01

 森の中の一軒家。ご近所さんはいない。それを好んだのは母だった。春から秋にかけて家の周りには花が絶えずにいたのを、きっと忘れる日はこないだろう。気付けばもう、母が居なくなってから18年が経とうとしている。
 私は結局、婦人が冗談で差し出したサンダルに履き替えた。もちろん、現実に靴無しでは歩けない私は、お金は支払うつもりだったけれどプレゼントされてしまった。あの靴は、……さすがに下取りには出せない。後日取りに行こう。

「ちょっと、お嬢さん」

 よし、坂、のぼろう。荷物を持ち直して意気込んだところで後ろから声をかけられ、反射的に振り向いた。相手の顔を確認する前に、大きな手が私の肩を掴む。ここまでくると人通りも少なく、森の方を目指す人なんて、私以外いないはずだった。あの森には私の生家と、廃墟しかないのだ。男だというのはすぐにわかり、しかし恐れず顔を上げた。

 記憶とは敏感で、見覚えのある顔だ、と、すぐ気付く。こんな小さな町で、同年代、知らない顔はなかった。たとえ、8年経とうがわかるものだ。

「いい服を着て、見ない顔だね、この先に何か用かな」
「都会からきたの?」

 どうやら、幸いにも男二人は私のこと覚えていないらしい。気づいていないだけかな。よほど気付かれてないほうが好都合かもしれない。

「都会から来たわ」
「ならお茶でもどう? こんな田舎にもいいお店があるんだ」
「そ、俺たちにおごりで、一杯」

 しまりのない顔でへらりと笑う、その表情が変わらない。変わったのは背丈だけだ。幼い頃の面影がそのままの、ふとっちょフリオとそばかすのガストーネ。覚えてる。

「こんな昼間から、酒場かな」
「まさか! 喫茶店だよ。坂を登る前に、休憩しようってんだ」
「あいにくだけどお断り。だれがあなた達の絡み酒なんて相手するもんですか、女泣かせのフリオとガストーネ」
「なっ、」

 二人の顔がまるで熟れたトマトのように赤く、赤くなる。私はとっさに離れて足を進めようとする。しかしふとっちょの方――フリオにがっしりと掴まれた肩は離されることなく、私は前に進めなかった。

「っ……離してよ」

 むやみやたらに突き飛ばしたって動じる男達じゃない。今の私にできる抵抗といったら睨む・振り払う程度が限界なのは目に見えてる。いつの日か見下ろしていたその旋毛は、私よりずっと高いところにある。そのとき、フリオが大きく目を見開いたのだった。なにか、彼の中で繋がってしまった。

「……思い出したぜ、お前、エルザだな」
「ああ、あのエルザか。見違えたなあ!」
「そう、お久しぶり。だからって、何」

 思い出されてしまったら、もう面倒。同じ町で生まれ育った相手とはいえ、いい思い出が一つとしてない相手だ。振り払おうとすればするほど、しかし私の肩にフリオの指が食い込んでくる。男の手はこんなにも乱暴なものだったっけ。肩に痕ができそうだった。

「俺たち忠告してんだぜ」
「誘ってきただけじゃない」
「いーや? お前確か家が森の方だったな。だがな、近づかないほうがいいぜ?」
「なんだったら俺たちの家に来なよ、美味しいお菓子も出すしさ」
「近づかないほうがいいってなに? 私の家の周りに魔物でも住んでるの? そんな馬鹿な」

 力ずくでは振り払えない。ガストーネにも荷物を抱えた腕を掴まれ、大男二人を相手に身動きが取れなくなる。首をもたげたアイリスの花が、ひとつ、引きちぎれては落ちてった。
 ああ! ほんの8年前までだったら、こんな二人、敵じゃないのに!
 今にも引きずられそうだった。どこに連れ込まれるかなんて予想がついてる。町は安全だなんて、だとしても完璧じゃない。婦人が言っていた頼もしい人たちなんて、神様じゃない。いつでもどこでも、困ってる人に手を差し伸べてくれる存在なんて、いない。

「あーあ、あんな強気な女だったのが8年も経てばこうにも無抵抗か? 細いな」

 そう、私は強気だった。男勝りだった。あの頃と変わりないままだったら花屋の店主だって、すぐに私だって気付いただろう。この二人が女の子を引っ掛けて泣かせるたびに、代わって私が二人を泣かせた。いつも特別仲のいい幼馴染みと、私は、この町で真っ当に暮らす人たちの悲しがる顔を見たくなかった。
 痛い。花束を落としそうになりながら、私はもがく。ガストーネのそばかすが目と鼻の先にある。身の毛もよだった。

「やだ、離して」

 ぐっと目を瞑ると、ふと浮かぶ。

 身の程知らずで男相手に喧嘩ふっかけて負けそうになったとき、必ず助けてくれた。彼は私の、神様みたいな人だった。いや、神様みたいに遠くにあるものじゃなくて、この町の近いところにある大空みたいな人。アイリスの香りが、記憶を繋げる。

 あの暖かい橙。


「フリオ、ガストーネ。その人はどちらかの恋人かな? そうでなければ離してもらおうか」


 決して責め口調ではない。淡々とした男の声が、けれど力強かった。
 二人の手が急に離れて、私はその場に崩れこんだ。荷物もアイリスも、すべて落としてしまう。捨て台詞を吐いてフリオとガストーネが走り去っていく音を背中で感じながら、くやしさも、懐かしささえもこみ上げてきた。
 顔を上げれば、分かっていたような優しい顔。高いところまで昇った太陽の光を受けて金髪を輝かせている。瞳の色は褪せたりしない。あたたかな橙。おおきくなった肩に、――ジョット、あなたが大空をせおってる。

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