16

「取り乱してごめんなさい」

 私は深々と頭を下げた。夜が更けても、ソファに身を沈めたって、興奮しきったせいで眠気はまだ来ない。頭が冴えわたっていた。


「仕方ないさ。俺も気が利かなかった、そんな思いをさせる前にお前を早く帰してやるべきだったんだ」


 当主が与えてくれた一室に二人きりだった。Gときたら、何を考えているのやら私に目配せをしたあとに部屋を出て行った。変な気遣いをされたらしい。

 ジョットは私とは正反対で穏やかに、一杯の水を差し出して私の隣に腰を下ろす。グラスには、ジョットの顔が映り込んだ。彼は、私を責めるようなことをしなかった。私もそれをわかりきっていて、それでも、謝らずにはいられないのだ。冷静でいられなかったことも、初めから全てを言えずにいたことも、すべてをひっくるめた謝罪のつもりだった。そして、彼なら受け止めてくれると、いつだって甘んじているのだ。私は。

「知らないことばかりだ。なんでも知っていたつもりが、自惚れてたらしいな」
「なにを?」

 何のことだろう。自嘲気味のジョットは、間抜けな私を指さした。私のこと、なんでも知ってるつもりだったらしい。ああ、たしかにそれは自惚れだろう。ジョットは肝心要の、私の恋心を知らないままだったのだ。私はなんだかそれがおかしくて、肩を落とす。私も同じように自惚れていた。ジョットとGの事なら何でも知ってるつもりでいた。実際、そうだったのかもしれない。恋心を除けば、昔の私達は何もかもを打ち明け合っていた。
 私達は幼馴染だった。離れていた月日が、私達を旧友にした。再会して、まだ間もない。知らないことのほうが、言えないことのほうが、増えてしまっていた。


「……できれば、あの男のことだけは、あなたたちに黙っていようとしてた」
「アダルベルト=メロイのことか」


 ジョットの声が固くなる。私は8年前に会ったきりの男の顔を思い出そうとした。鋭い目、日差しを遮るような大きな体。背筋を伸ばして歩く姿。その第一印象に、わたしはたしかに恐怖を覚えていた。それはもれなく、最も悲しい記憶の中にある影とぴたりと重なったからだろう。


「偶然といっていいのかな、兄とアダルベルトは8年前に、兄の出稼ぎ先で再会した。兄はあの男に働きぶりを気に入られたみたいで、メロイ家の従業員にしてもらうためにナポリ行きを決めたわ」
「お前を連れて?」
「私に不自由させないように、って。あの人はいつも、自分の事は二の次にして私のことを考えてくれるけど、家族なのに、一緒に居る時間が短いから、ベルは、……私のことよくわかってないのよ」


 兄は私のことだけ、何にも分かってない。だからナポリで私達兄妹は、アダルベルトに引き離されたんだ。兄は、口封じでもされたのだろうか。母の死については分かっていて、母を助けることができなかったアダルベルトを許して彼の下で働いているのだろうか。私は心のどこかで、兄をも恨んできた。

 幼かった私がほしかったのは、上質な洋服なんかではない。母が居ないことが当たり前になったあの頃、兄にとっても、私にっても、お互いはたった一人の家族だった。それなのに兄すら、家を空けることばかり。私のためなのだと分かっていても、それは寂しいものだ。

「とにかく俺は……お前がアダルベルトを恩人とは思ってないことに安心してしまったよ」

 ひとりごとのようにジョットが呟き、私はひとつだけ強く頷いた。

「ボンゴレはメロイ家と戦わなければいけない。エルザを巻き込んでまで、お前の大切な人を敵に回すのには、気が引けるんだ。ベルナルドさんは――」

 ジョットの言葉の途中で、私は彼の腕を掴んで遮った。それ以上を、聞きたくはなかった。テーブルの上に置いた白い手袋が、後ろめたくなって目を引いた。それも一瞬。視線をジョットに戻す。私が兄からの贈り物を身に着けることはないだろう。


「ジョット、お願いがあって」


 結局、私が一番に傍に居てほしかった人は、今、こんなにすぐ傍に居る。
 私ときたら世界一の不孝者なのだろう。私のために尽くしてくれた兄より、彼らといることを選ぼうとしている。メロイに背くという心は、決まっていた。


