当然の如く、学校を出て大通りに差し掛かったころには直ぐに目標を見失い、何度も足を挫いて、足はとうに限界を迎えていた。
しかし、それに気付くこともなく、私は只、闇雲に走る。

自分でも、分かってはいるのかもしれないが、少し、たがが切れていてしまっている気がする。
このままであれば、何れはキャパオーバーでどこか壊れてしまうかもしれない。

けれど、事の状況を脳内は理解していなかった。
周りの景色や、音。
悲鳴をあげる自らの身体の状態すら把握しきれていない。

まるでどこか、走ることが義務付けられているのかように。
前も見えないまま、この人通りの多い街中を、白昼から制服で駆け抜ける。
息は既に切れていて、吸い込まれる乾燥していて冷たい空気が喉に突き刺さり、呼吸すらままならなかった。



「、あっ」

走り続けて、先日フランスの男性に出会った公園の辺りに辿り着いた瞬間、普段、味わったことのない違った感覚が全身を電流のように駆け抜けた。
指先や、舌先までもがびりびりとしびれ始め、足はその場に崩れる。

あ、れ。
おか、しい。
何、これ。

立ち上がるどころか、指先を動かすことすらままならず、口を動かそうにも舌が回らない。
おかしい。

立たなくては、行かなくては。
腕も足も腫れていて、力も入らず、どうしようもなくなってしまった。
泣きそうになって、堪えて。
意識も身体もぼろぼろで。

で、も、




「どうしたの?大丈夫?」

凛、としていて、どこか柔らかい声が響き、心地よく脳内に渦巻く。
白いクラシックカーから顔を覗かせた女性は、私を見て、直ぐに車から降りてきた。
流れるような長い髪が陽の光に照らされて、透き通るように輝いている。

どこか見覚えのあるその人は、私の顔を見て、あ、と漏らした。
感覚の無い私の腕を取り、笑顔で支えながら立ち上がらせる。

「貴女は、名字さんね?」
「…、はい。あな、たは…」

「久しぶりね、と言っても覚えていないかしら。私はまあ、セイバーの保護者で、切嗣の妻、といったところよ」



「アイリス、フィール、さん?」

そう、と微笑んだアイリスフィールさんは私の汚れているブレザーやスカートの土埃を払ってくれた。

彼女は、セイバーと仲良くなった当初に、一度紹介してもらったことがあった。
とても綺麗で、優しそうで、柔らかく、安心感のある笑顔と、どこか浮き世離れしたの色素の薄い銀の髪と赤い瞳がよく印象に残っていた。
あの衛宮先生の奥さんと聞いたときにはとても驚いた記憶がある。

彼女は綺麗に笑いながら、私の髪をすくように撫でた。


「遅刻、という訳ではなさそうね。顔も疲れているようだし」

あ、と口ごもる。
良かったら話してみて、なんて、柔らかい声音で言うものだから、思わず、口を開いてしまった。

「…、きゅ、救急車、を、追って、いて、でも、見失って、行き先も、わ、分からなくて」

「…救急車、この辺りなら、きっと市立病院ね。急いでいるみたいだし、分かったわ、乗って」

溢すように話した私を見て、アイリスフィールさんは、一度笑ってから、私の腕を掴む。
返事をしないうちに車に押し込まれ、呆然としていると、アイリスフィールさんはしっかり掴まっていてね、と勢いよくエンジンを入れた。

ど、どこに掴まればいいのだろうか。
とりあえずシートをぎゅ、と今出せるだけの力で握りしめる。
緊張しながら握りしめていると、アイリスフィールさんがアクセルを踏んだ。
途端、ぐわり、と体が重力に逆らい、後ろに引き寄せられる。

スピード違反、という言葉が頭に浮かんだが、ミラーから見えるアイリスフィールさんの真剣そうな顔に、口をつぐむ。
しかし、車はまるで山道でも走っているかのように、上下左右に揺れていて少し心配になった。


