505号室。
薄く開いている引き戸にノックをしようかしまいか。
それよりも以前に、かたかたと全身ごと、音でも立っているかのように震えていて、引き戸のすぐ目の前で、緩く握っている手はどうやら戸惑っているらしく、一向に動かなかった。
どう、しよう。
勢いで、来てしまった、けど。
迷惑、か。
今さらになって、私はまたおろおろと扉の前をさ迷う。
看護師さんや、他の見舞いに来ている人達に、不思議そうに見られた。
ぼやぼやおろおろとしていると、背後から、聞き覚えのある声が、小さく私を呼ぶ。
しかし、その声の持ち主とは、なんとなしに顔を合わせずらかったため、固まって振り向かないでいると、やわく肩を掴まれた。
思わずひ、と息を飲む。
「来てくださったのですね」
いやに嬉々とした顔を向けられ、困惑せざるを得なかった。
温かいミルクティーの缶を持った髪の長い男性は、ありがとうございます、と一度呟いてから、カリヤ、と幾分か優しげな声音で室内に向かって尋ねる。
中から聞こえたああ、という短い返答に、妙な緊張感が再び走り始め、足元で根が生えたかのように、動けなくなってしまった。
気付いているのか否か、男性はまるで野菜でも引っこ抜くかのように私の腕を掴み、病室に引き入れる。
当惑したまま、入った病室は、特有の薬品のような香りで満たされてはいたが、陽のよく入り込む、見晴らしのよい角部屋であった。
どうも中心にあるベッドの方を向けず、窓ばかりを見つめてしまう。
聞こえたは、という間の抜けた声に、向こうも同じように困惑しているのであろう、ということが手に取るように分かった。
「あ、名字、さん…ランス、なんで」
「来てくれたのですよ、カリヤのために」
ちらりと見上げた男性の表情は、横顔でもよく分かるくらいに、それはそれは綺麗に微笑んでいた。
少し、余計なことを、と思いつつ、どぎまぎしながら間桐先生の表情を盗み見ると、かなり困惑しているようで、焦りすら伺える。
そ、そこまで、困らせて、しまっている、のか。
「それでは、名字さんも、ミルクティーで宜しいでしょうか?」
「え、あ、」
「軽食なども、用意してきますね」
失礼します、と笑顔のままドアにむかう男性の後ろ姿に、ランス、と間桐先生が声を掛けていたが、聞く耳持たず、といった様子でそのまま病室から出ていってしまった。
ぴしゃりと閉められたドアの音と共に、なんとも言えない空気が流れ始め、お互いに沈黙したまま、視線すら合わさなかった。
微妙な距離を空けて立ち尽くしたまま、間桐先生の細い腕からの伸びている点滴の管を見つめていると、間桐先生は、反対側の手で小さく手招きをする。
反射的に動きそうになった体は、一度は躊躇ったものの、結局、ゆっくりと、ベッドへ近付いた。
「…ランスから、聞いた。俺の実家に行ったことと、爺から話を聞いたこと」
そう話した時の、間桐先生の視線は、どこか、遠くを見ていた。
相変わらず視線は合わないまま、間桐先生の静かで、それでいて少し震えている声が、室内に響く。
「此方の事情に、勝手に巻き込んで、混乱させて、戸惑ったよね、いろいろ」
それは、最もである。
文句の一つや二つ、投げ付けようと、何も言われない自信すらある。
そう考えたところで、逃げ出したくなるような衝動にかられたが、何とか持ち直してベッドからゆるく起き上がっている間桐先生を見据えた。
元より白い肌はいっそう白く、青くも見え、細い腕から伸びている管が痛々しげに思えた。
「…でも、もう、大丈夫、だから。時臣…遠坂先生や、爺にも、きちんと話を着けておく。もう、名字さんは、何も、関係無いと、」
頭に何か重量のあるものでも落ちてきたような気分だった。
その一字一句が、ずっしりとのし掛かってくる。
何も言えずに立ち尽くした。
「昔から良くしてくれていた使用人から、桜ちゃんに会ったことも聞いた。その事も、大丈夫だから。あの子のことも、俺が、絶対に何とかする。…これからは、どこかで会っても話しかけたりしないから」
もう、安心して、と弱々しく、言葉の割には頼りなげに細く笑った間桐先生には、少し、腹が立ってしまうくらいだった。
ずるいとも、思った。
「…駄目、ですか」
思わず口から吐息と共にそんなか細い声がこぼれ落ちる。
間桐先生は、困ったように目を伏せて、曖昧な返事をして、ごめんね、と落とした。
やはり、ずるい。
ようやく気付けたかと思えば、すぐに突き放され、挙げ句、もう関わるな、と。
