09

 両親のいない寂しさを、もう昔のことだって笑えるようになる。慰めを必要としなくなった頃には、兄と、ジョットとGが傍にいてくれた。あの丘に行けば母はいる。私は生まれの故郷で大人になって、いつか絶対ジョットを振り向かせてみせて、母のような母になれれば、それが一番の幸せだって思い描きはじめていた。女らしくいよう。かっこいいことなんてできないと、分かり始めていた。
 どんなに女の子らしい服を着るようになっても、髪を伸ばしてみても、今のままではいけないな。幼い頃から、寂しさと表裏一体で私の中で育ってきたアレを、私は克服しなきゃいけないな。気付いたのは、彼に、私のことを好きになってもらいたくなった時だった。



―8年前―



『俺、新しい仕事をはじめるんだ』


 朝早く、兄が、ぴかぴかのスーツを広げて言う。弾んだ声だった。まだ袖を通そうともしないで、大事そうにしている。「誰にもらったの」訊こうとして、やめておいた。私に向けた大きな背中。その時からもう、私はこの背中を見送る瞬間を予測していた。
 私は兄の後ろで荷物をまとめていた。ぴかぴかのトランクを渡されて、はやし立てられて、わけもわからないま服を詰めていた。このトランクも誰からもらったの。決して兄が買った物ではないこと、トランクに詰めるべきものは生活に必要なものということ、それだけが私に理解できたことだった。

『急だね、私はここで一人暮らしするの?』

 念のため、訊いておいた。

『それじゃあ荷物を詰める意味がないだろ』

 「そうしたければそうしてもいい」、なんていう返事を期待していた。どうして私は兄に逆らおうともしなかったのか、今でも不思議におもう。あの時もう少しだだをこねていれば、何か変わっただろうか。私はことを重く受け止めていなかった。まさかこの先8年、生まれの故郷と大切な幼馴染と疎遠になるなんて、あの時点で気付いていた方が難しかった。だから、3人で写った写真だって置いて行ってしまったのだ。

『明日には出るからな。エルザ、いつも通りにしていいが、間違っても次遊ぶ約束はするなよ』

 兄の厳しい言葉で、私はようやく思い知った。トランクに詰めた服が日数分ではないと。兄はこの町に残していくものなど無いと思っていること。



『エルザ』

 私の肩を軽く叩く手。はっとして顔を上げたら、ジョットは具合が悪いのか、表情がさえなかった。私は首をかしげる。

『どうしたんだ、具合悪いのか?』
『え』

 ジョットは具合が悪いわけじゃなくて、私が彼に心配をかけいてしまったらしい。こんな時は笑って、笑えたら、ジョットも笑ってくれるはず。分かっていたのに、結局最後の日に限って、私は笑えなかった。
 気付いたら1日はあっという間だった。夏だというのに日暮れの時間が早いような気がしたのは、西の空に厚い雲が垂れ込めて夕日が差さなかったからだ。建物をすり抜けた風が吹く。

『明日はめずらしく雨かもしれないな』
『そうかな』

 ジョットが雨の日を鬱陶しそうにすることはなかった。風に混じった雨のにおい。ジョットは私の代わりにとでもいうように笑ってた。

『あのね、私』

 その袖を掴んで、私が爪先立ちをして、たとえばキスでもしたら、許してくれるだろうか。気付いてくれるだろうか。きっと私は険しい顔をしてジョットを見つめてた。手を掴んで、抑えきれなかった震えを伝えてしまった。あれじゃあ気持ちは何一つ伝わらない。きょとんとした顔が私を見下ろして、顔色一つ変えやしない。

『、』

『おーい、エルザ! ジョット! おばさんがビスケットを焼いてくれたんだ、みんなに配りにいこう!』
『コザァート、……ああ、それはいいな!』

 遠くでコザァートが大きく手を振っている。Gはビスケットが入ったバスケットを抱えてる。ジョットはコザァートたちを向いて、行ってしまおうとする。掴んだ腕は、もう解いた。

