01

 靴を貰って、下宿先を飛び出して、もう何日だろう。途中で乗り換えて、鉄道が通ってる限界のとろまできても、この町はまだまだ遠いところにある。交通の便が悪いのは昔から解消されないのだ。イタリア半島爪先の田舎町。カラブリアの中でも奥まったところにある。馬車に乗り込み、交通費として確保していたお金が無くなればあとはもうひたすらに徒歩だった。

 ようやく靴屋が近い。初めて買ってもらった靴も、この町を出ていくときに履いていた靴も、全部母の友人が作ってくれたものだ。靴屋の夫婦は空になった私の家をずっと管理してくれている。
 記憶に鮮やかな景色。狭そうに肩を並べた民家の間にその靴屋はある。少し先に坂道。そのさらに奥、森林に入ると懐かしい家。昔はよく坂を走った。誰が一番足が早いか、私達は走り、躓いて、何度も転んだのに懲りることなく競い合った。あの頃のまま。生まれ育った町は変わらない。変わらないままでいてくれた。

 ――ああでも、何かがおかしい。

首筋をなでる生あたたかい風が、なぜか身を震わせる。せまい路地裏に、怪しい人影。そんな通りがいくつもあった。決して良い雰囲気ではない。ピンと張り詰めた緊張感を怖くも感じ、足取りを早めた。


「ごめんください」


 そして靴屋の重たいドアを押し開ければ、店内には客一人いない静まり返っていた。閉じ込められた靴のにおい。母に連れられて初めて来た日のことも思い出す。
品定めを兼ねて店内を回っても、夫婦の姿も見当たらない。住まいへと続く上の方へ声をかけると、階段が軋んで急ぐ足音が聞こえる。私が今日戻ってくることは、途中の町で事前に手紙で伝えていた。白髪を一つにまとめ、甘い匂いをまとった婦人が顔を出す。

「はいはい。……まあ! あら、あら、待ってたのよぉ」
「こんにちは、おばさま。エルザです」

 婦人はすぐに私だと分かってくれたのだろう。飾らない笑顔で出迎えてくれた。

「エルザちゃん! まあ、見違えちゃって。お母さんそっくりになったわねえ」
「本当ですか? うれしい」
「……あ! そうそうお家の鍵よね」

 そう言って前掛けのポケットから鍵束を出した。一体そんなに鍵をもって、どこに使うのだろう。不思議なぐらいいくつも連なったその中から一つ、摘まみ出す。

「はいこれ。お家は昨日娘と一緒に掃除しておいたわ」
「急でしたのに、そこまでしていただいて。長い間ありがとうございました、後日またお礼に」
「いいのよいいのよ!」

 私が深く頭を下げ、顔を上げる前に言葉を重ねられる。婦人は、まさにこの町で暮らし続けた女性を表している。尽きない明るさ、大きく構えた余裕。なんだか母を思い出す。

「お礼はお兄さんからちゃんと頂いてるの、構わないわ」

 兄。その言葉に私は慌てて顔を上げ、思わず前のめりになった。


「あの! ……兄は?」


 自分でもわかるくらい、声が上ずった。しかし婦人は首を横に振るだけ。

「……あなたと同じでこの8年、帰ってきてないわ」

 兄は私と同時期に家を出た。そうして8年前、兄は無人になる家を昔の好で管理してくれるという靴屋夫婦に管理費の約束をして、私とは別の道へ。私も連絡は取らず、その背中を見送ったきりだ。

「もう頂く必要ないのだけど、こっちから連絡取れないのよね。これじゃあお返しもできないわ。だからこれからは送られてきたらあなたに渡すわね」
「わかりました。ご丁寧にどうも」

 そうしてもう一度頭を下げる。もともと、兄が先に帰ってきている期待もしていなかった。家を残すと言い始めたのは兄だったし、もしかしたら、なんて一瞬頭によぎったけれど……そうはいかないらしい。

「ところで、さっき外で怪しい人たちがいたんですけど、大丈夫ですか?」
「ああ、気にしない方がいいわ。昔から時々いるのよ、あなたが大人になって目につくようになっただけ」

 明らかに婦人の表情が陰る。婦人の言う通り、確かに子供の頃の目線では見えないものもあるだろう。私は森から飛び出して日の当たる街中を駆け回ってた。でもきっと、あの人たちは昔からはいない。昔よく大人に注意されて避けてたゴロツキなどとは、風采が違う。曖昧にはぐらかされてしまった。婦人にとって私は、まだ丸め込める素直な15歳らしい。

「でも安心してちょうだい。今この町は、頼もしい人たちに守られてるわ」

 またぱっと、婦人の表情は笑顔に戻った。すこし誇らしげに、両手に腰をついて安全を主張する。そうか、町の人どおりが昔より多く、一層にぎやかに感じられたのは人々の安心感あってのものなのかもしれない。考えすぎだったかな、と私もつられて笑った。


「……ま、エルザちゃんってば立派なパンプス履いちゃって。大人になったのね」


 職業柄か、私の靴をちらりと窺った婦人は寂しそうな顔をして、私の頭を撫でる。この町に帰ってきて初めて触れるあたたかさが、ただのヒールの高さを無理なつま先立ちしているような感覚にすり替えてった。小さい頃は見上げていた婦人の顔を、今では見下ろして話す。突然大きくなったような違和感に、息が詰まった。この靴を脱いでしまえば、私は婦人より小さいままだというのに。


「おばさん、私、裸足で歩けなくなったからつま先立ちしてるの」


 私のめちゃくちゃなジョークを、婦人は笑う。「誰だってそうよ。あなたもようやく靴を必要としてくれるようになったのね」。婦人は棚からひとつ、庭用の簡素なサンダルを下ろした。なぜか私には、とっておきのドレスシューズのように見えた。

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