ごまかし



「エリザ!」

ドアが勢いよく開け放たれて、顔を真っ青にしたボスが飛び入ってくる。ベッドから動くことを禁じられた私は、顔だけそちらを向けて力いっぱい笑って見せた。大丈夫です。そういうと、ボスはとても困った顔をした。

「無理をして笑わなくていいんだ。チェラーゾファミリーの一派にやられたとは聞いているが、まさかこんな……」

ボスはベッドの脇の椅子に腰を下ろしてうなだれる。私が大丈夫だという度に、私の頭部の包帯にボスの視線が向いてしまう。
ボンゴレファミリーに加入して1年。ボンゴレの敵は気付けば増えてしまっていた。とはいえ私はこのボンゴレ本部の使用人のようなもので、戦いの場に赴くことはない。今日はたまたま、買い出しにでた先でボンゴレが敵対するファミリーの男ともめてしまっただけなのだ。
私は普段、ボスとは関わらない。名前すら憶えられてはいないだろうと思っていた私を、ボスは驚かせる。ファミリーの全員の顔と名前を覚えているという噂は嘘ではないらしい。ボンゴレの代表として忙しい人なのに、ただの使用人の私のために見舞いに来てくれた。こんなに傍にボスがいるのは、いつぶりだろうか。近くで見れば見るほど美しい顔立ちをしている人だった。

「必ず、チェラーゾファミリーとは早々に決着をつける。療養中は仕事の心配をしなくてていい。俺は、お前たちが安心して働けるように全力を尽くそう」

ボスは私の手を取った。大きな手は、ファミリーを守るための手。全ての人に差し伸べる手。以前仕えていた貴族の家でいじめられていた私を救ってくれた手。名前を呼ばれたのはその時以来だった。ボスが部屋を出ていった後も、その声が耳に残っている。
守護者も、構成員も、使用人も、分け隔てなくファミリーを等しく大切にしてくれる、彼は博愛主義者なのだろう。だから多くの人に愛されるのだ。私もその一人で、初めて出会った時から私の中ではボスが特別大きな存在として輝いている。けれど、ボスは誰か一人を特別に思うことはしないのだろう。誰か一人が、ボスから特別に愛されることはないのだろう。誰か一人を愛すには、彼の器は大きすぎる。そんな気がしていた。






変化が訪れたのはその4か月後。夏の始まりを感じるようになった頃には、私も仕事に復帰していた。ボンゴレは二大案件を抱えていて、ボスは1カ月ほど本部を離れていた。ボスが帰ってくるという報告が本部に舞い込んだとき、ファミリーの誰もが嬉しそうだった。ボスとG様、ボンゴレの要が本部にいないことで渦巻いていた不安も取り払われていった。私たちは屋敷中の窓を綺麗に磨いて、ボスの帰りを待っていた。

「皆もすでに知っているとおもうが、チェラーゾファミリーは壊滅し、カヴィリェーラという労働者集団と結託し、ボンゴレと和解した。サンソーネ=メロイとも交渉を終え、農民反乱は免れそうだ」

皆で夕食を囲む大食堂で報告があった。湧き上がる歓声で、ボンゴレファミリーが一段と活気づいたことを実感する。チェラーゾファミリーの脅威が去ったことは、私にとっても嬉しいことだった。

「今回の一件であのメロイ家からの協力も得られるようになった。俺が長いこと本部から離れて皆には苦労をかけたが、十分に成果を上げられたと思っている。それでは一人、新しファミリーを紹介しよう」
「エルザです。どうぞよろしく」
「エルザには今後、メロイ家との提携に一役買ってもらう。大人しい顔をしているが、酒はなかなか強いぞ。皆、仲良くしてやってくれ」
「余計なこと言わなくていいわよ……」

皆の拍手と笑い声で迎えられた、垢ぬけた印象のその女性は、遠目に見ても少し緊張した様子で、しかし、ボスとG様の間ではつらつとした笑顔を見せた。ボスとG様ととても親しい間柄であるのは、きっとこの場にいる誰もが一目でわかったことだろう。






「――……」
「――――……」

 一日の終わりは、屋敷の戸締りを確認して回る。西棟への通路に差し掛かったところで、誰かの話し声が聞こえてきた。邪魔しては悪いかな。そうは思うも、この一角を回りきらなければ今日の仕事が終わらない。


「エルザ」


 おそらく、ボスの声だった。「エリザ」私の名前が呼ばれたような気がして、ボスの姿が見えるまえに足を止めた。けれどそれは聞き間違いで、私には向けられたことがないような、それどころか誰も聞いたことがないような甘い声で囁かれたその名前は、ボスの傍にいる女性の名だった。
新入りであるにもかかわらず、彼女はボスや守護者たちととても距離が近い。使用人たちの間でも噂にあがる人だった。誰の恋人だろうか。G様ととっても仲良さげに二人でお酒を飲んでいる姿を見たことがある。私は、勝手に安心しきっていたのだ。

