17
ナポリに来て3日目の朝だった。大きな食堂での朝食を済ませたあと、ジョットたちが会議をするからと私は席をはずす。やることはなかった。朝からの仕事に忙しそうな中年の使用人が、頭を下げながら小走りで私の横をすり抜けていく。私は、私もまたそうしていた頃を思い出す。
人生の3分の1、だ。使用人として、使用人服に袖を通して、肉体労働に従事してきた。今こうして客人として、暇を持て余していることに違和感すら覚える。
働きがいも感じてた。生活も安定していた。それでも、なげうってよかったのだ。
『傍にいてほしいと思ってる』
あれがジョットの本音なら、私達は何一つ変わるべきではない。だから私はあえて意味など問わなかった。朝を迎えて、何食わぬ顔をして食事を囲んだ時だって、やっぱり私達は何一つ変わってなかった。旧友であり、親友であり、幼馴染であり、ジョットと私、それだけである。それでいい。昨日は、雰囲気に呑まれかけた、それだけのことで。
「君ばっかり暇そうだ」
「おはよう、アラウディ」
「すっかり君は馴れ馴れしい」
朝食の席にはいなかったアラウディが、通り過ぎざまに声をかけてきた。彼から声をかけられたことに、すこしだけ驚きながら、私は笑顔を作った。
「随分間抜けな顔をしていたけれど、この状況で何かいいことでも?」
「眠たくて」
と、咄嗟に誤魔化した。そう、この人は鋭い。直感の冴えるジョットとはまた違う鋭さがある。たとえば、メロイ家と戦うことで思案顔でもしていれば、すぐに図星をついてくるだろう。そもそも最初から、ナポリに滞在することに気が向かなかった私の気持ちを見抜いていたような、そんな気すらする。
「……で、用でもあるの? そうでなければ私に声なんてかけないでしょう」
戸惑いを殺し、アラウディと目を合わせた。眠たそうな時とは違う、細められた目が、やはり私に対して冷ややかなのだ。少なくとも、ジョットやG、ナックルさんには向けない視線。彼の意図するところなのか、無意識なのかはわからない。確かなことはひとつで、私は彼にとって決して味方になりえる者ではない、ということだろう。
「君の覚悟を聞きに来たのさ」
彼の口に笑みが浮かべられる。私は思わずたじろいだ。覚悟。自分の中で唱えるものとは違う、他人から突き付けられるその言葉は重たいことを知った。ああ、ここ動揺すべきではなかったのだ。仕方ないけど、どうやら女としてなめられている。睨む勢いで、私はアラウディに対して詰め寄った。
*
「吹っ切れた顔してんじゃねえか」
しばらくぼんやりとした顔のままタバコを咥え、Gは俺を観察するようにしていたすっかり短くなったタバコを灰皿に押し付け、白い煙を吐くと同時に、独り言のようにつぶやいた。
「わかるか」
「何年の付き合いだと思ってんだ」
俺はそのつぶやきに答え、Gも普段通りの表情を取り戻す。何をぼんやりとしていたのか、今朝のGは口数が少なかった。
「皆の前では凛々しく決めておくべきか?」
「てめぇはいつも通りでいいさ、アイツらがそれに勝手に付いてくっから」
「やるべきことが明確になった。それだけさ」
そう言って俺はコーヒーカップを手に取った。これからますます状況が緊迫していくことを、誰もが確信している。カヴィリェーラの次なる行動に対して、今はまだ受け身を取ることしかできない。束の間の、そう数十分ももたない休息だ。
ナポリに来てから、一向に肩の力が抜けない。カヴィリェーラ、サンソーネとメロイ家にも、俺はボンゴレプリーモとして対峙する。一番の付き合いがあるGとの時間だけが、ボンゴレプリーモとしてでも気の緩みを見せられるところになっていた。エルザとは、すっかり異性の友人であり、ボンゴレにとっては部外者だ。気兼ねなく、というわけにもいかない。
「で、エルザと寝たのか」
「!?」
口に含みかけたコーヒーを、吹き出すまいと飲み込んだ。すっかり冷め切っていなければ、今頃喉を大火傷していたに違いない。Gを睨みつけながら咳き込んだ。
「……おい、よせ、そうじゃない」
「何もガキじゃあるまい、睨むこたねえ」
「だから……そうじゃない」
耳が赤いぞとGに摘まれる。それまでぼんやりとしていたはずのGは、してやったり顔で歯を見せた。なるほど、それを追及したくて上の空だったらしい。自分の幼馴染2人が、自分を差し置いてそういう関係を持ったとしても気にしないのだろうか。だがちがう。俺はエルザをそういう理由だけで傍にいてほしいと、思ったんじゃない。
「なら、これからアイツをどうするつもりだ」
「俺達の味方でいてもらおう」