気付けばぐぐ、と骨が軋むほどに拳を握りしめていた。
声を出そうと口を開いたら、震えからか、喉の奥がひゅう、と音を立てた。
「私、は、私として、間桐先生の側に、いては、いけませんか」
「…それは、」
「迷惑だということは、百も承知しています。けれど、様々な、話を、聞いた上で、私は、私自身として、次は、」
次は、と言ったところで嗚咽がもれて息詰まる。
間桐先生は、目を細めて、あの、柔らかい笑い方で、此方を見ていた。
ありがとう、と、小さく呟かれた頃には、思わず床にしゃがみ込んで、間桐先生の淡い青色のパジャマの袖を掴んでいた。
「わ、たし、は、間桐先生が、好き、なんです、と、とても」
その瞬間、それを告げた瞬間に、間桐先生がどのような表情をしていたか、見る勇気は到底なく、袖を強く掴んで、うつ向いた。
間桐先生は頭上で、小さく、もう一度ありがとう、と呟いた。
その言葉は、恐ろしいくらい穏やかで、耳に柔く、心地よく残った。
「ごめんね。ありがとう。気持ちは嬉しいけれど、俺は一応教師で、君は、生徒だから」
それは、そうだ。
最もな、切り返しだ。
突如突き付けられた現実に、涙も引っ込んだらしく、はは、ですよね、という愛想笑いのような乾いた笑いが口から飛び出て驚いた。
あ、あ、そう言えば、ふられ、た、のか、これ。
な、なんだ、この、脱力感。
何か、全身に筋肉痛のような疲労感まで広がってくる。
それでいて、どことなしにほっとしたような、妙な、安心感。
…もやりもやりと渦巻いていたことが消化できたから、か。
脱力感からきた大きなため息をついてから、ゆっくりと間桐先生を見上げて、先程のやり取りを流すように無理矢理話題を変えた。
「…あ、の、勝手なことばかり、ほざいていましたが、私、一応、とても、心配しまして、何故、救急車で、」
「あ、ああ、廊下で過呼吸を起こしちゃって。屈辱なことに、神父…言峰先生と時臣に発見されたんだ」
意をくみ取ってくれたのか、理由を話して、屈辱的に、と最後にもう一度言って、間桐先生は半笑いで目を伏せた。
ど、どれだけ屈辱的だったんだ。
「そう言えば名字さん、授業中なのに、よく来れたね。しかもこの距離、歩きでは無理だよね」
「色々、ありまして、じ、児童公園まで走って、あとは、偶然通りすがった、知人の車に、乗せて頂きました」
「え、あの距離を?」
驚いたような顔を向けてきた間桐先生に、はあ、と頷いてみせると、率直に、ありがとう、と言われたので、妙に小っ恥ずかしくて仕方なかった。
「…本当にありがとう、名字さん」
「そ、んな、こと、」
私がもごもご口ごもっていると、間桐先生は笑う。
衝動的に、その笑顔は、私へ向けてくれていますか、と尋ねそうになって慌て止めると、間桐先生は、その薄くて白い手のひらを私の頭に軽く乗せた。
「勝手なこと言ったり、辛い思いをさせてしまって、本当に、ごめんね。もう、泣いても、良いから」
「っ、あ」
それはもう、糸が切れたかのように涙が出てきて、年甲斐もなく、病院内だということも気にせず、喉がちぎれんばかりの大声で泣いた。
間桐先生はあやすように、諭すように、泣き声の止まるまで頭を撫で続けていてくるれていた。
「…ありがとう、側に、いてくれて」
どれ程走り続けただろうか。
学校から走り続け、当に三十分程は過ぎていた。
どこか騒がしい院内のロビーに、見慣れすぎて反吐が出るくらいのキャソックが見えて、思い切り舌打ちをする。
受付で看護師と話していた僧衣が出口へ向かうことを見計らい、その裾を思い切り引っ張ってやった。
そのやたら図体の大きな男は心底面倒そうな顔をして振り向く。
「…何故、ここにいる」
「貴様には関係の無い事だ。して、間桐雁夜はどこにいる」
「まさか、名字を追ってここまで走ってきたのか」
呆れたような視線を向けられ、振り払うようにまさか、と鼻で笑い飛ばしてやると、奴は若干目を細め、505号室だ、と小さく呟いた。
「行かない方が、良いのではないか」
奴は相変わらず何を考えているのか分からない表情で話す。
「…ふん。知ったことか。貴様のような雑種如きに口を挟まれる筋合いなど元より持ち合わせていない」
「そうか。では、私はここで待っていよう。後悔したお前の表情はさぞ見物だろうな」
ほざけ。
我が後悔などするか。
その無駄に屈強な腹筋に軽く拳を入れてから、踵を返し、エレベーターへと足を進めた。