15

 土にまみれ、汗にまみれ、その日暮らし貧しさに唇を噛み締める事があっても、決して大切な家族にだけはひもじい思いをさせないようにと勤めてきた。そんな日々を遠く思う。
 父親の背中を必死に追い続けてきた。言葉を学び、態度を学び、気付けば8年が経った。今では、スーツを着るようになった。汗にまみれる人の上に立つようになった。長いこと土を触っていない。随分と久し振りに故郷に帰れば、ひどく貧しい街なのだなと思い知った。

 ツイードのスーツは趣味じゃない。泣きわめく貴婦人の相手も得意じゃない。父親に従順な娘を、哀れだと思った。山賊を倒して、約束通りに彼女を助けたとき、俺は思わず言葉にしてしまった。「言いなりの人生でいいのか」と。自ら親の手駒になることを望んだ彼女は、笑って頷いた。はじめての冒険は楽しかったと言った。自分とは違って、生まれたときからそう教え込まれていたのだろうか。怪訝な顔をした俺を、最後に彼女は不思議そうに見ていた。

『あなたもでしょう』

 少女は鋭く、賢かった。その一言は、俺の、戦いの火蓋を切るに相応しい。





「父親の出迎えもなしに、庭で休憩か?」



 夏が来るのだと、庭の低木の青さが知らせる。日々の騒々しさから切り離されたような庭に、まるで熊が来たようだ。小石をけ飛ばす音に、俺はぞっとしながら振り向いた。もちろんこんな都会で熊が出るわけもない。同じ年代の人間と比べたら、あまりにその人の体格が大きすぎるだけだ。その体格の良さは、家系なのだろう。おかげで、俺までもがその血を強く引いて熊のような体格になった。

 呼吸を整え、表情をつくった。目の前の男の、不愛想に逆らおうと笑みを浮かべる。
 アダルベルト=メロイ。このナポリで栄えるメロイ家の現当主であり、この邸宅の主である。使えない部下よりも、大木が育たないこの庭が嫌いだ。わざわざ来るのは珍しい。


「視察から帰ってくるのは、昨日の予定では?」


 父は日陰のベンチに腰を下ろして、一つ頷く。「ああ」と不愛想な返事が返ってきた。たとえばそんな何気なくこぼれた一言が、「フィレンツェで飲食店を開く」というものだったりしたら、1時間後には一族に関わる数千の人間が動いてしまう。実際は、そんな計画性に欠けた突飛なことを言い出す筈もない。だが、それだけ力をもつ男の長い不在は、俺たちにとっては歯がゆいものであった。ナポリが、いずれは南イタリア全体が、北イタリアに匹敵する発展を成し遂げる。そう計画してきた当の本人がいなくては、気も引き締まらないものだ。チェラーゾファミリー壊滅の後には、気が抜けて祝いのパーティーをし始める奴らもいたのだから。

「シエナで祝日を過ごしていたら、面白い男と出会ったんだ、話が弾んでな」

 と、いいつつも、感情のこもっていない淡々とした言葉だった。
 毎年、父はシエナの別邸で、4月末の"聖カテリーナの日"を過ごす。亡き最愛の人と同じ名の聖人を崇めて、わざわざシエナに別邸を設けたのだ。それにしても遅い帰りであった。もう5月に入って3日目である。

「……その"面白い男"というのは、この庭に大木を育てられる庭師ですかね」
「いいや。少し不器用で、それはできない。だが風采は良く、部下からの信頼が厚く、むやみに勢力を伸ばそうとしない。表向きは私達と同じ起業家であり、実際は自分たちのシマを手堅く守るマフィアのボスだ」
「は、……今なんと?」
「マフィアのボスだ、手を組もうと思っている」

 父の突拍子もない言葉に、思わず俺は手に触れていた低木の枝を折った。声を荒げそうになるのと、寸前のところで堪える。冷静になるのだ。この男は横暴だが、従ってきて間違いは一つもなかった。ただ、その意図が掴めない。


「あなたはマフィアを根絶しようとしようとしているというのに?」


 山賊・チェラーゾファミリーを壊滅させた。アロンザをわざと人質にとらせて、攻撃する口実をつくってまでして、周到にやってきた。奴らが抱えていた武器を根こそぎ奪い上げ、自分たちの戦力に加えた。そうして次には、自警団という化けの皮を被ったボンゴレファミリーと対立するところまできた。南端からくる野蛮なマフィアに対してここで砦となるために、"イタリアのカヴィリェーラ"、俺たちはある。

