12

 ナポリの駅に降り立って、体を伸ばす。私達は大きなあくびをまた一つ。重たい荷物を持って降り立ったかつてと、この身一つの今では違うけれど、海に面した町の風は変わりなかった。アラウディさんはナポリの地図を引き抜いて、眺めて、歩き出す。

「どこへ」

 長い、長い沈黙を打ち破る。アラウディさんの背中を見失わないように歩く。この人混みに流されるこの感じ。思い起こせば8年前、すれ違う人の波があの町にいるときより高いもののように感じた。都会の風景に戸惑った。真っ先に仕立て屋に連れていかれた。それから。

「君は生活するのに何が要る」

 アラウディさんは歩きを止めずに私に問う。そう、同じように問われたこともあった。あの時私はなんて答えたのだっけ。あれも、これも。赤ん坊の時から使ってる枕、いつもと同じ味付けのごはん、幼馴染を2人、海は見えなくていい、母が育てた森。思い出した。ふてくされた私は兄を介してあの人に随分いろいろとねだった。奪われたと感じたものすべて、欲張った。

「アー、雨さえしのげれば十分よ、これからの季節、降らないかもしれないし」
「後になって服がないと騒がれても困るんだ」
「ねえ、そっちは住宅地しかないわ」
「……ナポリに詳しいのかい」

 交差点で足を止めて彼は振り返った。私は地図を受け取って広げる。さっき地図見たんじゃないの。今はここ、左に曲がれば飲食街、まっすぐ行けば住宅地、服を買えるのは右の通り。

「たった2年だけど住んでたことがある。16から、18まで」
「そう」

 アラウディさんは頷く。素直に右に曲がる。

「故郷を離れて兄と一緒にこの町に来たわ。ここがナポリだって理解するまではしばらく時間がかかった。私はその年になるまで故郷の山の外を知らなかったから。大きな荷物を持ってきた。今では手の届かないようなトランクケース。重たくって重たくって仕方なかった。ここに連れられる理由もわからなかったから、余計に。……ああなんでまた、ナポリ? あなたの知り合いでも?」

 夕焼けが路地に差し込んで、潮風の匂いは夕食時のレストランから漂ってくるソースの匂いにかき消されていた。ごった返した人ごみの中で、私は必死に声を張ってしゃべり続けた。アラウディさんからの返事は一向にない。そりゃそうだ。次第に迫ってくる夜が怖くて、不安を紛らわせるためにとにかく喋っていたいだけなのだ。会話になる筈もない。

「……何が要るって、その時も聞かれたの。欲張ったわ。欲張った物は何一つもらえなかった、兄さえも傍にいてくれなかった」
「君の兄は今もこの町に?」

 地図も観ずにつかつかと突き進むアラウディさん。返事が返ってきた喜びで、私は小走りで彼の隣まで追いつく。まあ、私にはさっぱり興味ないことは分かっている。彼の視線はショーウィンドーに向けられていた。

「そのはず。仕事、忙しいみたいだけど。……親族がいるならそこに行くべき? あの、もちろん服代はいずれ"あなたの知人"を介してお返しする、けどお願い、ナポリじゃ行く当てがないの、やっぱり屋根に壁も必要だわ」
「それは確保しよう、さもなければ知人に怒られるのは僕だ」
「ありがとう」

 しばらくは帰れないのだな。今までの会話で、それだけは分かっていた。男達に追いかけられる前に買った食品を、慌てててどこかのお店に預けたまま。それから、家に残ってる食品と、戸の施錠、それからまだ芽を出さない花のことが心配だ。といっても、心配したところで、自宅は私を探してた男達に荒らされてたのだった。

 次第に暗くなる街の中、人々は明かりを求めて街灯に沿って歩いていた。私は思い出を笑い話にしようと必死になって、見覚えのある街灯を指さす。

「そうそう、駅を降りて服を買って、この通りを過ぎたその先で兄と別れた」


 いつだって私は、ナポリでからっぽだ。


「それからしばらく疎遠だったの。私は引き取り先の奥様と出会っ……」

 アラウディさんに置いて行かれることなんて気にも留めず、私はそこで立ちすくんだ。
 ワガママ言って、だだこねて、服だけ買ってもらって、自分のこれからの事を決められた。ガス灯のほのかな灯りの下で、片腕に抱きしめられた。兄にとって、別れのハグだった。私にとっては、日常的なハグだった。用が済めば男が兄の肩を抱いて、きた道を戻っていく。ひとり、私を置き去りにして。薄暗い夕方の町に紛れていく兄の背中を見つめていた。兄までも奪われたと感じた私は、新品の服を押しつぶすように、胸に抱きかかえた。私を迎えに来たのは見知らぬ女性。手を引かれて新しい家へと連れていかれて、使用人となった。


「ったの、……同じこの場所で」


 あの頃真新しかった街灯は、雨風にさらされて塗装もはがれて、歴史ある街並みに馴染みつつあった。あのほの灯りの下で見送った兄は、この間会った時にはもう、すっかり都会の男になっていた。


