深緑が似合うと言ったのは、私に向けたものではない。
あの優しげな笑顔も、私に向けたものではない。
あの眼は、私を、見ていない。
顔を両手で覆いながらふらふらと廊下を歩いていると、角からぱたぱたと先程の女の子がこちらへ向かって走ってきた。
ああ、この、女の子は。
だらしなく首にかかっているだけの私のマフラーを、女の子は小さな力で引っ張っる。
「…お姉ちゃん、大丈夫?」
女の子は不安げな面持ちと声音で、小さく尋ねてきた。
絶対に泣くまいと強張っている顔の力を緩めて、少し笑いかけながら頷くと、女の子は安心したようにひとつ、息をつく。
しゃがんで目線を合わせながら、やんわりと頭を撫でてみると、女の子は目を細めた。
「桜、ちゃん」
「私の名前、知ってるの?」
「う、ん」
そう言うと、桜ちゃんは、何かためらうように私の方を見て、あのね、と小さく声を出す。
ん、と首をかしげて耳を寄せてみると、桜ちゃんは耳元でささやくように私に伝えた。
「…あのね、お姉ちゃん、似てるの、あのひとに」
「、そうみたい、だね。私、あんなに、綺麗じゃ、ないのに、桜ちゃんの、お母さんみたい、に」
「…ううん。あのひと、お母さんじゃない。そう呼べるひとは、もういないって、お爺さまが」
目の前にいる小さな女の子から発せられた、その言葉に、思わず悲鳴が漏れそうになる。
そんな、。
こんな、小さな、女の子が、そんな、そんなこと。
あ、あ。
おかしい、おかしい。
全部、おかしい。
どうしようもなく、泣きたくて、泣きたくて、堪らなくなった。
膝立ちのまま、桜ちゃんの小さな手のひらを両手で包み、そのまま、顔の前に引き寄せる。
桜ちゃんは少し困ったような顔をして、お姉ちゃん、と小さく溢し、顔を覗き込んだ。
「お姉ちゃん、泣いてるの?」
殺して押さえつけいる嗚咽のせいで、声が出ない。
ぼたりぼたりと私の目から落ちる水滴を見た桜ちゃんは、するりと細い指で私の髪をなでた。
「…お姉ちゃんは、また、ここに来てくれる?」
「、うん、くる、絶対」
涙や鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をリュックに入っていたタオルで拭いていると、桜ちゃんは廊下の突き当たりの方を見て、あ、と私の服を引っ張った。
「お姉ちゃん、ここにいたらだめ。お爺さまが来てしまう前に、ここから出ていかないと」
「、でも」
「だめ。私は大丈夫」
こっち、と裏口のようなところまで手を引かれて案内され、入ってきた大きな門とは反対側の、小さな門の前へと辿り着く。
桜ちゃんはここから出て、と私の手を掴みながら言った。
「あり、がとう」
「うん。今度来るときも、ここから入ってきてね」
桜ちゃんはそう言うと、するりと、落とすように手を離す。
まるで、振り払うかのように。
つただらけの小さな門の外に出ると、桜ちゃんは、今までのどれよりも大きな声を出して、お姉ちゃん、と私のことを呼ぶ。
振り向いて見てみると、桜ちゃんは一度うつ向いてから顔を上げて、ワンピースの裾を握った。
「…お姉ちゃん、またね」
「、うん、また、ね」
笑いかけると、桜ちゃんは手を振って、裏口の戸を閉めた。
私も、とぼとぼと重い足を引きずるように家路につく。
今日は、色々なことがありすぎて、思考が、追い付かない。
まがい、もの。
頭の中に響いて、やまない。
それは、間桐先生にとっても、桜ちゃんにとっても、同じ。
私は只の代わりでしかなくて、決して本物にはなれない。
なら、いっそ、二人の前から、いなくなった方が、距離を置いた方が、いいのでは、ないか。
まがいものが、いたら、二人は、もしかしたらと、考えて、しまうのかも、しれない。
私、は、
「、名字さん!」
酷く慌てた声が聞こえたかと思うと、ふらふらとしていた体が柔らかく支えられていた。
息を漏らしながら顔をあげてみると、驚いたような表情でこちらを見ている長髪の男性がいる。
あ、あのひと、だ。
「あ、」
「先程、屋敷に入っていくのを見かけたのですが、正門は門前払いでして、裏門から入ろうとしたんです。そうしたら貴女が今にも倒れそうな足取りで歩いていて」
何故屋敷に、と息を切らして少し汗を滲ませている、その端正な顔立ちに似つかわしくない風貌に、視界がぐらついて、思わず手を振り払ってしまう。
はあ、と荒く息を吐きながら距離を置くと、その人はまさか、と言って、絶望したような顔をしてこちらを見ていた。
「…知って、いたんですか」
「それは、」
「まがいもの、で、穴埋めをしようと、していたんですか」
それを、知っていて、私のお陰だなんて、言ったんですか。
それは、とその人は顔を少し歪めて絶句していた。
あ、あ。
悪くない、のに。
この人は、悪くない。
けれどこうして恨んでいないと、私、という存在が無くなってしまうような、そんな気がした。
「…全部、知っていましたよ。カリヤが幸せなら、それで構わないとも、思っていました」
その人は薄く、冷たく笑いながら、私の方を見た。
今日、何度も味わったその表情に、最早何の感慨もわかない。
返すように、薄く笑う。
「長年想ってきた女性をいきなり現れた見ず知らずの男に取られ、せめて幸福に、と願ってきた人達の幸福も奪われ、カリヤは憔悴しきっていました」
「……」
「そこに現れたのが貴女で、本当に、本当に、久しぶりに見たのです、カリヤのあの笑顔」
噛み締めるように言う。
私は表情を変えず、その様子を何も言わずに見つめていた。
「そこで、それで良いと、思ってしまったのでしょうね。自分の出来なかったことを簡単にしてしまった貴女に、もちろん嫉妬心を抱いたりはしましたが」
「、あ」
落とすように話すその人に、思わず、ごめんなさい、という言葉が口から溢れてしまった。
本当に私は、何も、知らない。
何も知らないくせに、勝手なことばかり、述べ立てて。
口元を押さえ、もう一度、ごめんなさい、と後ずさった。
その人は小さく笑う。
「決して、謝罪なんかが欲しい訳ではないんです。貴女は何も、悪くはないのですから」
「、で、も」
「いいえ。貴女は貴女であり、あの人とは違う、一人の人間です。事実を見ようとしなかった私達に、責任があります」
「…なら、私、は、もう、間桐先生の、側に、行っては、いけませんか。もう、桜ちゃんに、会っては、いけません、か」
「それは、どうか、貴女自身に決めて頂きたいことです。事実を知った上で、貴女が貴女として、二人と接してくれますか」
尋ねられて、何も答えられずに、うつ向いてしまう。
一体、これらの出会いの、何が、いけなかったのだろうか。
何が、わるい。
誰が、わるい。
何を憎めば、何がわるかったら、私が私として、あの二人の前にいてもいいのだろうか。