 父は眉を吊り上げた。視察のためにナポリを離れる直前に、チェラーゾファミリーの壊滅を指示したときの顔と同じである。マフィアを嫌いながら、マフィアに勝る風格だった。

「だからこそ、あの男を企業家として婿養子に迎えてしまいたい」
「……婿養子? どの分家も年頃の女はもう婿を迎えている。一番若くて、サンソーネの所のアロンザだってもう縁談が固まってきている。婿を取るにも、我々には……」

 どこかの家に隠し子でもいたのか。俺の疑問に対し、父は鼻で笑った。
 笑った。この男が、一体何年ぶりに笑っただろう。


「いるじゃないか。一人」


 いいや、いない。そう否定したくても、俺を睨むようにするその視線にひるまされて、言葉がでないのだ。

 俺は、この父親によく似た。父親を知らずに育ってきて、いい年になってからこの男と出会い、この家の息子として連れられてきた。誰も俺と父の血の繋がりを疑わなかった。だからこそ、俺はいまここにいる。メロイ家の跡取りとして、育てられてきた。「誰に似たんだ」と笑われることはなくなった。俺は似ることができなかった母。その母に似た、たった一人の、俺の妹。


「シエナを飛び出して故郷に帰った女が、さて、今はいくつになった」


 エルザ。栗色の柔らかな髪も、顔立ちも、母親によく似てくれたことを嬉しく思う。だからこそ、メロイ家の養子としては認められなかった。離ればなれになってしまった。ナポリに連れてきても、サンソーネの邸宅で重労働をさせることになってしまった。

 8年ぶりに会って、よくわかった。あいつは紛れもなく恋をしているだろう。相手は、俺たちがこれから捕らえようとする男・ボンゴレプリーモだ。まるで初恋のままのような可愛らしさをまとっている。今は亡き母が、恋をしていたころと同じ顔をする。

「……あいつは23になりましたよ。昨日、手袋を贈った。きっと似合う。母親によく似た女性になってくれた」
「そうか。尚更、婚期を遅らせるのはよろしくない」

 あいつは恋の終わりと、別れを嘆くだろう。それでも言葉にしないから、俺は、あの町を出ることだって喜んでくれるものだと思っていた。俺は一度間違えてしまったのだ。あいつから幼馴染を奪い上げるだけに終わった。
 失敗から、あいつの幸せは、俺に決められないということを知った。エルザの望む幸せが、初恋の相手と結ばれることであるというのなら、俺は2度目の失敗を犯そう。裏社会に突き進むボンゴレの流れに、あいつが組み込まれてしまう前に、それを阻止するしかない。

「返事がないな。いい話だろう、私が、彼女をメロイ家の娘として認めるんだ。お前が望み、訴え続けてきたことだ」

 今になって、ようやくか。俺は思わずため息を吐く。8年前に俺が懇願したときには、聞いていないことにされてしまった。

「それに二人は既に知り合いだ、仲も良い」
「……?! なぜエルザはマフィアとの交流が!」
「やつは彼女に表の顔しか見せとらん。案ずるでない。不器用な男だ、裏表があるのではなく、ただ、マフィアとしての側面を教えてないだけだ」

 まだ間に合う。俺は、戦わなければならない。

「おや、どうしたベルナルド。お前の命よりも大切な妹は、一刻も早くこちら側に引き入れなければ、ボンゴレもろとも瓦礫に埋もれてしまうぞ」

 母が死んだ日の光景が目に浮かぶ。エルザが母によく似てしまったから、俺は時々夢でうなされる。母と同じように、エルザが殺される夢を見る。そうはさせないと、戦うのだ。


「――宣戦布告は済みました。既に、ボンゴレに通じる交通・金融面は把握済みです」
「よろしい」
「エルザとその男を結婚させるなら、その男が抱えているマフィアとしての組織は、我々カヴィリェーラに合流させましょう。ボンゴレ本部襲撃の準備は、整います」


 アダルベルト=メロイはまたも笑った。今日はよほど機嫌がいいのだろう。父が笑うのならば、明日は雨だ。大嵐だ。


「期待しているよ、ベルナルド」


 メロイの名を背負い、生きていく。母の望みに背くことだ、それでも、守らなければならないものがある。傍に居て、涙をぬぐってやることすら、できなくても。

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