07

 かけっこ無敗の座は、年下たちにゆずった。なんだか最近体がきゅうくつなのは、きっと読み書きの勉強のせいだろう。机に向かう時間が終わって空の下に開放されたら、私たちはめいっぱい背伸びをする。今日もからりと晴れた青空。『腹へったな』そんな時間だ。『おなか一杯パン詰め込みたい』ボヤく私に二人が笑う。『いったん食べに帰ろうか』二人は"おおきな家"へ、私はイルダさんのところへ、また午後に待ち合わせる約束をして分かれ道まで歩く。ジョットとGが暮らす"おおきな家"のそばまで来たところだった。小さな子の泣き声が聞こえて、私たちは顔を見合わせた。



―12年前―



『お前らの食堂からもっとパンすくねて来いよ』
『いいよなぁ、みなしごのお前らは人から集めた金で食ってんだ』

 まだ5歳になったばかりのピオの襟首をつかみあげて乱暴しようとするのは、フリオとガストーネ。お昼前、時々、年下から食べ物を奪おうとするやつらは珍しくなかった。中でもフリオとガストーネは味をしめた常習犯だ。しょっちゅう施設の小さい子たちを狙って食べ物を横取りしている。
 私たちが、許すわけない。

『てめぇら!! 今日も痛い目に遭いたいのか!!』
『また邪魔しにきやがったなG!! お前らみなしごの分際で生意気なんだよ!!』
『みなしごが気に食わねえなら俺がいくらでも相手してやるぜ、ただ弟たちに手ェ出したらぶっ飛ばすぞ』

 Gと私は迷わず、フリオとガストーネに体当たりを食らわす。体格のいいフリオGで、より小さいガストーネは私の相手だ。これはいつも決まっていた。驚いたフリオがピオの服を手放した隙、すかさず私がピオの手を引いた。

『もうだいじょうぶ。ピオ、ジョットのとこいって逃げて』

 わぁわぁと声を上げて泣くピオは、膝をついて受け止める体制のジョットを見つけると駆けだしてった。ジョットはピオを連れて家の中に避難させる。窓からは他の子たちがなんだなんだとこちらを覗いていた。けれどフリオとガストーネを見るなり、皆おびえて引っ込んでしまう。それだけ、フリオとガストーネは大人のいない時間を狙ってこれまでもここの子たちをいい"カモ"にしていたのだ。
 みんなに気を取られて、私は長くよそ見をし過ぎた。ゴツンと、鈍い音が脳にまで響くよう。ハッとすれば、目の前でガストーネがしてやったり顔をしている。

『っっ〜〜!!』
『そっちから喧嘩吹っかけといてよそ見かァ!?』
『先にピオに手を出したのあんたたち!!』

 私は正面からガストーネに頭突きをする。ぐ、っとガストーネがひるんだ、この隙。私は体格差のないガストーネの腕を引き、地面に叩きつけるようにして転ばせる。タイミングを同じくして、Gはフリオの平手打ちを食らいながらもあの巨体を背負い投げた。よしっ。今日もこれで収まるだろう。年下ばかりに態度がでかくて、いざ痛い目に合えばこの二人はすぐに泣きだしそうになる。

『ちくしょうおとこおんなめ!! ちっとも可愛げがねえ!!』

 泣き出す、筈なんだ。

 今日はしぶとい。転んでいたガストーネが、私の背後に回っていた。あ、と、息をのんだ次の瞬間には頬に3本、痛みが走る。のばしっぱなしの爪でひっかかれた。ガストーネはそのまま走り去っていく。

『覚えてろ!! マンマに言ってやるんからな!!』

 先に逃げていったガストーネを追いかけて、フリオものたのたと走っていく。

『てめえらそろそろ大人が黙って見過ごさねえからな!!』

 Gは喉を痛めそうなほどの大声で、フリオとガストーネの背中に向かってとどめをさした。いつもいつも、どうにもこりないフリオとガストーネ。そして私とG。じんじんと痛むおでこと頬。こうして傷を増やすたび、私はベル兄に、Gは施設の人達に怒られる。大人を呼べとみんな言うけれど、その場で黙って見過ごすことはできないんだ。

『ここ血でてる?』
『赤くなってるだけだな』
『あ、Gってば鼻血』
『あんにゃろうパンパンの手でぶっ叩きやがって』

 怒った顔のまま、Gは私の腕を引いた。家の中に入れば、窓際によっていた子たちがみんな駆け寄ってくる。ジョットも救急箱を抱えてとんできた。

『G』
『これぐらい何ともねーよ。それよりピオは怪我してねえか』
『頬を抓られたみたいで腫れてる。いま手当してもらってるところだ』
『ッチ。この間はミケがやられたし、あいつらちっとも懲りねえな』

 Gは乱暴にガーゼを割く。鼻に詰め込むにはすこし大きすぎるんじゃないか。気にせず丸めて鼻の穴に押し込んでる。荒治療というやつだ。

『エルザもまた顔に傷が』

 髪で隠れていた頬のひっかき傷に、ジョットが気付いた。私の髪をはらう。ていねいな手つきが、くすぐったかった。

『だいじょうぶ、3日で治る』
『毎回顔を狙うガストーネもひどい奴だ、痕になったらどうするんだ。
女の子なのに』

 ジョットが救急箱を開けて、消毒液を取り出す。それ、ものすごくしみるやつ。私は一二歩、後ずさってジョットと距離を取る。目をそらしたりしないジョットは、ときどき私をものすごく戸惑わせる。ジョットの、隔てないやさしさが向けられたとき、女の子なら誰しもが顔を真っ赤にしてるのを私は知っている。私はそうならないってきめている。

