02
確かに恋をしていたこと、あなたといると何もかもが華やいだこと、その事実にすがり続けてきた。どこにいたってあなたひとりを、好きでい続ける。言葉にしたこともない想いを、どうして少女の私は確信していたんだろう。事実、二度目の恋はいまだにない。離れることで声を忘れ、仕草をわすれ、顔を覚えている自信も無くなったとしても、好きだった記憶が私を支えていた。
ひとりで泣けば泣くほど、彼の優しさすら輪郭からぼやけだして思い出せなくなるから、私はもう泣かないと決めた。でも、泣かなくなったんじゃない。私はいつだって思い出に慰められていたのだ。あなたはいつでも優しい。きっと今でも、誰かにやさしい。そう思ったら、辛くても怖くても平気だと思えた。
*
暇を持て余した子供の頃とは違う。私たちはもう、約束しなくちゃ会えない大人になった。私にとってそれは目から鱗で、最初にそういったのはジョットだった。
一昨日、私を家まで送り届けてくれた後にも仕事でも控えていたのだろう。フォーマルにシャツを着こなしていた二人は、森の奥へと帰っていった。昔からあった廃墟の館を買い取って、そこを仕事場にしているらしい。二人が今も変わらずにお互いを相棒だと思い合ってることも嬉しい。絶対的な信頼感を築いてきたんだろう。そうして、私が背を向けた月日の長さを実感する。
さて、約束の時間が近い。昔は母が使っていた鏡台で身支度を済ませた。
昨日も仕事なのか急いでいる様子の二人を、家の前の道で見かけた。私も話したい気持ちはいっぱいだったけど、誰よりも焦っている様子なのはジョットだ。繁忙期だろうか。そんな中二人が時間を割いてくれたのだ。私は一体、何から話せばいいのだろう。
シエナからはるばる靴を履き替えにきた。仮に言ってみたとしよう、しこたまGに怒られるに違いない。
昨日買ってきた豆を挽き、お湯が沸くのを待つ間に言葉を選ぶ。急ごしらえの材料でパイも焼いた。物置を探せば都合よく灰皿もあった。これでGを黙らせる準備は万全だろう。けれどパイの味に文句を言われたらそこまでだ。
そして軽やかにドアはノックされ、来客を知らせる。準備万端、緊張もしていない。入って、とドアの方へ声をかけると、ドアは軋む音を立てながら開く。
「おはよう、ジョット、G」
「おはようエルザ。少し早かったかな」
「じゃまするぜ」
ジョットとGが玄関をくぐる。二人とも背が伸びたのだと感じたのは、急に家の中の家具が小さく見えたからだ。昔二人が家に上がった時の感覚を、私はどこかで覚えているらしい。思い返せばずっと前のこと。まだ私が二人より背が高かった一時期のことだ。
「この家も懐かしいな。何も変わってない」
ぐるりとリビングを見回したジョットが暖炉の上に飾ってあった写真を手に取り、眺めていた。色褪せて薄くなってしまったけれど、緊張で肩が上がってる不格好な幼い私たちが映ってる。町に写真屋さんが来て、私達は望んでもいないのに大人たちにカメラの前に立たされたのだったっけ。Gなんか、そっぽを向いて写っている。
「あぁ、エルザ、この頃は包帯だらけだったな」
「いつからだったっけ、私の傷が減った代わりにGの傷が増えたころ」
「12……13くらいか。無茶をするもんだ」
「ガキん時の喧嘩なんて無茶とは言わねえよ」
Gはさらりと受け流す。喧嘩で解決するもめ合いに本気になっていたあのGはどこへ行ったんだろう。だんだんと落ち着きを得始めた頃をみていたけれど、今では物怖じしない落ち着きを自分のものにしたようだ。
「ところでこの匂い、エルザお前何焼いたんだ?」
「パイ、お口に合えばいいんだけど」
「おーおー、人参真っ二つ、玉葱は皮むきが限界だった奴が、パイ」
「またそんなこと掘り返す……」
小馬鹿にするような笑顔で、Gがキッチンを覗き込んだ。私が焼いたパイを目で見て安全か確認している。なかなか失礼な話ではある。けれど実際、家を出ていく前にこのキッチンを使ったためしがない。それぐらい私は料理なんて避け続けてきたのだ。母がきちんと整理したままの調味料。母の趣味の食器。戸棚に積まれた手書きのレシピ。ずっと暮らしていた家のはずなのに、ここはまるで母の聖域で私の知らない世界のようだ。
「ま、騙されたと思って食べてみて。コーヒーも淹れるわ」
Gを唸らせてやろうじゃないか。掃除洗濯、料理に子守。私は8年間、メイドをしていた。
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