『私、帰るね』

『熱っぽいんじゃないのか、ゆっくり休めよ、また明日な』

『うん、また、明日』






 走って帰る、小さくなっていく姿が見えなくなるまで見送り続けた。エルザが帰ってしまうことに慌てて駆け寄ってくるコザァート。しかし俺に追いついたところで、追いかけようとはしなかった。

『残念だ、エルザにも食べさせてあげたかったんだけどなあ』
『どうせ明日になりゃなんで残してくれなかったの〜なんて言うだろ、あいつのことだ』
『俺はエルザがおいしそうに食べるところがみたかったんだけどな』
『アイツのどこに惚れてんだよ、俺には理解できねえ』
『俺は一目惚れだったからなあ、なんというか、この子が傍に居てくれたらいいなっていう雰囲気さ。ジョットは?』

 その夜は眠れぬ夜になった。次の朝、日が昇る前に森へ行ったら、もうエルザと兄はいなかった。家を囲うフェンスにはしっかりと鎖が巻かれて、固く閉ざされていた。冷たい雨を覚えている。
 その時が最後になるなんて思いもしなかった俺は、陽気なコザァートの調子に合わせて笑った。走り去る後ろ姿に感じるものがあったのに、エルザに限ってこの町から離れたりする筈なんてないと信じていた。誰も疑わなかった。


『アイツじゃなきゃ、ダメなんだ』






 アレは、寂しさとは違って小さくなることがなかった。夏の夜、兄のいない夜、今でも私はアレに食いつぶされそうになる。それでも上手く付き合ってきたつもりだ。決して誰にも打ち明けない、記憶に残る中ではもっとも幼い頃の事。

 彼らと別れたその夜に、ようやく私は心に住まうアレが憎しみだと気付いた。


『アダルベルト・メロイだ』


 ジョットの言う通り、雨の日になった。ガス灯を頼りに、家の鍵を閉めた。
 名乗った男は、当時はまだ中年だった。身に着けているスーツは、兄が大事そうにしていたスーツと同じメーカーのものだと分かった。安いものではないんだな。私はトランクを持っていることすら後ろめたくなる。この町に不和を呼び込みそうな高貴さを、今すぐにでもこの町から遠ざけたくて、私は迷わずに男が乗ってきた馬車に乗り込んだ。すぐに肩身の狭さを感じた。

 行先もわからないまま、生まれて初めて鉄道に乗り換えた。もくもくと吐き出す煙にむせ返った。車窓から、初めて見る海を地中海と言った私に、兄がイオニア海だと教えてくれた。狭いボックス席で肩を寄せる私たち。向かいに座る男は、満足そうに笑ってた。兄は何よりも新しい生活が裕福であるものだということを確信して喜んでいた。私にもひもじい思いをさせなくて済むのだと、男に小声で耳打ちしていたのも筒抜けだった。男が私を横目で伺う、その視線がいかに冷淡であったか、兄は知らない。目に見えないアレが、男を、食べてしまえばいいと思った。ジョットとGと、母と、あの町と、遠く離れてしまう。私と故郷を結び付ける唯一のものは、心に住みついたいくつかの想いだった。

 暑い夏の揺らぎと、汗が視界を滲ませた。アレが生まれた日とよく似ている。兄の手の体温が、母の血の生温かさを思い出させる。
 生きてる、生きていた。母の最期の言葉を思い出す。私も兄も、目の前の男も、誰も母を救えなかった。幼い私が都合よく忘れていた黒い渦。お前は5歳だった、忘れても仕方がないさ、と私を慰める兄だって時々呻き声をあげて泣く。許されるのなら、忘れたままでいたかった。けれど男がそれを許さなかった。私たちは、母を見殺しにした私達自身を、いつの日か、許せるのだろうか。

 静かに目を閉じて、昼間の闇を感じる。汽車が私をあの町から離していった。

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