賑やかな孤独
初代ファミリーの肖像画は、ボンゴレが拠点とする古城の一角に飾られている。その一一角はU世の意向か、部下の配慮か、ボスの執務室や会議室といった組織にとって重要な決定が行われる神聖な場とは真反対に位置している。おかげでいつ来ても静まりかえっていた。ゆえに、額縁の中の彼らはただ静かにたたずんでいる。不思議なことに、どこから見ても目線が合うことはない。怒り、憎しみ、悲しみ。そして確かに傍らに寄り添っていた愛やそれが与える喜びもあったはずなのに、その一切を感じさせない各々の表情。
彼らは「ここ」には、いないのだ。ここにいても彼らを感じることはない。
かつて、私達9人はボンゴレにいた。大空、嵐、雨、晴、雷、霧、雲、花、そして私は虹、として。すべてのことを微笑みながら語ることができるほど、遠い昔の話だ。
私は肖像画から視線を逸らし、隣を見やる。黒いステッキを突いてやっと背筋を伸ばしている老人は、尚もまっすぐ肖像画を見ていた。
私は微笑む。昔の話をしよう。若き日の彼はボンゴレきっての切れ者で、心身の強さだけではなく卓越した知識量とその明敏さから最強の守護者と謂われていた。孤高の浮雲と謳われただけあって私達と足並みを揃えることは稀だったが、最後はファミリーの為にとその力を揮う勇敢な同志だった。もっとも、当時の彼が私達を同志と思っていたかは私の願望に過ぎない。なにはともあれ、これは昔の話。少なくとも今の私達は同志というには情熱を失った昔者同士――「まさに肖像画の中の人物」である。
旧友のプラチナブロンドであった髪は一層白く輝いている。イタリアの、ボンゴレファミリーのあるがままを見つめ続けた冷たく凛々しかった彼の目つきは変わった。瞼のたるみと目尻の深い皺が彼を好々爺に思わせる。しかし、変わりゆくボンゴレファミリーを高みから見下ろすそのヴィオーラの瞳は今も鈍ることがない。
「二人だけになったね」
彼はきっと、その目に映るただの事実をなぞって述べただけに違いない。私も「そうね」と答えることでこの事実を受け入れる。私とジョットの子が、彼と緋色の子が、大人になる分、私達は老いたのだ。そうでなければ彼の口から悲哀じみた言葉はこぼれない。
ああなんて悲しい日だろう。私達はついに太陽を失った。墓地に続く丘の麓まで参列者が並び、私たちの神父を弔う。ナックルさん、私達を導く日輪。最期まで世の為人の為に尽くした敬愛すべき友。
いよいよ私たちは二人だけになった。あまりにも儚く、しかし私達に強く美しい愛を残して逝った緋色。U世の時代になって数年、D・スペードのあまりに早すぎる不審な死。遠い海の向こう、桜の木のそばで眠る最愛のジョット。雨月の訃報は、私がイタリアに戻ってから3年後の冬に届いた。私はランポウの葬儀にだけは出ることはないだろうと思っていた。けれど去年、不慮の事故で彼はこの世を去らねばならなかった。G、彼の死を偲び故人の昔話に花を咲かせることができるほど残された者の傷が癒える前に、ナックルさんまでもが亡くなった。
今ここに残るのは私と、アラウディ。最後にここに一人で立つのはどちらだろうか。年のせいかふと瞼が重くなる。白昼夢を見たように、今日と同じ喪服に身を包んでここに立つ彼の姿が浮かんだ。それはきっと、正夢になるのだろう。
「アラウディ。いよいよ医者に言われたわ、私も長くないの」
「わかるよ。今日参列するのも精一杯だったろう」
そう言ってアラウディは杖を突いた手と同じ肘を差し出す。私は少し間をおいてその肘を借りた。躊躇ったのは、彼の若妻が今も私達を見守って――永い時を待ってくれているからだ。(ごめんなさいね、今だけよ。)
「ダメね。悟られてしまうようでは……」
