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「滝真くん」
廊下を一人ずんずんと進んでいたところ、不意に名前を呼ばれた。その低く落ち着いた声音に自然と背筋が伸びる。いったい誰だろうか、そんな風に俺を呼ぶ人物に検討もつかず徐ろに振り向けば、そこにいた予想にしてなかった人物に目を丸めた。
「あ…理事長…こんにちは」
「こんにちは。校舎内で会うのはなかなかレアだね」
「確かに。何かご用事が?」
「ああ、職員室にね。もう用も終わったから散歩がてら校内の偵察を」
放課後だしもう生徒の姿もほぼ見えないんだけどね。と残念そうに言う理事長に笑ってみせる。校内に残るのは部活や委員会がある生徒のみだろう、それでもまだ活動時間中なだけましだ。
クラスのある階ではなく美術室や音楽室などの特別教室を覗いてみるといいですよ。とおこがましくも伝えれば理事長は少し目を丸めて確かにと頷いた。
「君はしっかりしてるね。それも心配してしまうほど」
「…そうでしょうか。俺なんて全然ですよ」
「そんな事ないよ。いつ君が潰れてしまわないか、僕はとても心配だ」
理事長は困ったように笑うと窓の外に視線を移した。つられて俺もそちらに目を向ける。
夕焼けで空が赤く染まる、カラスやスズメが羽ばたき、風が木々を揺らしていた。
「そういえばこの間古くからの友人と食事をしてね。ちょっとしたことから言い合いになってしまって、そのまま喧嘩別れをしたんだ」
「へえ…理事長も喧嘩とかするんですね」
理事長が喧嘩するところが想像できなくて素直にそう言うと、理事長は目尻にシワを浮かべてはは、と声を出して笑った。
「そりゃあ君たちよりはおじさんだけど僕なんてまだまだひよっこだからね。それでもその友人のことはなんでもわかってたし機嫌を損ねるようなことをしたつもりはなかったんだ。
それでも僕の何気ない一言で彼は怒った。僕は彼のことをわかっていたんじゃなくて、わかったつもりでいただけだったんだ」
当たり前だよね、僕と彼は違う人間なんだから。
と目を伏せて少し寂しそうに笑う理事長。その綺麗な横顔に目が奪われる。整った顔立ちや目尻に浮かぶ小皺は確かに大人の色気が醸し出しているのに、それとは相反してどこか幼さが少し残った顔立ちに響の面影が重なり、口を噤んだ。理事長の顔が、彼らに血の繋がりがあることを証明している。
そして、その繋がりは加賀谷も同じなはずで。確かに言われてみれば、目元は少し似てるかもしれない。加賀谷は少し…というかだいぶ突っ張っていてもっときつい印象があるけれど。
理事長はそんな風にぼんやりする俺に目を向けるとでもね、と優しく語りかけるよう言葉を続けた。
「今度の休み、僕は彼に謝ろうと思う。彼はきっとすぐに許してくれる。彼は僕のことをよく理解してくれている、古い友人だからね」
「…そうですか」
「滝真くん。いくら親しくても全てを知り、理解することは難しいものだ。人には何かしら、他人には言いにくい秘密がある。必ずしも全てを知り、理解し、受け入れる必要はないんだよ」
微笑む理事長は立ち止まると俺の頭に手を置いた。その手のひらは温かく、優しくてどうしたらいいのかわからなくて口を閉ざす。大きな手のひらが俺の頭を優しく撫でた。
「君はよく頑張ってる。周りが君を否定しようと、僕は頑張っている君を見ているよ」
「理事長、」
「さて、そろそろ行かなきゃ。これから理事会なんだ。滝真くん、何かあったら僕のところへおいで」
助けてあげる。そう言って笑う理事長に心臓が信じられないほどきつく、ぎゅっと締め付けられた。
そんなこと、そんな風に言われてしまえば俺は耐えられなくなってしまう。聞くまでもない、そんなもの、…今すぐにだって助けてほしいに決まってる。
俺が望んでいたのはこんな未来じゃないんだ、岩村も戸際も、北条も…秋も、響だって。みんなが揃う生徒会で俺は学園を変えていきたいと、そう願ってたのに。そんな未来を目指してたはずなのに。
なんで、こうなってしまったのか。今すぐにでも縋り付きたい気持ちを必死に押し殺す。頭を下げ、ありがとうございます。と小さく絞り出すように声を発する。
理事長は物憂げな目で俺をじっと見つめると、優しい手付きで肩を抱き寄せた。
「本当に、君は目が離せないね…全く」
「りじちょ、」
「滝真くん、違うだろ?」
肩口に額を押し付けるように顔が埋まる。理事長の低い声が耳元で囁き、鼓膜を震わして、その距離の近さに熱が集まって行く。理事長の手のひらが後頭部を包んで、もう片方の手で腰を引き寄せられ。俺はまるで子供のように優しく抱きしめられていた。
「…竜都さん」
「ん。…偉いね。いい子だ」
竜都さんは満足したようにゆっくりと体を離した。
離れて行く熱に口を閉ざし竜都さんをじっと見つめる。その手のひらがもう一度、仕方ないなと言うように頭をゆっくりと撫でた。
「君が助けを求めるなら僕はいつだって手を差し伸べるよ。決めるのは君だ、滝真くん」
「…はい」
「よく考えて。それじゃあ、またね」
そう言って、背を向けて行ってしまう竜都さんの後ろ姿をじっと見つめる。
きっとこれから、今後のことをきちんと考えなければならない。彼らのことを全てを知ることは出来なくとも、それでも俺は会長だ。彼らを理解し受け止めなければならないのだ。理事長のいう通り、全ては無理だったとしても。
きつく握った手のひらは熱く、夕焼けの赤は目に焼き付いてしばらく離れなかった。
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