「ねえまって。足音がした、人が来る」
「……雨の音だろう」
「……そう?」

私は足音を立てられなくなり、とっさに息をひそめて身をかがめた。この先にはいけない。まるで行き止まりに来てしまった気持ちになる。察しの良いボスは、きっと私に気付いている。たしかに今日は朝から雨が降っていたけれど、その言葉は体の良い嘘だとすぐに分かった。
ああなるほどな。ここは人通りが少なくて、かつ、女性部屋がある西棟との別れ道だ。橙色の明かりが二人を照らして、こちらまで影を伸ばしていた。
すると二つの影は重なって、ひとつになる。明かりが弱くて影の輪郭はぼやけていたが、抱きしめ合っている二人がくすぐったそうに身をよじるのはよくわかった。

「あの町の匂いがする」
「どんな?」
「乾いた風と、森と、花屋と、パン屋と、グレーテが干してくれた布団、それから……」
「嘘ばっかり言って。私、香水つけてるんだもの。そんな筈ないわ」
「こうしていると子供の頃に感じていたものを思い出すんだ。お前が隣に座って、香りを立てる度にドキドキしていた」
「そう、この香りはイヤ?」
「好きだよ。俺が贈った物だろう」
「……私もこの香りは好き」
「窓ばかり見て、雨が気になるのか」
「明日、ナックルさんと孤児院で子供の面倒をみる予定だったから……止んでくれるかなって」
「止むさ。それに、この暗さで雨は見えないだろう」
「ジョットの方を向ける顔をしていないの」
「その顔を見せてほしい、エルザ、ほら」

それが口づけの合図だとは、影の動きを見なくとも分かった。彼らの会話が途絶えて、音も立てずに、影はまだ一つになったまま。二人は愛し合っているはずなのに、どこかまだ煮え切らない。そのジレンマを持ち寄って、互いの名を囁く声は次第に切ないものになっていった。
あの女性と私は名前が似ているから、ボスが愛おしげにその名を呼ぶたび、私も体の芯が燃えるように熱くなる。ひどい錯覚だった。その熱は、私の心を焼き付けて嫉妬を生み出してしまう。私は静かに踵を返した。
きっと彼らは大切な思い出を共有していて、堅く結びついている。二人の間に割り入れる者などいないのだわ!
ボスは、最初から一人の女性を愛し続けていたのだ。私の中の理想で塗り固められた博愛主義のボスの姿が、脆く崩れていく。あの女性は、ボスのことをよく知っているのだろう。すぐ傍に居るボスに幻想を抱かないのだろう。香りで、声で、感触で、「ジョット」という人を知っているのだろう。





好きなんて言わなくていい。思えば、一度として言い合ったことはない。
分かっているのに分からないふりをし合う時間も長かった。あまりにも綺麗な思い出が変わってしまうことを恐れ続けた。大人になって気付いたことは、思い出だけは変わらないということ。子供でいることをやめてしまった私達の間を行き来する言葉や行動は、青春時代の自分を裏切るような背徳感に満ちている。そしてどうしてか私達は罪の意識に"癖"になってしまう。
傍に居る、傍に居てくれる。それだけですべてが分かるようになった。自分の中で特別に輝くたった一人の存在を確かめるように名前を呼んで、おまけのキスをして、それに応える、応えてくれる。短い呼吸と長いまばたきを繰り返して、お互いの背徳感を許し合った。

「それじゃあ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」

本当は、雨なんてとっくに上がっているはずだった。ジョットの下手な嘘も、私の下手な嘘も、言葉の裏にある気持ちを探り合うための言葉遊びでしかない。廊下の空気は冷えていて、ジョットと離れた途端に体は冷めていく。頬だけがまだ熱をもっていた。

今日は、後ろ髪を引かれる気分だった。部屋に戻る途中で、たまらず振り返ってしまったら、もうそれが最後。まだ別れ道で立ってるジョットの気持ちが手に取るようにわかる。窓の外を見たって、雨が降っているかは見えっこないのだ。小さく手招かれて駆け足で彼の元へ戻る時、私もあの町の匂いを思い出していた。





俺達に言葉は必要ない。息をするようにキスをして、それでいて息が詰まる思いをする。部屋の中は暗くても、エルザの口元の緩みは分かった。それが本人の無自覚のところの笑顔であることも、俺は知っている。
エルザを抱くと香水の香りの深層にあの町の匂いがする。エルザの傍にいるとあの町を思い出す。記憶と香りはよく結びついている。幼い頃にグレーテが干してくれた布団に、孤児院の皆で包まって寝ていたあの心地よさとよく似ている。惨めな大人になるとは思ってもいなかったころの、失うことを知らない純粋な自分がそこにいる。懐かしくて、穢れようもない思い出に縋りついていたいと、思うのだ。

エルザは毎朝、儀式のようにコルセットを締め上げている。顔を真っ青にしてまでよくやるものだ。彼女の身体を締め付けるコルセットの紐を解くのも、この夜の愉しみになりつつあった。紐を解き、コルセットを剥くようにして外す。一日中身体を圧迫する人倫の枷を外されたエルザは、肩を落として深く呼吸をした。エルザは知りもしないだろう。その上下する肩と深い吐息、むき出しになる傷一つない白い背中に、俺がたまらなく焦がれていることを。
それからはエルザの髪を丁寧に解いた。ずいぶん伸びたな、と、胸の上にかかる彼女の毛先をすくってやると、同時に俺は前髪を掻き上げられる。「顔を見せて」俺の両頬に手を添えて見上げてくるのは、熱っぽい表情。幼い少女の顔を思い出せなくなる日が近い気がした。


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