14

 寝て、目が覚めて、閉め切ったカーテンの隙間から光が漏れていないことをうつろな意識で確かめた。もう一度寝て、目が覚めて、恐る恐るとカーテンの外を覗くと、それでも街はまだ目覚めていなかった。私は、浅い眠りを繰り返してすっかり疲れてしまった。この家に、一体何人の男が押し込まれているのかわからない。その警戒心も私の眠りを浅くさせた要因だろう。しかし、耳を澄ませても、まだ廊下や下の階から人が動く音は聞こえなかった。
 はだけたシュミーズを整え、コルセットを身に着けては軽く締める。コットン生地に繊細な刺繍もあしらわれて、やわらかな印象で、気に入ってる。けれど当然、丈夫な鯨骨なくしてはコルセットとしての役割を果たさない。両手を後ろに回して、長い紐を結びあげていくのにも、もう慣れていた。服は、しかたない。昨日と同じ物を着るしかない。家に帰るまでの辛抱だ。

 体の中までも目が覚めはじめたらしい。内側から響くように胃がなった。コルセットの締めすぎで臓器が悲鳴を上げる前に、いつだって胃が一番正直だ。
 朝いちばんの決まり事を終える。昨日と同じ服装であることを除けば、これでもう人前に立つことができる。いや、ああ、ここはナポリだ。私の服装は、ナポリの貴婦人からしてみればいかにも田舎風。外を出歩くには、人目が気になる。かもしれない。

 
「意味がわからねェ! あの駅員いままでボンゴレがどれだけ事業に貢献してきたか知らねえんじゃないのか!」


「っ!?」


 廊下に誰もいないことに安心しながら、階段を下りていた時だった。玄関口のドアが突き破られるような勢いで開け放たれる。朝一番、荒っぽい口調を家中に響き渡らせたのは、ミケだった。階段を下りている途中の私には気付かないで、大股歩きで廊下を突き進む。一階のリビングからは、驚いた様子でジョットとGが顔を出す。二人も、朝は早い方なのだ。

「うっせーぞミケ。夜番の奴らは今寝たばっかだ」
「取り乱してどうした。汽車の手配は……」

 言いかけのまま、ジョットが私に気付いてこちらを仰いだ。彼のその視線の動きに、Gもミケもつられて私を見る。ミケの険しい表情に、私はおはようの言葉すら詰まらせた。

「G! ジョット! ……エルザ! ああちっくしょう馬で送ってくしか」
「落ち着け。落ち着いてから話すんだ」

 ジョットがミケをなだめる。その様子は、彼らの少年期を思い出させる。ミケやピオがここで働いているのは、彼らが実の兄のようにジョットとGを慕い続けた自然な流れなんだろう。
 私は階段を下り、3人の元へと寄った。

「おはよう、ミケったら、朝から誰よりも元気なのは昔のまま」
「おはようエルザ。悪いな、ミケが驚かせただろう」
「……スミマセン、落ち着きました」

 Gに頬を抓られたミケは縮まってしまった。そして、私達はジョットに促されるがままにリビングへと入る。広々とした空間のあちらこちら、椅子のあるところすべてが満席で、揃って男達が寝息をかいていた。ジョットもGも、それを気にする様子はなく、そのままダイニングキッチンへと直結してるドアを開けた。
 途端、漂うのはパンを焼いた芳ばしい香り。こちらに背を向けて、一人の男性がキッチンに立っていた。

「お! 朝から究極に威勢がいいのはミケだったか!」
「たははは……、おはようございます、ナックル様。お叱りだけは勘弁してください、Gに抓られましたんで」

 フライパンを片手にしたまま振り返った、ナックルという男性。昨日、サンソーネ邸宅前でジョットと合流したときにも居た人だ。確か、ミケの直属の上司じゃないだろうか。ミケは急に腰を低くした態度で、心からバツが悪そうに男性に頭を下げた。
 食卓には、男性が用意してくれたのだろう、パンと瓶詰のジャムが並ぶ。食後用のカプチーノの準備も万端らしい。

 ジョットは適当な椅子を引いて、私を招いた。ああやだ、なんだか余所行きな気分。こそばゆさを感じながら、その席についた。背後に感じるジョットの気配にとぎまぎしながら、私は後ろ髪が崩れていないかを気にした。そうしてジョットは、さりげなくGが椅子を引いていた上座に腰を下ろす。なるほどな、Gはジョットの面倒を見るのが好きみたいだ。

「で、ミケ、何をそんな苛立ってやがる」

 Gの席にはパンがなかった。かといって、文句をつける様子もなく、既に用意されているカプチーノに手を付ける。朝は誰よりも少食らしい。

「それが、今日は汽車は出ないと言われたんです。とはいえ俺以外の奴には始発の切符を売っていたのですがね」
「始発にこだわらなくてもいいだろう」
「もちろんそれも訊ねましたが、ダメです」
「だったら馬車でいくしかねーな」
「それが騎手のフデリコのヤツ、昨日飯屋で大盤振る舞いされて腹を下したみたいで。まったくこんな緊迫した中で情けないヤツです」
「ならミケ、お前が……ってそれは厳しいか。ここでお前が抜けると機動力が落ちる」

 小気味よいリズムでジョット、G、ミケは会話を進めていく。私は、目の前に念願叶った食事がありながらも、パンの魅惑的な小麦色とお見合いをしているだけだった。手を付けるにも、そう、ナックルという男性とまともに挨拶をしていないから、手をつけがたいのだ。そうしてふとナックルという男性と目が合う。突き抜けるような笑顔で、何も言わず、「良い食事を」と、口の動きだけで伝えてきた。なんだか、考えていることを見通されているようだ。

