13
「夜だけど、念のためにカーテンは開けない方がいい。それから何か食いたければさっと……スープぐらいは作れるんだぜ、オレ。あとそれから、……オレ馬臭いな! ごめん出ていくわ。とにかく少し休みな、ジョットとGも後で顔出してくれるとおもうからさ」
ピオがジョット達の元で働いてるということは、もしかしたらミケもいるのでは、と思っていた。サンソーネ家の邸宅前で突然の暴動に出くわして、偶然ジョットと合流したところで、馬を走らせてやってきたのがミケだった。小さい頃は私の背を越そうと必死だった彼も、今では立派な青年だ。饒舌なのは、変わりないらしい。
「ありがとう、ミケ。気使わなくていいのに」
「オレにとってエルザって、ジョットよりもGよりもかっこいい人だった覚えあってさ、でもすっかりエルザ、女性らしくなったからさ、……緊張するっつーか」
「そんな大げさに変わんないって。実は私も馬乗れるの、どう、かっこいい?」
「げ、ナックル班一の騎手と言われるオレでも勝てる気しねぇわ」
部屋を出て、閉めかけのドアの隙間から顔を覗かせて笑うミケ。音を立てて閉ざされるドアを、私はしばらく見つめていた。ピオもミケも、いつまでたっても私にとっては弟も同然なのに、彼らもまた、私の知らない世界で生きる男達の一人だった。
「そんなこといっちゃってさ……」
今では何一つ敵わないことを知っている。
サンソーネ邸宅前で、アラウディはいち早く暴動に気付いていた。とっさに私を茂みに引っ張り込み、暴動を起こしている集団に気付かれないように匿ってくれていた。状況を理解できないまま私が息をひそめている間にも、彼は分かり切ったように冷静に暴動を眺めていた。一発の銃声の後も、顔色一つ変えたりしなかった。
ここはナポリ。ここは、彼らのナポリでの拠点。その二階にある個室。それは分かっている。でも私は、一体どこにいるんだろう。見た目は普通の民家なのに、ここには私以外一人も女性がいなかった。一階にいるのは険しい表情の男達。ここではジョットも、Gも、私の知らない顔をしていた。
どっと、疲れが押し寄せてきたのを感じる。ろうそく灯だけのぼんやりと薄暗い部屋で、このまま目を閉じればで眠ってしまいそうだった。
男達に追いかけられて、走って逃げて、一杯のコーヒー。馬車と、汽車に乗って、あの時だけが静かだった。ナポリについて、偶然会った奥様を送りとどけて、目の前で暴動、怪我だらけの男達。目まぐるしい一日の流れが、鮮やかに浮かぶ。私の知ってるナポリは、こんなにも不穏だっただろうか。
椅子と、テーブルと、ベッドだけの小さな部屋。今日はここで一晩を過ごすことになる。背中から覆いかぶさってくるような眠気に促されるまま、私はベッドに腰を下ろした。不思議とお腹は空いていなかった。食べれる気もしなかった。
髪を解く。走っているうちにすこしだけすれてしまった靴を脱ぐ。ジョットからもらって、まだ日も浅い。寝間着でもないけれど、もういいや。食事も服も今はいらない。顔を見せてほしいのだ。二人に。ジョットとGに。
灯りは消さないままでいい。こんな日は暗闇が怖くなる。もう23歳だっていうのに、年と比例して大きくなる黒い渦が、私の中にはまだあった。のみ込まれてしまいたくない。この街にいると、胸がざわつく。
「エルザ、いるか?」
ノックが2回。ドア越しのくぐもった声がかかる。その声一つでまとわりつく闇がすっと晴れていくようだ。私は慌てて体を起こして返事をする。髪を結びなおすのも、ベッドから出るのも間に合わない。
「ごめんこんな格好で」
ゆっくりとドアを開けて入ってきたジョットと、それからタバコの臭いと一緒にG。二人は私の表情を窺うなり、見るからに肩が落ちた。その姿に、私も同じようにして肩を落とす。二人はきっと私を案じてくれたに違いない。けれど同じぐらい、私だって二人が心配だったのだ。
「そのままでいい。十分疲れただろう」
「まあまあね」
「お前が町中で男達に追われたことも、アラウディに保護されたことも聞いていた」
「それは心配かけちゃったでしょう」
「ああ、すっごく」
「でも、本当に狙われてるのは二人のほうだよね。私も心配だった」
椅子を持ってきてベッドサイドに座る二人。さっきと違って、私のよく知る幼馴染の顔だった。ああよかった、こんな時まで仕事の顔されたら休まるものも休まらない。気がかりなのは、始終ジョットの表情がうかないことだ。Gも、どちらかといえば私よりジョットの方に目をやって、その様子を見守っている。
