「っ、くしゅん」
「大丈夫か、名前」
セイバーが此方を心配そうにしながら見てくれていたので、へいき、と笑ってみせた。
どうやら、昨日雨に当たったせいで、風邪を引いたらしい。
鼻はぐずぐずいっているし、声も少しがらがらしている。
熱出たら嫌だななんて考えながら席に着くと、隣の席の雨生くんがこちらをまじまじと見ていた。
「風邪?」
「うん」
「顔赤いね。熱は?」
「ない、よ。たぶん」
お大事にね、と言ってから雨生くんは小さく笑う。
わ、優しい。
勢いよくうなずいた。
ふだんはあんまり話さないからよく分からなかったし。
なんか美術のキャスター先生とよく放課後の美術室で何か作っているようだけど、良いとして。
今の風邪は長引くからね、そうなの、なんて少し話をしていると、がらりと教室のドアが開けられて、遠坂先生が入ってきた。
びくりと肩が跳ねて、少し高くなっていてふやふやしていた体温が、一気に下がってゆく。
日直が号令をかけて、普段通り、いつも通り、一日が始まる。
遠坂先生が笑顔を含んだ表情で言葉を紡ぐ度、冷や汗のようなものが出てきて、背中を伝った頃には流石に少し焦った。
「名字さん?平気?」
「う、うん。気に、しないで」
震える手を隠しながら、雨生くんに貼り付けたような笑顔を見せると、無理しないでね、と困ったように言ってくれた。
取り敢えず朝を乗り越えても、授業中、脳内は何故かふやふやしていて、集中できなかった。
昼休み、セイバーに保健室へ行くことを進められたものの、意地を張って職員室へ向かう。
「あ、言峰先生、こんにちは」
「ああ、君か」
職員室へ向かう目的であった言峰先生は、廊下を歩いていて資料室へ向かっているようだった。
ちょうどよかった。
一息ついてクッキーを手渡すと、少し驚いたような顔をされる。
「…本当に作ってきたのか」
「あ、はい、あの、あ、甘いものとか、嫌い、でしたか」
「いや、特に」
有り難う、と言峰先生が包みを受け取った瞬間、資料室のドアが開いて中からよく見知った赤いスーツの男性が出てきた。
思わず身震いをしてしまう。
「ああ、綺礼、こんな所にいたのかい。あれ、やあ、名字さんも一緒だったんだね」
「、こんにちは」
「申し訳ありません」
「いや、気にすることはないよ。それから名字さん、この間のクッキー、とても美味しかったよ。塩味がよくきいていたね」
「う、え、あ、そんな」
にこにこと毒気の無い笑顔を向けられ、身構えていた分、少し拍子抜けしてしまった。
はは、と笑いながら否定していると、遠坂先生は頭に疑問符を浮かべた表情で私を見ている。
わ、忘れてた、このひと、普通にいいひとなんだった。
ざ、罪悪感が。
萎縮していると、言峰先生がす、と間に入ってくる。
「師よ、時間が」
「ん、ああ、そうだったね。すまないね、足止めしてしまって」
「い、いえ、あ、それでは」
頭を下げ、逃げるようにして生物室へ向かった。
息も絶え絶えになりながらドアの前に立ったまではいいものの、開ける勇気も無ければノックをする勇気も私には無い。
深呼吸をしてみたものの、風邪気味のためか、ぜえ、という荒い息しか吐き出せなかった。
ふう、ふう、と心臓の辺りを押さえながら浅い呼吸を繰り返していると、胃まで痛くなってくる。
う、と息詰まりながらさてどうしようかと考えていると、背後から、控えめに、名字さん、という小さな声が聞こえた。
勿論、全身が跳ねた。
「あ、また驚かせた?」
ばっくばっくと大きく動く心臓を押さえながら生物室へ入る。
間桐先生は苦笑いで温かいかりんの飲み物を渡してくれた。
「走ってきたの?」
「は、はい、一応」
「息が荒れているから、これ飲んで落ち着かせて」
「あ、ありがとうございます」
「なんか、名字さんのこと驚かせてばかりだね」
思わず、かりんを吹き出してしまいそうになった。
まあ、はは、と乾いた笑いを浮かべながらかりんをがぶりと飲むと、熱くてひりひりと喉が痛む。
何か、話題を変えるもの、は、そうだクッキーだ。
握りしめていたふたつの包みをおずおずと出すと間桐先生は不思議そうに首をかしげた。
「わ、たし、化学のテスト、100点だったんです。ま、間桐先生の、おかげで、あの、こんなものくらいしか無いですが、いや、えと、甘さは控えめです」
「え、俺に?」
「は、い」
どうぞ、と渡すと、間桐先生は一瞬目を丸くして、すぐにきれいな笑顔になった。
この前のセイバーに似通ったそれに、眩しさを感じる。
「そんな、気を使うこともないのに。でも、ありがとう」
「いえ、あ、その、もうひとつは、フランスの方に、渡してもらっても、良いですか」
「え、ランスに、ああ、確か会ったって言っていたな」
「あ、はい。傘を貸していただいたので、そのお礼に。あの、傘は乾かしているので、明日、間桐先生に渡しても良いですか」
「はい。分かったよ」
資料やファイルが散らかっている机に包みを置いた間桐先生は、少し机を見てから、あ、と思い出したように声を出して、名字さん、と嬉しそうに言った。
「手、出してみて」
「え、」
さらり、と音をたてて両手のひらに落ちてきた銀色の何かを広げてみると、小さくて丸い、深緑の石のついたネックレスだった。
わ、と小さく声を出して、それをまじまじと見てみる。
銀色のリングの中に丁度石がはまるようなデザインで、きらきらと輝くそれに目を奪われた。
「これ、は」
「名字さんに、いつものお礼」
「え、」
「いつも話し相手になったりしてくれるから、ね」
思わず輝くネックレスを押し返すように返してしまった。
お、おそれ多い。
お菓子や勉強、メロンパンの件において寧ろ世話になっているのは私の方だという旨を伝える。
間桐先生は、笑っていた。
「じゃあ、100点取ったご褒美。ならいいだろ」
「う、で、でも」
「いいから」
半ば強引に押し切られる形で、ネックレスは結局私の手の中できらきらと輝いていた。
私なんかに大変勿体無いが、促されて付けてみる。
「やっぱり似合うね、深緑」
伏せるように目を細めたその表情に、ぞわりと背中が粟立って、思わず顔をそらしてしまった。
う、あ、としどろもどろにしていると、間桐先生はやんわりと笑って、するりと頭を撫でる。
「わ、あ、あ、あの、ありがとう、ございます」
「うん。じゃあそろそろ授業だから、もう出ようか」
はい、とふやけた顔をどうにか隠そうと口元を押さえて間桐先生の背中に着いていった。
胸元できらきらと光るそれを見ていると、その後の授業の内容は全く頭に入らず、エルメロイ先生に注意されても、それすらどうということにも感じなかった。