「綺礼!」
「…何事だ」
「名字はどこだ!」
「彼女なら十分程前にここを出て行ったが、何か用か」
「勘違いするでない!ブレザーだ!ブレザー!このままでは我が寒いではないか!」
「勘違いなどしていない。お前のブレザーは彼女が持っていった」
「なんだと」
お、大きい。
まるでお城のような洋館の前で、思わず立ち竦んでしまう。
いや、ここで、間違いは無いと、思うんだけど、多分。
地図の通りだし。
でも、どうやって入るんだろう、こんな大きな家。
なんか、警備とか、メイドさんとか、いたりするのかな。
インターホンも見付からないし。
門前でおろおろしながら立ち止まっていると、大きな門の向こう側から、小さな女の子が一人、こちらをうかがっていた。
「…あの、何かご用ですか」
「は、あ、いえ、間桐先生は、間桐雁夜さんは、いますか?」
「…おじさんはいません」
「、え」
「おじさんは、ここから出て行ったから、私は代わりなの」
「ど、どういう?」
訳も分からず、目をしばたかせていると、女の子はお爺さまに聞いてくる、と言ってぱたぱたと門の奥へ走っていってしまった。
あ、と小さな背中に声を掛けても遅く、女の子の背中を見つめながら呆然と立ち尽くす。
どうしようか、ときょろきょろと辺りを見回していると、急に門が電子音をたてて開いた。
驚いて後ずさると、先程の女の子がこちらを覗くようにして見ながら手招きをしている。
「お姉ちゃん、お爺さまが、入ってきてもいいって」
「、え」
「お爺さまは客間にいるよ。客間は玄関をはいって右」
え、ともう一度聞き返すように言うと、女の子は私のマフラーを引っ張って口を耳元に寄せると、お爺さまには逆らっちゃだめ、と小さくそう呟いた。
女の子が手放したマフラーが風で柔らかく宙を舞い、それに気を取られているうちに、女の子はまた走っていってしまう。
「あ、待っ、」
訳も分からないまま取り残され、取り敢えず言われた通り客間に向かう他無くなってしまった。
重くて大きなドアのかぎは開いていて、腕に力を入れると、鈍い音をたてて中が見えてきた。
お邪魔します、と出した小さな声は広い玄関に響いて消える。
そろそろと右に曲がってみると、赤い絨毯の向こうにひときわ大きな扉が見えてきた。
ノックをするための重い金属の輪を二度、鳴らしてみる。
どぎまぎしていると、入れ、という低くしゃがれた声がした。
「…雁夜の生徒だな」
「あ、あの」
大きなドアを開けてみると、背丈の低い老人が椅子に座っており、その窪んでいる眼球が光を帯びているのを見て、ぞっとする。
勇気を振り絞って、からからの喉から絞るように声を出した。
「あ、ま、間桐、雁夜、先生は、いらっしゃい、ますか」
「奴はとうの昔に全てを捨ておきこの家を出て行きおったわ」
「、え」
う、そ。
だって、言峰先生が、地図、かいてくれたのに。
握りしめていたメモ帳を焦って見返していると、その老人は楽しそうに口元を歪めて笑っていた。
はっとして急いでメモ帳を隠すと、老人はますます愉快そうな笑みを浮かべてこちらを見る。
あ、う、と言葉に詰まり、お辞儀をしてドアノブに手をかけた。
背中を這うように、低い声が響いてきて、背中が粟立つ。
「そう急くな、小童」
「え、あ、」
「噂は予々聞いておる。貴様、近頃雁夜めと親しいらしいな」
「う、え、と」
「いや何、貴様を責めてなどおらん。寧ろあの様な出来の悪い息子の相手をしてくれておることに感謝しているくらいだ」
全く、真意が読めない。
全身を寒気が這いずり回るような、とても、嫌な感覚。
蛇に、睨まれた、かえるとは、よく言ったものだ。
口元は歪んだままで、笑んでいるとも取れるその表情を長く眺めていることは出来なかった。
部屋から出るタイミングを失った私は其処に座れ、という声に促され老人の向かいのソファに座る。
メイドさんらしき人が出してくれた温かな緑茶に口を付ける。
仄かな苦味に口をすぼめていると、老人は笑んだままの口元で小娘よ、と切り出した。
「…雁夜に何か言われたな」
「、っ」
あ、れ。
何故。
知って、いる、の。