「もしかして、学校からずっと走ってきたの?」
「…おそ、らく、は。あまり、記憶には、ないです、が」

「まあ。あんな距離を。どなたかご家族が?」

あ、とシートを握る。
ゆっくりと首を振って小さな声でいいえ、と言うと、アイリスフィールさんとミラー越しに目が合って、慌てて目をそらした。
アイリスフィールさんは困ったように笑って、何かあったのかしら、と諭すように聞いてくる。

ミラー越しに見えたその時の表情が、酷く綺麗で、開きかけた口は、油を差していないブリキのようなぎこちのない動きで、ぽつりぽつりと動いた。



「…す、き、だと、思える、人が、いて、とても、優しく、して、くれて、けれど、私は、か、かわりで、その人の、大切な、人に、似ている、から、優しかった、だけで、」

まがい、物で。
話しているうちに、熱くなってきた目元を押さえる。

「わ、たし、を、見て、くれて、いない、の、わかっ、て、る、のに、気付いたら、後を、追って、いて、でも、私自身、として、会う、なんて、無理、で」

「その人のこと、とても好きなのね」


涙でくしゃくしゃになった顔を押さえて、大きく頷いた。

好き 、だ。
きっと、訳が、分からなくなるくらい。
自分でも、知らないうちに。
馬鹿げている、とは思う。

そもそも、私は沢山の中の一端の生徒であり、私が好いた相手は教師であった。
両者の立場は決して対等ではない。
良いところで、憧憬の念止まりである。

改めて自分の無謀さに気付き、少し落胆してしまった。
そんな表情を見越してか、アイリスフィールさんは生徒会長とはまた違った輝きの赤い瞳を細める。



「私にはこれくらいしかかける言葉も見つからないけれど、貴女は貴女よ」

きっと、いつもの貴女のままで大丈夫、とアイリスフィールさんはまるで年端もいかぬ少女のように笑いながら、こちらに振り向いた。

振り、向い、た。
ハンドルを、握りしめながら、振り、向いた。


「あ、アイリスフィール、さん!前、前を見てください!」

あら、なんて言いながらアイリスフィールさんがブレーキを踏むと、クラシックカーは形に似合わずけたたましい音をたてて、急停止する。

何ともいえぬ浮遊感が抜けきらないまま辿り着いた場所が、病院と理解するまでに少しの時間を要した。


「さ、ついたわよ」
「は、はい」

ふらふらした千鳥足で車から出ると、アイリスフィールさんは私の肩をゆるく握ってからふわりと前に押す。

私がよたり、と覚束ない足取りでバランスを取ると、アイリスフィールさんはあの安心感を覚えるような笑い方でこちらを見ていた。

「急いでいるなら、早く行かないと」

「…、あ、あり、がとう、ござい、ます」

大きく頭を下げて、もう一度、痛む節々をなんとか動かし、小走りで病院へと向かった。


「…きっと、きっと大丈夫よ」




この辺りでもなかなか大きい方の市立病院のロビーは、時間帯もあってか、少しざわざわしていた。

恐る恐る、受付にいる看護師さんに学校名と間桐先生の名前を伝えてみると、看護師さんは思い出したように、ああ、と返事をした。

「さっき運ばれてきた、間桐さんね。505号室にいるわよ。意識もはっきりしているそうだし、容態も安定しているみたい」

少し笑った看護師さんを見て、ほっと胸を撫で下ろしたと同時に、何か緊張感のようなものが駆け巡り、もともと疲れきっている足が、よけいに強張って、踏み出せなくなってしまう。

私、が、私、と、して。
会いにいっても、いいの、だろうか。

また泣きそうになる。
今日は、朝から本当に泣いてばかりだ。
な、情けない。
高校生にもなって。


なんとか涙を引っ込めて、看護師さんに一礼してから、エレベーターの前に立つ。
震える指先でボタンを押し、ぐ、と拳を握りしめた。

はあ、と深く息を吸う。
これは、ひとつの、決着。
私が、決め、る。

意を決し、1階に到着したエレベーターに乗り込み、5階のボタンを強く押した。

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