「メロイ家と関与してるとはいえ、敵になるってことは考えにくいが」
「そうだな、すべて終わったら、エルザに選んでもらいたい」
傍にいてほしいだなんて、迂闊だった。この気持ちは俺のエゴなんだろう。ボンゴレプリーモとしての自分のままに、彼女の幼馴染である自分も捨てきれないのだ。
「まさか。気持ちが180度変わったのか?」
Gの目つきが厳しい。それもそうだ。俺たちはエルザを守ると決めた。だが、だからこそ俺たちが町から離れることでボンゴレとは遠ざけようとしたのだ。それでも駄目だった。一度は引き離された俺たちは、今度は引かれるようにしてたった数日で再会してしまった。それも、望まない状況下で、俺たちの敵は俺たちを引き離した張本人らしい。とんだ皮肉だ。
エルザは幼馴染だった。長いこと離れすぎてしまった。なんでも知っていたつもりが、最初から知らないことの方が多かったのかもしれない。知らなかったから、こんなことに巻き込んでしまったのだ。知っていたならば、もっといい手を打てていた。だからこそ知りたいと、思う。時々エルザが見せる危うさを、たとえば俺が救えるのなら、なんだってしてやりたい。喉から手が出るほどその気持ちに駆られた。
実際は、どうしてやることが、彼女にとっての一番の望みに沿うのだろう。俺自身の望みだけでどうにかしていいことならば、あの時にだって抱き寄せていた。
「あんな顔されて、他にどうしてやればいいって言うんだ」
やぼな言葉なんて要らなかったのかもしれない。昨晩、俺を見つめるその表情は、初めて見る表情だった。女性の顔をしていた。いいや、本当はかつて一度同じ顔を向けられたことがある。8年前の別れの日、夕焼けの明かりに包まれたエルザが言葉なしに俺に訴えた。少なくとも8年前、俺達はお互いを想いあっていたらしい。惜しいことをしたのだ。コザァートと次会った時の、笑い話にしてしまいたい。8年の間に忙しさにかまけて誤魔化してきたはずの恋心は、いともたやすく息を吹き返していた。
「とりあえずキスの一つ、それも挨拶じゃないのをしてやればアイツだってよろこぶさ」
「お前な、知ったような口振りじゃないか」
「今更ビビってんじゃねえよ」
この仕事一本でやってきたように見えるGも、ふと、姿が見当たらない夜がある。朝になってふらりと帰ってきたかとおもえば、わかりやすく女に匂いを付けられての出勤だ。その一方、これといって決まった人を紹介されたことこそない。俺たちは正反対なのだとGは笑う。
――その和やかな空気を破ったのは、乱暴なノックだった。
「お前たち! カヴィリェーラが動き出した! 西南地区で駆けつけた同盟ファミリーが応戦してるそうだが、数で押し負けている!」
飛び入ってきたナックル。今日に限ってはいつものキャソックではなく、スーツで対応していた。ついにサンソーネとも交渉が途絶えたらしい。
「わかった。G、任せよう」
「そう遠くはないな。ナックルは俺んとこのヤツらに声かけて集めてくれ、それからはここん家の警備を頼む」
「究極に任せろ!」
食堂を出、待機している奴らとも合流しようとした。だが、その時背中に殺気に近い物を感じ、足を止めた。
「プリーモ、G、行くのかい」
俺たちは呼び止められ、振り返る。そこにいたアラウディは、確かに分かりやすく殺気を放っている。襲撃の知らせを受けたにしても、アラウディが表情に感情を出すのは珍しい。何より俺が驚いたのは、その傍にエルザがいたことだ。それだけでなく、アラウディはエルザの片腕をつかんでいる。俺とGはその異様な光景に一瞬ひるんだが、今は緊急事態だ。咎める間もなかった。
「急ぎだ。てめえは他所で暴動が起きたら対応しろ」
「悪いけど先約がある。この女、連れてくよ」
「ちょっ……ちゃんと付いていくから手離したって……!」
アラウディはエルザの腕を引き、玄関を目指していこうとする。
「おいっどこへ」
俺はおもわずアラウディの腕をとった。ああ失敗した。振り返ったアラウディは、心底嫌そうに顔を歪めている。
「工場」
端的に、それだけ言葉にしてアラウディは俺の腕を乱暴に振り払った。付いてくるなとは言われてない。エルザの表情には、確かに不安がうかがえた。放って置くべきではない。直感が警鐘を鳴らす。Gを見れば、わかった顔をした相棒は顎を使って、俺に「行け」と示すではないか。
「すまないG、ナックル、そっちは頼んだぞ」
「二度言わなくたって分かってら。プリーモ、十分に警戒しろ」
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