「なんだって聞くさ。だから、そんな難しい顔をしなくていい」


 ジョットはいたずらっぽく笑うから、私はたまらずジョットとの距離を詰めた。私たちは旧友だからと保っていた常識的な距離を、ほんの少し近づけた。

 難しい顔をしたっていいだろう。無邪気にじゃれあえるような子供じゃない。これが、言葉なしに私から寄れる精一杯の距離だった。

 するとジョットの表情からも笑顔が消えた。三日月みたいに瞳が細められて、きっと私だけをうつしてる。穏やかに更けていく夜。願いを声にするまでもなく、私はその時、思い知った。彼は私を、拒まないのだと。そして私も、どんなジョットだって拒めないのだと。

 気付いただろうか。気付かないままでだって、いいのだけど。




 時を止められたのかのように見つめ合うだけの私たちは、軽いノック音を合図にして視線をそらした。

 ジョットが徐に腰を上げてドアへと行く。その隙に私はグラスの水を飲み干した。空のグラスを頬に押し付けた。体の芯まで冷えていく。それでもまだ、首だけ熱い。

「――それはよかった。ああ、わかった、もう少ししたら行く」

 ドアの隙間からは、ナックルさんの姿がうかがえた。どうやら緊急事態ではなさそうだ。会話を交わす二人の表情は穏やかなままだ。端的に済んだのか、ジョットは再びドアを閉め、笑顔を浮かべて振り向いた。

「どうしたって?」
「ミケ達が帰って来た。全員無事だそうだ。見方も敵も、死人はでてない」
「ほんとう!? よかった、早く顔を見に行ってあげてよ」

 あらゆる緊張の糸が解けていくのを感じて、一息ついた。傍まできても、ソファに座ろうとしないジョットも同じだろう。私たちの間には再び距離が保たれる。私はジョットがここに長居しないように、遠回しに促す。ミケたちの元気な声が廊下から聞こえてきた。

「あの時、ミケの傷を見て本当は自分も彼らと戦おうか迷ってたでしょう? わたしを離さないでくれてありがとう」

 襲撃から、ミケ達は体を張って私達を逃がしてくれた。ジョットに庇われていた私は、触れていたから感じてしまったのだ。一瞬、ジョットの体がミケ達の方へ動いたことを。あの場で彼が思い留まったのは、私の体を支えていたからだ。普段のジョットなら、迷いはしなかっただろう。
 
「戦うことは誰にでもできる。だが、エルザを守ってやるのは、俺とGの役目さ。それに、背中を預けて退くことができるぐらいには、あいつらの強さも信じている」
「いつかこの借りを返さなきゃ」
「この期に及んで悔しいとか言い出すんじゃないぞ」

 慰めのように、ジョットが私の頭を撫でた。まるで私は子供のようだ。対等に渡り合うことはもうできない、戦えない私は男達を頼るしかない。そうすることでしか、アダルベルトには敵わないのだ。

「そろそろ寝た方がいい、今日も疲れただろう」
「あ、待って、それでお願いっていうのは、いつもどおりの事だけど、あなたが正しいと思うことをしてよねっていう……」
「エルザ」

 あと少し引き留めていたくて、咄嗟にわずかな嘘を吐いた。視線を泳がせて、まとまらない言葉を話す私は不自然だろう。ジョットがしゃがんで、顔を覗き込んできた。ああ、随分長い前髪だ。揺れて、優しい瞳を覗かせる。


「俺の正義は大切な人を見放したりしない」
「あ」


 ジョットの顔が近づく。口づけはためらいなく、軽く額に落とされた。口づけで応えたくなる私の想いなど知らず、隙もなく、ジョットは離れてった。


「これからは俺の傍に居てほしいと思っている」


 おやすみ、というのは何食わぬ顔。あっさりと私に背を向けて部屋を出ていった。おやすみ、と、その背中に返すこともままならなかった私は、彼の目にどんな風にうつったのだろう。心臓はいつもどおりに穏やかで、体中の熱は引いていた。だって、キスは挨拶だし、酒に酔ってした記憶もある。

 いいや、そうじゃない。どういう意味。待って、そう言うのならまだ行かないで。本当は、一緒に居てほしいって、言いたかったの。

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