水浅葱の夏3
太陽が近い。暑い。露出した腕や足はもはや熱さを超えて痛い。
肌が焼けていく感覚に体が悲鳴を上げていた。額に浮かんで大きな玉を作る汗が重力に耐えられなくなると伝って落ちていく。そうして石畳の上に落ちた汗は大きなシミを作った。
「兄貴ー、スイカ切ったって。食べる?」
そんな死にそうなくらいの暑さに耐えながら庭の池を泳ぐ鯉を眺めていると、縁側から顔を覗かせた晴がサンダルを引っ掛けてこちらへ近づいてきた。池を眺める俺の隣までやってくると晴は暑いねーと呟いて、それからは黙って同じように池に視線を落とした。しばらくそうしてると岩の陰から優雅に泳ぐ一匹の大きな鯉が現れてあっと声を上げた。
「こいつ、フジさんだよね?まだ生きてたんだ」
「ああ、お前しばらく帰ってきてなかったんだもんな。鯉は30.40くらいは余裕で生きるみたいだし、俺たちがおっさんになってもまだ生きてるだろうな」
フジさん、そう呼ばれたのは紅白という品種の鯉だった。俺たちが小さな頃からこの池に住んでいる。頭の上に小さな山のような形の赤い模様があって、当時まだ幼稚園生だった晴があれを富士山だと言い始めたのが由来だ。
あの頃からもう10年以上経つのか。池の中を優雅に泳いで行くフジさんの姿を眺めながら感慨深く思う。
「兄貴はさ、将来この家を継ぐんだよね」
「まあ長男だしな、そういう風に育てられてきたし。けど他に適任な奴が現れたらきっと親父は、そっちに任せたいって思うんじゃないか」
「そんな日はきっとこないよ。だって兄貴はなんでも出来るから、この家だって兄貴なら守れるよ」
暑さなんて感じていないというように、爽やかな笑みを浮かべてそう話す晴に目を丸める。まさか晴にそんなことを言われるとは思いもしなかった。そういえば晴がうちの学校に転入してくるまでは中々兄弟らしい時間も過ごせなかったし話もろくに出来なかった。怒涛の1学期が終わって、夏休み。ようやくゆっくりと兄弟らしい時間を過ごせているんだと改めて思うと、晴はとても大きくなったと気がつく。身長も、春に転入してきた時よりも成長しているのではないだろうか。着実に差を縮めてきていて、抜かされてしまうのも時間の問題のように感じた。
「ねえ、俺は…何になればいいのかな」
「晴?」
「兄貴が浅葱の当主を受け継いだら、俺は一体どうしたらいいの?俺には何もやりたいことなんてない、なりたいものなんてないのに、」
自嘲するような薄笑いを浮かべる晴にぐっと息を飲む。一瞬暑さも、遠くで鳴く蝉の声も全部、なにも感じなくなった気がした。
そうだ。晴も将来を悩んでいるのだ。次男だから自由に生きれる、晴にとってそれは果てしなく続く大地に一人投げ出されるような孤独感と、行くあてもなく彷徨う恐怖感と同様のものを感じさせるのだろう。俯く晴の頬を挟んで無理やりこちらへ顔を向かせる。呆けたような顔をする晴に安心させるよう微笑んだ。
「何も見つからないんだったら俺の下で働けよ。俺を一番に理解して、一番近いところで支えてくれ。俺の部下になれ」
「…うん、わかった。俺が、あんたを支える。滝真」
滝真、そう呼ばれた自身の名前に目を丸める。いたずらっ子のように目を細め笑う晴に、挟む両頬を摘んで引っ張った。
「こら、兄貴だろ。敬意を持て敬意を」
「いひゃいれす、」
目に涙を浮かべる晴に観念したかと引っ張った頬をそのまま離すと晴は両頬を包むように手で覆い恨めしそうに俺を見つめた。その頬は若干赤くなっている、力加減間違えたかと思ったが兄を呼び捨てで呼ぶような弟にはこうである。
「でも実際働く事になったら兄貴とか兄さんだとまずいよね、ご当主とか社長なんて他人行儀だしやっぱ滝真さんかな?」
「そんな先のこと心配しなくていい」
「そんなこと言わないでよ滝真さん」
「痒い」
「あっ忘れてた、スイカ食べに行こ滝真さん!」
「痒い!」
「あははー!」
駆け出す晴の後ろ姿にため息をつく。照りつける太陽。距離は近い。そのせいで喉はカラカラだ。きっとスイカはキンキンに冷えていることだろう。
晴の背を追うように歩き出す足取りは軽かった。
石畳の上に落としたシミはもう消えていた。
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