「……エルザ」


 私が指さした街頭の下、兄がいた。兄もまた、人混みの中から私を見つけ出した。兄は、その胸に抱く女性の背中をさする手をとめ、私を手招いた。怒られるだろうか。足を止めた私に気付いて引き返してくるアラウディさん。彼にも、兄にも、怒られるだろうか。私は罪悪感を覚えなら駆け寄った。兄の胸にいるその女性にも、気を使いながら。

「ベル、まさかここで会うなんて……」
「お前どうしてナポリにいるんだ」
「ちょっとした用事があって」
「……まあいい、今は急ぎか」
「急ぎではないけど」

 すると兄は胸に抱いていた女性の肩をやさしく叩く。嗚咽を漏らしていたその女性は、おもむろに顔をあげる。記憶より、少しだけシワの増えた女性が、涙濡れた顔をこちらに向ける。同じ場所、同じ顔触れ、私はすぐに女性が誰だかわかった。間違いなく、この人は私がかつて仕えていた屋敷の奥様だ。この場所で兄と別れた8年前に、私を引き取りに来た人だ。

「ご無沙汰してます、奥様、覚えてらっしゃいますか、エルザです」
「まぁ、……エルザ。あなたはうちを出て、シエナに行ったのだっけ。どうしてナポリに? ……ああ、ベルの妹だたわね、会いに来たの?」
「いえ、今日はたまたま……」

 なぜ、兄がこの人といるのだろう。決して不思議なつながりではなかったけれど、奥様が兄の胸で泣きはらすこの状況。よからぬ詮索が頭をよぎった。ここに来た目的をはっきりと喋れない私の言葉の後に、間があった。ぼんやりとしていた奥様は、また目頭に涙をためて嗚咽を漏らし出す。

「どうなさったんですか。ねえ、ベル、何があったの」

 私はポケットからハンカチを取り出して奥様に差し出す。兄は再び奥様の背中を大きくさすり始めた。奥様の視界に入らないところで、兄が呆れた顔を一瞬見せた。どうやら、不倫の線を疑う必要はなさそうだ。

「……ベルは悪くないのよ、私の話を聞いてもらってただけ……、うちの娘が、……あなたに面倒を見てもらったアロンザ、あの子が……ええ、もう17歳なのだけど……ううっ……、主人はあの子の心配をする素振りもないで土地の心配ばかり……」
「奥様、アロンザ嬢は賢く育った。社交も上手だ。山賊の話し相手を務めたって、気に入られることこそあれど、首を切られるような失言はしない」
「ベル、お願いよ、あの方を呼んで主人を説得してちょうだい……」
「一度家に戻って休んでください、丸1日眠ってないそうではないですか」
「心配で寝れそうにもないわ」
「目が覚めるころにはアロンザ嬢が戻ってるかもしれない」
「そうだといいわ、きっとかなわないけれど」

 奥様は冷静じゃなければ、兄もまた私に多くを教えない。アロンザ嬢に何かがあっただろう、奥様が泣く程深刻な何かが。
 兄は奥様を引きはがす。そして、私と、私と少し距離を置いて待ってくれているアラウディさんを交互にみやった。つい私は身構える。恋人か、フィアンセか、もてあそばれてるのか、どこの馬の骨だ、定職は、国はどこだ。あらゆる切り口から兄の説教が始まることを覚悟して、一歩後ずさる。しかし、兄は兄らしく私の頭に手を置いた。まとめた髪が崩れてしまいそうなほど、不器用な手に撫でられる。奥様がいる今回は放免らしい。

「……エルザ、その後ろの男についても聞きたいことはあるが、すまない、また今度食事でもしよう、この後仕事の予定があって、あー、そう、今度手袋工場をつくるんだ。だから、お前さえよければ奥様を家まで送ってやってほしい」
「構わないけど……」

 私は横目でアラウディさんを窺った。特に気に留めるようすもない。

「よし、頼んだぞ」

 兄は、忙しい人だ。奥様に深く頭を下げるとすぐに、私達が来た道へと走っていく。昔から、私のためにと働きに出てくれた。ナポリに来てからの仕事も、順調なんだろう。あれではきっと故郷に帰る暇もなければ、私がナポリにいる間に一緒に食事をする暇もない。
 奥様の送りを任せられて、私はもう一度アラウディさんを窺った。仮にも、助けてくれた恩人である。彼のペースを乱すことは、許されるのだろうか。

「服屋は後でもいいかしら」
「……君に、時間は腐るほどある。事態が落ち着くまでナポリにいてもらうつもりで連れてきた」

「エルザ、その方は?」
「彼は、」

 ようやく涙がとまった奥様は、愛想のいい笑顔を浮かべて彼に挨拶をした。にもかかわらず一つも表情が変わらないアラウディさん。私と、この人の関係をなんて説明しようものか。余計な事は喋るなというアラウディさんの視線が、私に向けられた。


「アルバート。イタリアへは留学に」 


 異国風の響きで、彼は新たに名乗った。アラウディなのか、アルバートなのか、どちらが本名なのか、どちらもそうでないのか。とにかく私はこの設定に合わせるしかないのだと、言われずとも肝に銘じた。

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