03
「おい、雨降ってきてるぞ」
なんでも、やることがないから家の掃除ばかりしているらしい。今日も昨日もその前も、家主が帰ってきてからというもの、森の中の一軒家はすべての窓が開きっぱなしだった。
8年間、時折イルダ婦人が掃除しに来るとき以外は窓が開くことも、明かりがつくこともなかった家に生活感が戻ってきた。今では外にシーツさえ干されている。まあそれも、生憎振り出した雨によって取り込むしかないだろう。
「雨!?」
この家に住むのは俺たちの幼馴染、エルザ。ある日突然姿を消し、何の前触れもなく戻ってきた。その間8年。髪が伸びた、背も伸びた、女らしくなった、家事をする姿に違和感を感じさせない。
二階の窓から乗り出し、空を見上げている。さらに俺はその姿を見上げる。どことなく既視感。ああ、昔はこうしてお前を森から連れ出した。
外に干したシーツを案じ、今にもそこから飛び降りてきそうだった。さすがに実行はしない。エルザが慌てて2階から降りてくる音が聞こえ、玄関の前に立つ俺はさっと避けた。次の瞬間勢いよく開かれるドア。一歩間違えていれば俺は顔面で受け止めるしかなかっただろう。
「ったく……そんなに急がなくたって濡れやしねーよ」
飛び出した勢いをそのままに、まるでシーツを被るように取り込みだした。前の勤め先がよほど厳しかったのやら。慣れた動きと異常なまでの焦りようが物語る。
「洗いなおすのが大変でしょ!」
腕一杯に真っ白なシーツを抱えてわずかに顔をのぞかせるエルザを、あ、悪くない、と思った。ほぼ同時に、覚えてもいない自分の母親の姿が不思議と脳裏にちらつく。
だが、自分の正気を疑った。眉間をつまんで溜息を零す。どうやら俺は相当疲れているらしい。本部から持ち込んだ仕事を片付け、さて、仮眠の一つでも取ろうかと思えば暇を持て余したランポウの相手をし、休むどころではなかった。さすがはボス、俺の疲労を見かねたジョットは幼馴染の家で茶でも飲んで来いと提案した。もちろんそうはいかないと渋ったが、終いには命令だという。となると従うしかないのが、俺の立場だ。
「ごめんごめん、いらっしゃい。G、徹夜明けそのまま?」
家の中へシーツを運んだエルザは、気にも留めないようすで俺を迎え入れる。俺の目の下の隈をみてか、といっても心配しているのは言葉だけで表情はそうでもない。クスクスと笑う声が漏れている。不覚にも母性を感じた錯覚は的外れもいいとこだ。息をのんだ自分が馬鹿らしい。
この家は日ごろ日付が変わる前に電気はすべて消えている。規則正しい生活を送っているのであろうエルザは、一方で俺たちの徹夜の必要性を疑ってか首を傾げた。分かりやすい皮肉ともとれる。俺の幼馴染ときたらそういうやつだ。
「おかげさまでな。ジョットも今日は一日中仕事から離れられないだろうよ」
「自警団休む暇もないのね。うちでよければ避難所になるよ」
「わりいな、コーヒー一杯もらえればいいさ」
「眠気飛んじゃうよ、ハーブティーでも飲んで二階の開いてる部屋で休んでいったら? 起こしてあげるし」
湯を沸かすエルザ。確かに8年の月日を経て、俺達は全く別々の道を歩いてきたがエルザにとっては俺は何も変わらない幼馴染のままらしい。やすやすと男一人を家に上げて、部屋で休んでいけとは無自覚もいいところだ。ジョットもジョットで、俺を一人で向かわせたことを今頃後悔していないだろうか。
「はは、部下を働かせてんのにそこまではサボれねえな」
「もうすでにサボってるじゃない」
「サボりじゃなく、休めって上司命令だ」
「Gもジョットも頑張り過ぎね、上に立つ人って大変」
結局エルザはコーヒーを淹れ、自分の分も持ってソファテーブルに置いた。「シュガーポットは要らないね?」という確認に、俺は黙って頷く。
「あ、そうビスケット焼いたの。食べる?」
またも家の中には甘い香りが漏れている。不思議な話だった、ニンジン真っ二つが限界だった奴が今ではレシピもなしに菓子をつくる。大量に。屋敷でそう習ったのか、一家の食卓を担う母親像に倣ったのか。とにかくエルザがキッチンから持ってきた量は二人で食べれた量じゃあない。
「あいつに差し入れてやってくれ。そろそろ根詰まってる頃だ」
「ふふ、そうするつもり。Gも食べて。ジョットもおいしいって言ってくれたらいいなあ」
エルザの表情がほころんだ。ジョットのことを想う緩みを、大方本人は自覚していない。昔からこんなにもエルザはわかりやすい奴だというのに、どうして好意を向けられていた当人は感じ取りもしないのやら。最も気付くべきところに気付かないで、ジョットの勘の良さは全く別のことに働いている。
「のんきに焼き菓子焼いてる場合じゃねえな、うかうかしてっとほかの女に取られるぜ」
ビスケットは俺の口には甘すぎた。知ってか知らずか、この甘さが好きなのはジョットの方だ。
ジョットはボンゴレの地位を築きあげて人前に立つことが増えるたび、あわよくば恋人に、と名乗り出る人とも出会ってきた。実際に恋人とした女性は一人としていないが、側近達はそろそろしかるべき妻を迎えても良い頃だと口をそろえる。俺からすると早すぎると感じるし、あいつのことだ、組織拡大のための政略結婚は選ばない。
しかし俺のジョークに一切反応を示さないエルザ。どうしたもんかと頭を一つ小突くと、やっと反応をしめした。
「意外、彼恋人いないの?」
「今はいねえな」
といっても悲しがりも喜びもしない。ジョットに恋人がいないことを不思議そうにしている。それはもう大真面目に。さも、すでにあいつに恋人がいて当然だろうというように。だが自分にもまだチャンスがあるとは考える様子もない。
「ジョットの事はもういいのか」
この間ジョットにも反対のことを訊いた。あいつも、そうだ。エルザの両手は飾り気がないというのに、6年も暮らしていればシエナに想う人がいてもおかしくはないと仕事の片手間に答えた。例えばそんな相手が今もいるとしたら、この町に戻ってくるか? さすがに俺はそれ以上の追及をしないで、ただ、今のジョットにとってエルザは特別な幼馴染でしかないことを確かめた。会わなくなった相手への感情の変化は不思議じゃない。
エルザはといえば、空模様とは反対に晴れやかな顔をしている。俺たちの記憶に残る生意気なだけの幼い表情と、不意に見せる腹を括ってきたような表情が入れ替わった。俺でさえも時々、この町に戻ってきてからのエルザに目を奪われることがある。
「変わらずに好きだよ。でも、初恋は終わってる」
嘘、ではないらしい。すがすがしいまでに初恋を清算したという表情も、言うことも、俺の幼馴染二人はこんなにも似ていて、どうしてすれ違うのだろうか。言葉にすることを恐れる二人を時々理解できなくて苛立たしく思うも、この歯がゆさが懐かしかった。
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