「元気そうで何よりだとV世が言っていた」
「そう? ならいいわ。よろしく伝えて」
言った矢先に私は咽てしばらくその場で咳込んだ。医者の言うことは聞くものだと、今になって後悔する。診療を受けろと言われて1年。年を取って頑固になったことにも気付かず、白旗を挙げて医者を訪ねたときは手遅れだと言われた。
もうすぐ会えるわね、ジョット。無表情に映る若き日の彼が、今はどこか穏やかに微笑んでいるようにも見えた。
「……次は、独りになったとその言葉を向ける相手もいないのよ」
「どうだろうね。緋色がそばで聞いてくれるだろう」
アラウディは、自分の肖像画に目もやらず、最期の時と同じ姿のままそこに切り取られた緋色を見つめていた。愛おしげに、ゆっくりとまばたきをして、心で語り合うように。
その「ふたり」の姿は、緋色が生きていた頃と変わらない。私達ばかりが老いてしまったが、彼らはずっと夫婦であり続けた。
「あなたってホント……ちっとも独り身っぽく見えないわ」
私はそうして彼の肘から手を離し、それぞれの肖像画に背を向けた。二度とここに来ることはないだろう。私にとって今のボンゴレは、生家のない故郷だ。
「独りじゃないからね」
背中で聞いたアラウディの声は弾んでいた。私に向けられた声ではない。どこかふわりと宙を舞ったその言葉が、きっと緋色に届いたのだろう。あるはずのない花の匂いがした。
*
あの会話が僕ら最後の会遇だった。
近代化の波はこの町の手前で引いている。数十年ぶりに訪れたカラブリアの古巣にて、彼女の葬儀は慎ましやかに執り行われた。
色とりどりの花で彼女を囲いながら、僕は初めて彼女に出会った遠い日を思い出そうとした。しかし老いたものだ。あれは春だったか、秋だったかすら定かでない。記憶は白く霞みがかっている。海が見える汽車に乗り、彼女をナポリまで連れた。よく喋る女だった。まさか50年来の付き合いになるとは、あの時誰が想像したであろうか。もっとも、僕が彼女の寝顔を見るのは、彼女が棺の中に収まるこの時まで一度としてなかった。その程度の関係だ。虹は、儚く消える。病に侵された彼女の最期はまさにそうであったかもしれない。だがしかし、その生き様たるや、儚いなどと言えようか。ドン・ボンゴレの恋人としてイタリアの裏社会に足を踏み入れ、やがては虹の守護者として最後のリングを授かった。誰かに言わせれば彼女は「ボンゴレの母」である。間違いではないだろう。ボンゴレを組織したジョットの最初の願いは彼女を守ることだった。彼女もまた彼のその想いを受けて、ボンゴレを愛した。ジョットが作ったボンゴレが、彼がイタリアを去った後に姿を変え行く中で、彼女は彼に代わってボンゴレリングに宿るその意思を守り続けた。
「いよいよ一人だ」
9枚の肖像画の前で思わず独りごちた。身体も、そして心も年老いたのだ。
記憶の中の姿と変わらない、緋色の肖像画の前に立つ。君に会えず半世紀が過ぎた。今行くよ。そう言ったら君は笑ってくれるだろうか。いいや、静かに首を横に振るだろう。エルザが来たばかりだ、と、僕は突き返されそうだ。50年分の土産話があれば、君を退屈させることはないだろうに。
それに僕は、まだ逝けない。緋色が僕に遺した愛は、僕が育み、思い返せばあっという間にこの手を離れた。離れてもなお、僕をこの人生にしがみつかせるだけの強い愛だ。取り残される絶望も、同時に与えられた生きる意味も、決して僕が独りにならないための彼女の“呪い”。いよいよ誰もいなくなった。だからこそ五感を研ぎ澄ませば、淡い夕日の仄明るさに、輪郭のない光がつくる物言わぬ闇に、黄昏時の鳥の小唄に、あるはずのない花の香りに、君を感じ、僕に孤独を忘れさせる。
top