『……いいってそういうの。私は女の子扱いしてくれなくていいの』
『そうはいかないだろ』
『背、越してからにして』
『手厳しいなぁ』

 まだ、私の方が背が高くて力も強かった。例えば私が喧嘩で負けたとき、見上げられながら慰められるのが情けなくて、私はつい、素直になれなくなる。もし、他の子たちと同じようにジョットのやさしさに顔を赤くしてしまったら、私はその日からおうち遊びしかできなくなるんじゃないか。男の幼馴染と一緒になって、走り回って、傷をつくって、馬鹿笑いするそんな毎日が終わってしまう気がする。女の子の友だちをつくって、お花を摘んで、おうちに飾って、きれいですねって言うだけのそんな毎日は私には似合わない。かわいい服も、お母さんがいないからもう着ない。

 がっくりと肩を落としたジョットは、救急箱の整理をしている。そんなところにまた弟たちが寄ってきた。下から三番目の男の子のミケが、女の子の中なら一番お姉さんのザイラの腕を引いてきた。ミケは7歳、ザイラは9歳だ。

『なぁ、ジョット、ザイラもアイツらに脅されてパン2つ持ってちゃったんだ、お昼足りないよ』
『っごめんなさぁ……い』

 俯いたザイラは声を震わせて、声を押し殺そうとしながら泣いていた。施設の人からもらって大事にしていたワンピースの裾が、土汚れている。

『ザイラ、怖かっただろう。乱暴はされてないか?』

 ザイラは頷く。ジョットは膝をついてザイラを慰めた。優しく頭をなでる。こういうのは、家族に対する愛情だ。それでもザイラは泣き止まない。

『ならよかった。お前が謝る必要はないよ。足りない分は2つだけか?ならひとつは俺の分をあげよう』
『俺の分もお前らで食えよ』

 Gも当たり前のように名乗り出る。この施設はずっとジョットとGが最年長だった。親のいない子たちがだんだんと増え、ふたりはすっかり大家族の長男坊らしくふるまってる。

『でもそれじゃあ二人のごはんが……』
『いいんだ、座って勉強してるとお腹が空かないから平気なんだ、な、G』
『ああ』

 本当は腹ペコでも、嫌な顔はしない。弟たちがふたりを囲んで喜んでいる。ザイラの涙も止まっていた。おおきな家のおおきな家族。わたしもここが好きだ。二人が守ろうとしている小さな弟たちも、二人が伸び伸びと育ったこの家もあたたかい。

『エルザ』

 私のスカートの裾がくいっと弱い力でひっぱられた。視線を下に向けると、頬を塗り薬でつやつやとさせたピオがいた。いっぱい泣いたんだ。顔を真っ赤にしてる。

『ピオ、怖かったね、次にあいつらみたらすぐ家の中に逃げるんだよ』
『ぼくじゃGとエルザみたいになれないのかな……』

 私はしゃがんでピオと目線を合わせた。くりくりの瞳が可愛くて、まるでリスみたい。いちばんの泣き虫なのに、ジョットの背中を見て育ったから、フリオとガストーネがザイラをいじめていたのを見て、許せなかったんだろう。

『……あ、エルザ、ほっぺが……。ぼくのせいだ……』

 ピオは唇をかみしめて、また泣き出しそうだ。私の頬のひっかき傷に気付いたらしい。私は慌てて髪の毛で傷を隠して、こんなときは、笑顔をうかべる。ピオもつられて笑顔になってくれないかなって、笑うんだ。

『どうして! 私なにも痛くないよ。こんなぐらいなんてことないって』
『……エルザがケガするとぼくもかなしいし、ジョットもかなしい顔するの』

 泣き虫ピオはてごわいな。くりくりの瞳から、また大粒の涙があふれだした。私は私の服の袖でピオの涙をぬぐってやる。けれど、ピオの言葉がきになって、ついジョットを振り返った。救急箱を抱えたまま、動きをぴたりと止めて口を開けて、こっちをみてる。ほんの少し、静かになって、ほんの少し、ジョットが顔を赤くした。

『ジョット、エルザが帰ったあといつもくやしいくやしいって言って……』
『ピオ!』
『だってえ……』

 思わず声をあげたジョットに、困った顔のピオはぐずってしまった。困っているのはピオとジョットだけで、話を聞いていたGやミケは笑い、さっきまで泣いていたザイラももう、にやにや顔だった。

『なぁ、なんでジョットはケンカしないんだ?』

 ミケが言う。

『背の順!』

 私は立ち上がり胸を張る。ああなるほどと、納得したようなみんなの中で、ジョットだけが苦笑いだった。それでいいんだ。いつまでもいつまでも、私がジョットより背が高いままならいいと思う。やさしすぎるジョットに暴力は似合わない。

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