なん、で。
暖かな室内にいるはずなのに、何故か背中にひやりとした水滴が伝って、背筋が伸びた。
震える手で湯飲みをテーブルに置くと、老人は低く笑う。
「そのくらいのこと、いくらでも調べがつくものよ」
「う、」
「そこで貴様は大方雁夜に言及でもしに来たのであろう」
「それ、は」
見透かされて、いる。
その口振りに何故か無性に目頭が熱くなってきたが、何とか寸手のところで押さえ付ける。
そのまま顔をうつ向けた。
老人は自分の前に置かれた緑茶を一口飲み、私を見据える。
「まあ、雁夜は頑として何も答えないであろうな」
「……」
「知りたいか?小娘」
は、と息を飲んだ。
顔を上げてしまいそうになったのを必死で堪えて、うつ向いたまま首を小さく横に振る。
聞きたくない。
聞きたい。
なら構わんが、とまた緑茶を啜った老人に、堪えきれず、勢いよく顔を上げてしまった。
あ、と浅く息を飲んだ頃にはもう遅く、私の両目は、聞きたいと請うように、色を変えた。
「もう少々抑制の効く小娘かと思ったんだがな。まあよかろう。その目の色は及第点だ」
底冷えした水のように冷たい声から淡々と紡がれる、私のような一般庶民とは掛け離れた名家の理想と概念に頭は追い付かない。
養子だとか、跡取りだとか、まるで次元の違う話をされ、大きな溝のようなものを感じた。
ああ、なら。
さっきの、女の子、あれは、そうだ、写真の、女の子、だ。
「そこでだ、何故雁夜がその件に至り強く執着しているか、そこを話せばまた遡るわけだが」
「……」
「桜の実母である禅城の血統は、家柄としては秀たるものではないのだが、それが母体となれば取り分け優れたものになる。遠坂も目敏いものよ。間桐よりは遅々としていたが、目を付けおった」
ぼんやりと、写真の中にいた綺麗な女性が頭に浮かぶ。
とても、きれいな人。
今でも頭の中に残るくらい、それはそれはきれいな人だった。
「当然だが、あの出来の悪い雁夜と遠坂の長男とでは、人間としての造りの差は歴然としておる。その後の事は見据えた結果」
「なら、まだ、」
「あれは盲信、偶像崇拝の域であり、考えが破綻しておる」
盲信。
偶像崇拝。
破綻。
自分の知っている間桐先生とは大きく掛け離れている。
「だがあれも一端の人間の振りをして、仕様の無いと次に女とその子供らの幸福を願った」
「それを、遠坂先生、が」
「話を持ち掛けたのは此方だが、すんまり受け入れたのは遠坂の現当主、あれにとってはそれが癪であったのだろうな」
「そんな、」
苦い。
思わず歯噛みする。
それはあまりにも私にとっての現実から掛け離れていて、あまりにも苦すぎる話だった。
「そこで貴様だ小娘」
「え、わた、し」
「貴様を使って遠坂は雁夜に追い討ちをかけよったのだろうな」
「え、」
「貴様、感付かなかったか」
老人は、またあの、全身がぞっとするような笑い方で、笑う。
何、を。
思い当たる節が、無い。
何故だか、聞いてはいけないような気がする、とても。
耳を塞ぎたくなる衝動をぐっと堪えて拳を強く握った。
「あれは貴様を砂を吐くほどに甘やかしていたであろうが」
「それ、は」
「理由は分かるか?」
わから、ない。
ゆるく首を横に振る。
薄々、感付いては、いたけど。
確かに、あまり、近しい訳でもないのに、とても、優し、かった、気は、していた。
けれど、皆にそうかと思って、どこか淡い期待めいたものを、打ち壊す、みたいに。
老人は、続ける。
「貴様は、紛い物だからだ」
「まがい、も、の?」
「未だ気付かぬか。貴様は似ておるのだ、あの禅城の娘、否、遠坂の妻の女にな」
「、あ、」
「雁夜の真意はそれよ。貴様をあの女と重ねていたのだろう。そして概ね、感付いた遠坂めにそれを詰られたのであろうな」
「だから、私、」
だから、私、は。
何か、重い箱が開いたような鈍い音と、何かが崩れる音が、同時に頭に響いてくる。
あ、あ、あ。
堪えきれなくなって、耳を塞ぎながら部屋から飛び出した。
・情報の流れは大体
綺礼→時臣→爺
因みに神父は知っててここまでの地図をかきました
まさに外道