りしめる。

飲み干したココアはとっくに冷めていて、生ぬるかった。

「…それに、よくしてもらっているのは、私の方、ですから」

そうですか、ともう一度、落ち着いた声が頭の上から流れるように落ちてきて、耳に入る。

「ああ、そのような状態で話に付き合わせてしまってすみませんでした。傘は渡します。私はもうひとつ持っていますので、カリヤに渡しておいてください」
「え、そ、そんな」

「貴女が風邪を引いてしまったら、カリヤが悲しみます」

どうぞ、と傘を渡され、ベンチに座ったまま呆然としていると、男性がやんわりと手を掴んで立ち上がらせてくれた。

「では、風邪に気を付けて」

「は、あ、あの、な、なんで、私だって、分かったん、」

です、か。
男性が振り向き様に見せた何とも言えない目を伏せた笑い方に、思わず語尾を口ごもる。


「カリヤから、聞いていた通りの人でしたので」

それだけ言って薄く笑いながら軽く会釈すると、その男性はそのまま私の前から去っていった。

その場に残った空き缶と赤い傘を握りしめて、私はただ遠くなり行くその人の背中を見つめていた。

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