05

 家に戻れば大きなトランクが無造作に床に広げられて、ダイニングテーブルを囲む3脚の椅子すべてに何かしら衣類がかけられていた。Gが来てもいないのにたばこ臭いと思えば、原因は兄自身だった。

「イルダ婦人のとこに鍵をもらいに行ったらな、お前も帰ってきてると言われたもんだから走ってきたのに家は無人。がっかりだ。出かけ先がすぐそこだからって、庭先の鍵はちょちょいといじれば開くんだぞ、ちょっと不用心すぎやしないか、俺は心配だ」

 ジョットを訪ねた時はやはり気を張っていたんだろう。実家に帰ってきて、急に饒舌になった。口調も砕けている。

「言い返すようで悪いけど、よっぽどたばこ吸い過ぎてるベルの体の方が心配」

 顔立ちも深みを増して、たばこが似合うようになってしまった。妹の私とは似つかない兄の容姿は、八百屋のピエトロさんが言うように、一体誰に似たんだろう。母譲りなのはヘーゼルの瞳だけだった。
 カウンターキッチン越しに兄を見る。私は二人分の昼食に、くつくつとパスタを茹でる。兄の好きだったアラビアータ。母のレシピが残っていた。

「まあ、暮らしぶりには安心したよ。掃除もキレイにしてるし、自炊もするんだな。シエナのメロイ別邸も厳しかったろう」


 細めた目で私を見る。慰めるようなその口調は、妹を気遣う兄のものだ。


「ベルまで私が別人みたいだって笑う?」
「誰にそんなこと言われたんだ」
「ジョットとGよ。それから町の人」
「あのガキ共か」

 兄はまだ半分近く残ってるたばこを灰皿に押し付けた。再びジョットとGの事を話題にあげたことが癪に障ったらしい。特にGと折り合いが合わなかっただけに、今日、Gが不在だったのは幸いだった。

「ま、まあその話は置いておいて。確かに私がこれだけ家事できるようになったのは紛れもなくあのお屋敷に勤めたおかげ、その通り、厳しすぎて、もっと厳しい本家に勤めるあなたは耐えられなくなってるんじゃないかと思うぐらい」

 肩肘張ったものが苦手だった兄が、首元までネクタイを締めて、何着ものジャケットを持っている。兄の正装を目にするのは母の葬儀の日以来だ。
 私がシエナで仕えた屋敷は当主の第二の住居に過ぎなかった。ナポリを中心に複数の事業で成功したメロイ家。25歳だった兄はこの町を出てすぐにメロイ家の当主に連れられ、各事業の総括をしている総本家に仕えていた筈だ。

「俺は大丈夫さ、うまくやってる。新しくやってる事業の責任者になったんだ」
「忙しいんじゃないの。でも、不思議。兄妹揃って同じ時期に8年ぶりに帰ってくるなんて」
「今回は仕事で近くまで来たんだ」

 さっきたばこの火を消したのは無意識だったんだろう。物足りないのか、2本目に手を伸ばしかけた兄を私が視線でけん制する。

「……いいじゃないかもう一本ぐらい。その眼つき、やっぱり俺を叱るときの母さんそっくりだ。キッチンに立ってると、尚更」
「そんなに私、母さんと似てるの?」
「似てるな。――仕事をやめて男と結婚するってところまでは似ないでくれよ」

 次に眼つき変えたのは兄だった。誰に似たんだろう。母さんはこんなに鋭い目をしない。どきり、と心臓が跳ねる。


「やだなあ、結婚なんてする相手もいないの、まだ早い」
「当たり前だ結婚なんてまだ許すわけないだろ。仕事だ、メロイ別邸はどうした」


 兄は、時に私にとって父のようなものだった。もし、私の父も生きていたら、こんな風にダメな娘を叱りつけてくれたのだろうか。兄は私を無視して2本目のたばこに火をつける。

「仕事はやめたの」
「今はどう暮らしを繋いでる」
「貯金を切り崩してるわ。もうすぐ新しい仕事を探す」
「どうして屋敷を出てきた」

 私とは違って兄は今もメロイ家に従事してる。私の暮らしを案じてくれているというより、その口ぶりはどちらかと言えばメロイ家の関係者としての詰問だ。
 兄にばかりは嘘をついてもどうしようにもない。たっぷりとため息をこぼして、私は玄関先の靴箱を見やった。シエナでもらったあの靴を、履くことはもうないだろう。

