17

 そこはナポリの町はずれに大きく構えられた工場だった。建物自体はまだ新しく、しかし平日の昼間だというのに、人の気配がない。アラウディは万が一でも私が逃げないようにするためか、私の後ろを歩いていた。

「ここ、本当に兄が……?」

 兄が私を心配しているらしい。サンソーネ様と面会してきたというアラウディは、私と兄を面会させようとしている。私と兄はというと、ナポリに来た初日に会ったきりだ。この工場が、兄が新しく任された手袋工場らしい。私はもらった手袋を持ってくる暇もなく、兄になんて言い訳しようか考えていた。

「間違いはない」
「でも今日は休業日かしら」
「まだ未稼働だ」

 といいつつも、彼は遠慮せずに工場の敷地内に足を踏み込んでいく。真新しいペンキの匂いで満ちている。工場内は明かりがついていなかった。ひんやりとした空気のせいか、明るい場所に人気がないせいか、悪寒がする。

「わざわざ来てもらってすまねえな」

 今まで私たち以外の人の気配など無かったのに、その人は……兄は、機械の物陰から現れる。私達と同じように、工場にいるにはふさわしくないスーツ姿だった。兄は、私に穏やかな笑顔を向ける。実家で、パスタを振る舞った時と同じように。そして、私の隣にジョットを見つければ、フッと、鼻で笑う。

「フ、まさかボンゴレプリーモまでおまけでついてくるとは、手間が省ける」
「ベル!」

 ジョットにいつ通りの毒を吐くだろう。そう思って注意する気でいた私は、けれど、兄がジョットを「ボンゴレプリーモ」と呼ぶことにただならぬ恐怖を覚えた。そう言った私の知っている兄の顔ではない。私は思わずジョットを庇うように一歩前にでてしまう。

「……さ、わりぃがとっとと妹だけ置いて帰ってくれ。ブロンドの兄ちゃんはサンソーネのとこいって、報酬の取引をしてくるといい。こっちは兄妹水入らずの時間が要る」

 兄はゆっくりとした足取りで私達に近づいてくる。兄は笑顔だ。私は兄の本当の笑顔を思い出せない。あなたはそんな風に、笑わない。そんな風に笑うと、なぜだか"あの人"そっくりだ。


「ベルナルド=メロイ」

「――え?」


 突然アラウディが私と兄の間に割り入った。そして、私の両手首に冷たい鉄のブレスレットがはめられる。目にもとまらぬ速さだった。手慣れているのだろう。いいや、ブレスレットではなかった。これは手錠だ。罪人を捕らえるためのそれに他ならない。アラウディは手錠ごと私の腕を掴んで高々と掲げた。何故!?


「"ボンゴレ"はこの女をメロイ家のスパイの容疑で拘束する」
「え!?」


 黒く冷たい手錠が、私の自由を奪う。兄の表情がひどく歪んだ。

「釈放の条件は3つ。カヴィリェーラの解体と、サンソーネ家とボンゴレの講和、匿っている犯罪者の身柄を引き渡すことだ。妹の命と天秤にかけるといい」

「それは――できない」兄の返事は迷いのない即答だった。
「いいさ、なら交渉決裂だ」こころなしか、アラウディは笑顔で応える。

 理解が追い付かない。私を突き飛ばされるようにアラウディの背後に回された。両手の自由が利かない私は、咄嗟にジョットに支えられる。その時、足並みを揃えて2人の男が兄の傍らから現れた。赤い靴、立派なスーツ。彼らは、カヴィリェーラだ。拳銃を構え、迷いなくアラウディに向ける。

「っベル、どうして、私っ」
「おい、アラウディ!」

 男達が引き金に指をかけるよりもはやく、アラウディは飛び出した。2人の男相手に、射程などお構いなしにその身一つであっという間に背後を取る。一人目の男を失神させると、すかさずもう一人が彼めがけて発砲した。弾丸は彼の頬を掠めたらしい。しかし、ひるみもせずにアラウディは正面を避け、低い姿勢でその男の懐に飛び込んだ。

「さすが、ボンゴレ最強の守護者と言われるだけある」

 悠長な口調でそう言った兄が、アラウディに背後から襲い掛かった。けれども、アラウディはそれすらも察していたのか、咄嗟に体勢を変え、兄と組み合う形で対抗する。

「二人ともやめて!」
「嫌だね」
「エルザ、女の出る幕じゃねえんだ、下がってな」

 その時私はジョットに強く腕を引かれる。私の腕を握る力はこれまでになく強く、すこし乱暴だった。ジョットは冷静でいられるの? 見上げて、彼の表情を窺うと私を鏡に映したように彼も動揺していた。

「アラウディ、そのまま答えられるなら答えろ。お前は何を企んでるんだ」
「交渉の糸口をさがせといったのは君だ。秩序のために、僕は僕の正義を振るわせてもらおう」
「市民を巻き込んででもか」
「回り回れば君のお望み通り、仲間のための正義とも言えよう。まあそれは、僕の本心ではないね。無条件で容疑者を解放することは許さないよ」

「あなたもしかして最初から……」

 もしかして最初から、アラウディは私を助けたつもりではなかったのではないか。最初から、私が"ベルナルドの妹"だと知っていて接触を図ったのではないか。最初から私は利用価値のある人質だったのではないか。きっとそうだ。

「"カヴィリェーラ"の名において、我々はボンゴレを壊滅させる」

 兄の言葉で、血の気が引いていく。その表情は、"あの人"によく似ている。どうして今まで気づかなかったのだろう。ベルナルド=メロイと呼ばれた兄は、アダルベルト=メロイそっくりなのだ。
 これは悪い夢で、もしかしたら私は今も実家のベッドで寝ているのかもしれない。けれどこれが現実。アラウディは私に言った。「君の幼馴染を失う覚悟はあるかい」と。あるわけない。できるわけがない。"失う"の意味は、死を意味しているのだと彼の冷たい言葉から感じた。冗談じゃない。兄の言葉も、アラウディの言葉も、意味そのままなのだ。

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