「俺達のことはいい。相手の気に障るようなことをしている自覚はある。だが、何も悪くないエルザが襲われたのは俺達のせいだ」
「言うと思った。でもそんなことない。アラウディ、さんを呼んでくれたんでしょ。……あの人が来なければ私は逃げきれていなかったとおもうの。行先はどうしてナポリ? っておもったけど、彼はきっといい人ね、ジョットとGがいるところに連れてきてくれたのなら」
「……いいや、それも俺達が頼んだんじゃないんだ。あいつは常に独断で動いてる。元々は男達を調査するためにカラブリアに行ったところだった」
「だったら余計にお礼言わなきゃ。まだ、彼いる?」
「とっくに次の仕事見つけて出てったぜ、忙しいヤツだ」
「そう……」
身を守ってもらったのに、ろくにお礼も言えてなかった気がする。「明日も一度は顔を出すだろ」とGがぶっきらぼうに言った。どうやら友人とはいえど、彼の方がそっけないらしい。
「アラウディの働きに比べたら、俺がお前にしてやれることなんてほんの一握りだ」
「自分を責めてばっかり。少しはGぐらいふんぞり返ってもいいのに」
「テメェ、口だけはいつだって達者だな」
「私があんまりにもしおらしくたって余計心配するんじゃないの。ミケだって、緊張するとかいっちゃって、あれは不気味がってたわ」
「あーあぁミケの意見はごもっともだ」
Gもいつもどおりだった。肘で私を小突くと、少年のように笑う。そうして、それでも薄笑いしか浮かべないジョットに、Gは気に掛けるような視線を送る。
ジョットは、グローブをつけていない素手を組んで、筋が浮かび上がるほど強く力んでいた。場違いなぐらい、彼だけが深刻な様子なのだ。
「……だからジョット、気に病まないで。私はいつもどおりだから」
「エルザは追われても、目の前で暴動があっても、怖くなかったのか?」
食い込み気味の質問に、私は息と、言葉をのんだ。笑っていればいいと思う、私の方が場違いなのかもしれない。ジョットは私を疑うように、小首をかしげる。これも全部、私を心配してくれる彼のやさしさに違いない。
「……それは、」
たった一発の銃声とその振動が、耳に残ってる。誰が撃ったのか、誰が撃たれたのかもわからない。威嚇射撃だ、と冷静に私に教えてくれたアラウディの言葉を理解しようと飲み込んでは、反芻するように繰り返した。誰も死んでいないと教えられても、平常心はまだ戻ってきていない。
ジョットもGも銃がある暮らしに慣れてしまったのだろうか。私は違う。幼い頃の無鉄砲さなんてもうないのだ。目の前の銃撃戦が全く怖くないなんて、そんな筈があるものか。私は、母のようには死にたくない。
浅く息を吸って、喉から変な音がする。みっともなく身を丸めると、ジョットの手が肩に触れ、私の背中を撫でた。
「すまない、怖いのが当たり前だな。お前にそんな思いまでさせておいて、俺もまだ怖いんだ」
「なんなの、怖いでしょ、ふつうでしょ、危ないことなんてするべきじゃないの」
「でも、」
顔を上げる。私はジョットを見入った。ジョットの目がちっとも揺らがずに私を見つめるから、今から伝えられようとする言葉を覚悟して待った。もう、迷いの晴れた表情。こんなに強く、心強くなったのに、それでもあなたは何を恐れるのだろう。
「俺が、俺でなくても"俺達"が、お前を守ることをどうか許してほしい」
あまりにも控えめな言い方。何を深刻に悩んでいたのか、きっとジョットは私を言いくるめる言葉を選んでいたのだ。たとえば。たとえばの話、"俺がお前を守る"とぐらい言い切ったって、ジョットは男で、女の私はそれを拒まない。それでも彼の記憶の中で、幼い私は強い子だったんだろう。守るなんて言ったら、張り合いを始めるような、強い子だった。
ジョットの真剣な眼差しが突き刺さって、首筋のあたりからすこしだけ熱くなる。頷くしかなかった。気持ちが滅入ってるせいもある。それ以上に、私のなかに残ってるジョットを特別に想う心が、守られたいと囁いた。身を守るため? 傍にいる口実? どっちだって同じだ。こんなに小さくなってしまった私を、見ていてくれるのなら。
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