「……、プロポーズを断ったからシエナに居にくくなったの」
「プロポーズ?! 誰からだ!?」
「恋人でもなかった、友人だった人」

 誕生日だったあの日、靴をもらった時だって、指輪を差し出された時だって、なんとなく、雰囲気を感じ始めた時から、私はこの町においてきた物のことで頭がいっぱいだった。受け取ることもできた指輪を受け取らず、靴だけ履いて、迷うふりをした。すぐに靴擦れしてしまったから、私は、突き動かされるように故郷を目指した。

 ちらりと、兄の反応を窺う。眉間にしわをよせているにも関わらず、しみじみと頷いている。想定通りの反応に、私はひそかに胸をなでおろした。


「いい……判断だ……」


 私の恋愛事情が絡んだとき、兄の手のひら返しと来たら天下一品に違いない。何が「いい判断」だ。私は一生結婚を許されなさそうである。

「ほらもう、できあがるから」

 パスタを湯から上げれば、キッチンいっぱいに立ち込める湯気。昔、兄はペンネは嫌だと言い張った。なんでだろう。ペンネの穴から覗いた先に悪魔でも見たんだろうか。どうでもいいことを考えながら、引き上げたパスタを母のレシピ通りのソースに絡めた。真っ赤になってく。今回は試作だ。兄には毒見をしてもらおう。


「ところでお前のあの幼馴染、ガキ共、ジッロとC、だったか」


 湯気がはけ、再び兄の姿も見えるようになる。私たちはダイニングテーブルを囲んだ。そうして食事をするときに、肝心な話を切り出す悪い癖。
 なんとなく感づいてた。兄は目的ができたから、ここに戻ってきたのだと。けれどまさか兄の口から(名前を間違えているとしても)ジョットとGの話がでるなんて、一番の想定外だ。私は持ち上げたフォークをパスタにつけるまえに一旦置くことにした。兄はさっそくフォークを口に運んでる。咀嚼して、飲み込まれるのを待つ。

「私の幼馴染はジョットとG。覚える気ないでしょ、それで? ふたりがどうかした」
「どう交友しようと昔ほど厳しく言うつもりもないが……いや、今だから厳しく言おう」

 アラビアータが辛かったのだろうか。それとも、頭に血が上ったのか。兄の顔があっという間に紅潮しはじめる。


「さっき金髪はごまかしたつもりのようだが、この町には今、不穏な動きがあるときいた。銃声もどこのかわからんが、あいつらも武装しているだろう」


 撃ったのはジョットのところの人ではないよ。とっさに言葉にしそうになって、堪えた。確信なんてない。そうであってほしいという、私の願いだ。そうであることも、信じている。けれど兄の言葉を全否定できないほど、確かに今のこの町は、8年ぶりに戻ってきた私たちから見ると普通ではなかった。それでも私はとぼけたふりをして小首をかしげる。兄の顔は一層赤らみ、汗を滲ませる。そんなに怖い顔を向けられたことは今までになかった。


「JだかGだかCだかD知らん。ジッロだかジョットだかプリーモだか知らん。奴らは呼び名が多すぎる。いいか、お前たちが幼馴染だろうが、なんだろうが、エルザ、お前はボンゴレに深入りするなよ」


 時々兄を本当に怖いと思う。黒い髪とヘーゼルの瞳が、何一つ私と似ていないから。父親の顔を知らない私と違って、10年分長く生きてる兄が知っているいくつかのことを考えると、この人には何一つ敵わないとおもうから。その兄が警鐘を鳴らす。私の大切な幼馴染を、まるで、人食いワニみたいに。その川には入るなと、強く腕を引くように。
 この森の奥にいる私の幼馴染は、怪物でもないのに。


「私、ジョットが初恋だったけど今はそういうのじゃないよ」


 明日、兄を送り出す前にボンゴレロッソを作ってみよう。兄は大いに顔をしかめるだろう。今の私の答えにだって「そうじゃない」と言いたそうにして、また口にアラビアータを運んでる。
 わかってる。さすがに私も馬鹿じゃない。幼馴染二人の自警団を警戒しろということ、ベルの言いたいこと、分かってる。分かってるよ。投げやりに言葉にしそうになったから、パスタを口に運んでごまかした。

 分かってなんていない。私には、分かる筈もない。ペンネの穴を覗いたように、皆が遠くにいるように感じた。ジョットもGも、また兄も。私はこうして、埋まらない8年間を毎日のように悔いている。

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