「究極に冷めないうちに食べろ。そうでもしなければ頭も回らんぞ」
「そうだな。エルザも遠慮しないで食べてくれ、昨日から何も食べてないだろう」

ふんわり湯気を立てるパンとカプチーノ。ナックルさんに挨拶もできないまま、わたしはパンにようやくありついた。


「それで、何を揉めているの?」

 ジャムに手を伸ばしたジョットに、私は問う。かぽっ、と、瓶の蓋を外す間抜けた音が私の言葉の後に続いた。男たちは揃って顔を見合わせてから、改めて私を見る。一手に集まる視線にいたたまれなくなって、しかたなしにジョットを見た。言いだしにくそうな顔をしている。

「お前をいつまでもこんなむさくるしいとこに押し込めておくわけにはいかないからな。帰りの汽車を手配しようとおもったんだ、が」
「切符がとれないって? 何言ってるの。アラウディ、さんは一言で貸切ってしまったのに」
「どうしたもんかな。アイツのコネならボンゴレとは別扱いしてくれるのやら」

 今ここにいないあの人。ジョットたちの仲間であることは確かなのだろうに、どうやら足並みが揃っていないらしい。現に、昨晩はここにも帰ってこなかった。

「でも、いいわよ、とにかく急がなくたって……。まあ、あの、ここのお荷物になるようだったらさっさと兄を頼るけど」
「荷物なんかじゃないさ、ここが嫌でないのなら居てほしい。昨晩言ったとおりだ。俺達にできるだけのことはさせてくれ」

 はっとさせられるようなジョットの言葉に目を瞠った。そう、そうだった。守られることを、私は彼に許した。頼ってくれていいのだと、暗に意味する言葉。

「頼もしいこと」

 思わず、笑みが零れた。ジョットも、Gも、ミケも、ナックルさんも、私がここにいることを許してくれるような笑みを向けてくれた。
 汽車に乗れるようになるまでここで待たせてもらうことにしようと、素直に思った。男達に狙われていたのは怖かったけれど、ジョットとGに合流できたのは幸運だった。知らない人ばかりではないことが、まだ救いだ。

「お、究極に話の途中で悪いが、俺はそろそろ行かねばならん」
「ああ、すまんなナックル。気が利かなくて」

 ナックルさんは前掛けを外し、無造作に椅子に掛けた。挨拶するなら今しかない、と私は立ち上がり、ナックルさんに頭を下げた。

「なかなか挨拶ができずにいて申し訳ありませんでした。もうご存知とはおもいますが、私、彼らの幼馴染のエルザです。エルザ=イリデ」
「改めて、俺はナックルだ。究極に遠慮はいらんぞ、あ、あなたの事はかねてから話を聞いている」

 ナックルさんから差し出された手をとり、握手を交わしているとすぐそばのGが唐突に笑い声を漏らす。カプチーノでむせたのか、と思いきや。

「"あなた"だってよ」
「なにぉう! G! だったらキサマは女性相手にもテメェなどというのか!」
「言うわよね、G」
「テメェにはな」
「……結構。あなたにあなたっていわれたら鳥肌立って収まらない」

 ナックルさんは私達のいくつ上だろうか。Gが女性に接しているところをあまり見ることはないけれど、ナックルさんの態度を見習うべきだと思った。いっそ、こんなぞんざいな扱いなのは私に対してだけと断言されてしまっては、そうでもないところが見てみたいぐらいだ。

「この二人はいつもこうなんだ、気にするな」
「ならいいのだが」

 平然と食事を進めるジョット。私とGのにらみ合いを制止できるのはきっと彼以外にいない。ナックルさんは呆れたような顔のまま、私にこっそり耳打ちをした。

「苦労しないか、男の幼馴染に合わせるのは大変だろう」
「慣れっこですよ」
「俺にも故郷にエルザと同じぐらいの妹がいる。ここにいるうちは究極に俺も頼っていいからな。着の身着のまま連れてこられたのだろう。買い物にいきたければ俺が護衛になってやるぞ、金の心配もいらない」

 こそこそと話す私達に、なんだなんだとジョット、G、ミケが首を伸ばしてくる。この年になって気付いたけれど、一番に気を許している幼馴染といえど、生活用品の話まであっぴろげに話すのは気が引けた。自分の性というものを意識始めたばかりの、恥ずかしがる年頃も過ぎている。それでも、今、8年も離れていた幼馴染とは子供時代からやり直しているみたいなのだ。それでは躊躇われた。

「……、……お願いしてもいいですか」
「究極にもちろんだ。そうとなれば食事の後だな。っと、俺はそろそろ時間だ」

 それじゃあまたあとでな、と、ナックルさんは言い残してダイニングキッチンを出て行く。まだ朝も早いこの時間帯から、誰よりもきびきびと動いていた。

「あの人は朝食用意してくれたのに食べないの?」
「神父なんだ。朝のミサの後にな」
「……神父様が自警団に?」
「うちには色んな奴がいる。だが全てジョットの人脈あってのものさ」

 何食わぬ顔で、Gが言う。どうしてだろう。これから先、私の質問はすべてその一言で片づけられてしまいそうな気がした。納得してしまっている私もいる。ジョットを見れば、Gの言葉に何も言い返す風でもなく、穏やかに微笑んで受け入れていた。

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